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私、アンナ伯爵令嬢は、二人の男性のどちらと婚約しようかと悩んでいるうちに、二人から同時にフラれてしまいました。でもソレ、私がどちらの男も選ばなかったってだけだから!性悪姉妹の陰謀?なにソレ?知るか。

作者: 大濠泉

◆1


 アンナ・テレジア伯爵令嬢は、乗馬が大好きだ。

 金髪を風になびかせながら、馬に乗って野原を走ったり、山奥にまで分け入って駆けるときが一番楽しい。

 もちろん、馬のお世話も、結構、大変だけど面白い。

 農耕馬だろうと、戦場を疾駆するサラブレッドだろうと、どの種類の馬であっても繊細な心を持っており、相当に賢い。

 彼ら、彼女らの気持ちを察しながら、遠出をしたり、人参などの餌を与えたり、大きな身体を洗ってあげるのが好き。


 馬は、様々な場所で活躍して、私たちの暮らしの中に溶け込んでいる。

 農村では荷馬車を引き、街中では馬車を引き、戦場では鎧を着込んだ騎士を乗せて疾駆する。

 そんな、陰の力持ち的なところも大好きだ。


 私、アンナが、幼少の頃から、あまりに馬に馴染んでいるので、「馬令嬢」という名誉ある(?)渾名で(ささや)かれているのは承知している。


 が、そうした私の嗜好も、結構、皆様のお役に立っている。

 我がアーバン王国の外交にも一役買っていたりする。

 外務省からの依頼で、外国からの賓客と乗馬をご一緒して、楽しむこともある。

 他の貴族家が所有する馬の面倒も見たりして、馬愛好家の貴族紳士から重宝がられたりもする。

 騎士団の騎馬隊の方々とも、馬を介して交流している。



 だけど、そうした私の活躍(?)を、(こころよ)く思わない人々も存在する。


 ある春の昼下がり、派閥の同門同士のお茶会にてーー。


 パイ侯爵家の姉妹、二十歳のミレーと十八歳のメリルが、扇子で口許を隠しつつ、私、アンナを冷笑する。


「アンナさん。

 貴女ももう十八歳におなりなのですから、あまり馬なんぞに入れ込むのは感心しませんことよ。

 伯爵家のご令嬢とは思えない、ご趣味ですわ。

 貴女がなさっていることは、交流などではなく、馬に執着なさる貴族令嬢を物珍しがられて、殿方にうまく使われているだけなのですよ」


「ほんと、多くの貴族令嬢が眉を(ひそ)めているのを、ご存じないのかしら。

 私たち同門派閥の足を引っ張らないでくださらない?

 貴女と結婚する殿方がおありなら、相当な物好きな方なのでしょうね」


 パイ侯爵家の姉妹が、揃って亜麻色の髪を軽く(いじ)りながら笑う。

 良い加減、聞き飽きた文句だけど、私、アンナは平気だった。

 同じような苦言を、父親のモーリス・テレジア伯爵からも散々、喰らっているから、へこたれない。

 私はティーカップを皿に置き、両手を合わせて、明るく声をあげた。


「ねえ、私、そんなだから、社交界に(うと)くて、パーティー事情にも詳しくないの。

 ですから、パイ侯爵家のミレー様、メリル様、私に殿方との出逢いが見込める、適当なパーティーや舞踏会の催しを紹介していただきたいの。

 私、物好きでもなんでも良いから、国内の誰かと早く結婚したいんですの。

 でないと、お父様や王家の思惑で、縁談を勝手にまとめられてしまうーー」


「馬令嬢」と称される私が、貴族家の令嬢らしく、社交に精を出し、男性との出逢いを求め始めたことに、パイ侯爵家の姉妹は目を丸くした。

 もちろん、口許に嘲笑を含むことを忘れてはいないが。


「『王家の思惑』って、何様なの、アンタ?

 貴女は、我がパイ侯爵家よりも家格が落ちる伯爵家の娘でしょう?

 アーバン王家が相手になさるはずがありませんでしょうに」


「ほんとよ。そもそもお転婆の貴女に、お相手が見つかるのかって話なのに」


 代々、内務省長官を輩出してきた名門パイ侯爵家の面々は、同門ながら、最近、王宮内で勢力を伸ばしつつある、私の実家、テレジア伯爵家を(うと)ましく思っていた。

 私、アンナのお父様、モーリス・テレジア伯爵が、持ち前の世渡り上手を発揮して、最近、王宮侍従長に就任し、特にマリー・アーバン王妃殿下のお気に入りとなっていた。

 王妃に懸想を働いた不埒者を即座に追い払い、その不埒者が公爵という高い身分であったにも関わらず、適切に処断した功績が讃えられていた。

 現在のパイ家の当主バイデン・パイ侯爵は、寄親貴族家として、ここらでテレジア伯爵家を叩いておかねば、と焦っていた。

 そうした父親の意向を察していた娘、ミレーとメリルたちも、テレジア伯爵家の令嬢アンナに辛く当たっていたのだ。


 それでも、アンナ・テレジア伯爵令嬢は気にしない。

 もとより、そうした大人の事情を忖度(そんたく)しない傾向があった。

 本人の意識としては、そうした親たちの思惑とは一切関係なく、まったく個人的な人生設計として、アンナは一刻も早く結婚したい、と焦っていた。


「私、早く良い彼氏を見つけたい。

 私はまだ若いんだから、今のうちに、自分で恋人を選んで、身を焦がすような恋がしてみたい。

 そして、誰からも祝福される結婚をしたいの」と。


◆2


 出来るだけ早く恋人を作りたい、出来れば婚約にまで漕ぎ着けたいーーアンナ・テレジア伯爵令嬢は、そう決心した。

 だから、しばらく乗馬をやめて、パーティーに参加しまくった。


「馬令嬢」と揶揄されるアンナであったが、金髪に碧色の瞳を輝かす美貌の持ち主で、乗馬で鍛えた容姿は端麗で整っていた。

 それゆえ、いったん舞踏会やパーティーに顔を出して、着慣れないレース付きのドレスを身にまとってクルクルと舞うと、それなりに人目を惹いた。


 積極的にパーティーに顔を出したのが功を奏したのか、アンナに交際を申し込んできた男性が二人も現れた。

 それぞれ別の舞踏会で知り合ったのだが、男性とのお付き合いが初めてのアンナは、言い寄ってきた男性に、どのように応じたら適切なのかが、よくわからなかった。

 とりあえず二人の男性と交互に付き合ってみて、どちらを本命にすべきか悩んでいた。


 一人は、コモン・クロス公爵令息、二十二歳だ。

 銀髪で青い瞳をしている、酷く痩せた男性である。

 人並みに食事を摂ってはいるが、あまり太らない体質らしい。

 代々、外務省長官を輩出してきた名門クロス公爵家の長男で、当然、外務省に勤めており、若いながらも将来の長官候補と目されていた。


 もう一人は、今現在、騎士団に所属しているバジル・ヴォルフ男爵令息、二十歳だ。

 少々、潔癖症のきらいがあるものの、金髪で、碧色の瞳をしているイケメンだ。

 彼のお父上、ドズル・ヴォルフ男爵は、騎士団でもエリートと称される騎馬隊で副隊長を勤めている。

 そのおかげか、息子のバジル男爵令息も、近々、騎馬隊に編入されるとの噂だった。



 アンナ・テレジア伯爵令嬢は、自室のベッドで横たわって、腕を組んで思案する。

 

 後々の結婚生活を現実的に考えたら、コモン・クロス公爵令息の方が条件が良いのは確かだろう。

 クロス公爵家の領地は広いし、農作物や魚介類の収穫量が多いうえに、良質の鉱石を産出する鉱山を幾つも所有している。

 しかも、外務省長官を代々輩出してきた家柄ゆえに、外国からの来賓相手に晩餐会を開く機会も多いだろう。

 お淑やかな貴婦人を愛好する国内貴族とは違い、「馬令嬢」である私、アンナが伸びやかに接することができるのは、むしろ外国からの客人の方が多いことを、経験的に知っている。

 かなり忙しい毎日になるだろうけれど、外務省には他にも知り合いもいるので、安心だ。


 ただ、私、アンナ自身が、コモン・クロス公爵令息のような、ガリガリに痩せた男性を好まないことが問題だった。

 彼、コモン公爵令息はインドア派で、小難しい本を読んでばかり。

 知識があって頭は良いのかもしれないけれども、運動を好まず、少し動いたらダウンするような貧弱な身体付きをしている。

 私が、乗馬に誘っても、


「そういうことは……」


 と言って、こちらを馬鹿にしたような目で見る。


 今まで私の周りにいた男性は、体格も良く、運動神経の良い者が多かった。

 父親のモーリス・テレジア伯爵からして、若い頃は近衛騎士を務めていたほどの偉丈夫だ。

 おかげで、病人のように青白く血色の悪い肌をしている、コモン・クロス公爵令息と、末長く仲良くやっていける自信がない。

 特に、一緒にベッドを共にできると思えない。



 一方、もう一人のバジル・ヴォルフ男爵令息は体格も良く、イケメンでもある。

 おまけに声にも張りがあって、作法も紳士的だ。

 さすがは騎士団に所属し、近々、エリート集団である騎馬隊に入ると噂されるだけはある。

 私が今まで身近で知っていた男たちとタイプが似ているし、気が合いそうだった。

 普段の態度も腰が低く、私を貴族令嬢として接してくれている実感があった。


 だが、彼、バジル・ヴォルフは男爵家の嫡男だ。

 お父上のドズル・ヴォルフ男爵は今現在、エリート騎馬隊の副隊長だけれど、先の紛争で戦功を挙げて異例の出世を遂げただけで、代々、騎士団の上位職を担ってきたような名門家ではない。

 彼、バジル男爵令息が将来、その地位にまで昇っていけるかどうか、わからない。

 それにバジル・ヴォルフ男爵令息と結婚すれば、私、アンナが男爵夫人となるだけでなく、子供たちも皆、男爵令息、令嬢になる。

 もう片方のコモン・クロス公爵令息と結婚して、子供たちを公爵令息、令嬢にしてあげたかった、と母親として後悔しないか、心配だ。

 自分でも、かなり下衆(ゲス)な考えで、身分に拘泥した、みっともない気遣いだとも思うが、なまじ実家が伯爵家だから、実家の両親も勝手に、男爵夫人となった私を不憫に思うだろうから、それを想像するだけで嫌になってしまうのも事実だ。



 どちらを選べば良いか、アンナ・テレジア伯爵令嬢は、この三ヶ月もの間、真剣に悩んでいた。

 いずれは答えを出さなければならない。

 そう焦ってはいた。


 そこへ外務省勤務の彼、コモン・クロス公爵令息から、我が家に使者がやって来た。

 その白髪の使者は、(うやうや)しく頭を下げながらも、いかにも身分上の家柄からの使者に相応(ふさわ)しく、慇懃無礼な態度で言い放った。


「我がクロス公爵家の嫡男、コモン様からの伝言です。

『貴女とのこれ以上の交際をお断りします。

 何か言いたいことがおありなら、今すぐ、我がコモン家の屋敷に参られよ』」


 アンナ・テレジア伯爵令嬢は呆気に取られて、手にしていたティーカップを床に落としてしまった。


◆3


 アンナ・テレジア伯爵令嬢は、使者にお願いして、コモン・クロス公爵令息と最後の面会を求めて、馬車でクロス公爵邸に出向いた。


 クロス公爵邸の庭園テラスでは、すでにテーブルの上に豪華なデザートが食べ切れないほど並べられており、遠く離れた対面の席に、痩せぎすの男ーーコモン侯爵令息が青白い顔で座っていた。

 いつも通りに血の気のない顔をしているが、何やら楽しいことでもあったかのように、穏やかに笑っている。


「アンナ嬢、見るが良い。

 これが、我がクロス公爵家のアフタヌーンティーだ」


 私、アンナは溜息をつく。


「紅茶一杯に、豪華なデザート……ケーキに、ブリュレ、アイスクリームにカヌレ……。

 とても食べ切れるとは思えません」


「当たり前だ。

 君は食卓に並べられたものは、すべて食べ尽くそうとするが、それが貴族令嬢として、どれほど恥ずかしいことか、承知しているのか?

 それぞれの料理に少しだけ口を付けて、あとは下げてもらう。

 それがアーバン王国貴族の作法というものだろう」


「それは知りませんでした。

 私は食べ切れるだけの量の料理を出されて、それを頂くものとばかり」


「実際、今まで君と一緒にいると、粗野なランチばかりを共にすることになって、僕は恥ずかしい思いをしていたんだ」


「そうですか……それは失礼いたしました」


 テレジア伯爵家が贔屓(ひいき)にしているお店にお連れしてきましたが、クロス公爵家には格落ちでしたか。

 正直、コモン公爵令息は、見るからに食が細そうで、実際に、一口だけ味わって食べ切らないので、料理人にお願いして、料理の量を極力減らしてもらっていたのだけど、それ自体が要らぬ気遣いだったようだ。

 でもやっぱり、そんなに大量に食べ残すのは、勿体無くて、私にはできそうにない。


 そんなことを考えている間も、コモン公爵令息は、グチグチと私、アンナにダメ出しをし続けた。


「君が身につける装飾品もドレスも、じつに見窄(みすぼ)らしい。

 第一、君は化粧をしているのか?

 貴族令嬢として、身だしなみがあまりにも情けなくはないか?」


 私は、素直に頭を下げる。


「それは、ごめんなさい。

 私、いつも馬の世話をしているから、ノーメイクが板についてしまって。

 やはり、女力が低すぎましたか」


 馬は鼻が敏感なので、化粧や香水の類を酷く嫌う。

 なので、私はほとんど化粧も香水もつけていなかった。

 とはいえ、そのことが、これほど貴族令息を不快にさせることだとは知らなかった。


 こうなっては仕方ない。

 コモン・クロス公爵令息とは縁がなかったということで、もう気遣うことなく、目前に並べられたデザートを手当たり次第に食べ尽くすことに決めた。

 これは無作法なことではない。

 無駄に料理を破棄することなきよう、配慮した結果である。

 私はフォークとスプーンを手にして、次から次へとデザートを平らげていく。


 その姿を目にして、ウプッと吐き出しそうになりながら、コモン公爵令息は話を続けた。

 

「とにかくだ。

 そんな君と僕とでは、どうにも育ちが合わないと思う。

 だから、僕が他の令嬢との縁談の方へと気移りしたのを、(とが)めないと助かる。

 仕方ないんだよ。

 貴女よりよほど魅力的な令嬢とお付き合いすることになっているのでね」


 私は、薄切りにされたリンゴをシャリシャリ噛み砕きながら、うなずく。


「わかりました。

 貴方のお好きなように」


 と、無言のうちに意思表示した。


 が、そうした開き直った態度が気に入らなかったのか、コモン・クロス公爵令息は、いきなり席を立ち、私、アンナに向かって指をさして糾弾した。


「ったく、君は反省ということを知らないと見える。

 僕が今まで述べていたのは、あくまで表向きの離別理由だ。

 それぐらい、理解しろよ。

 僕がほんとうに怒っているのは、君が二股をかけていたことだ。

 僕と付き合うと同時に、バジル・ヴォルフ男爵令息ともデートを重ねていただろう?

 僕を相手に二股かけるなんて、とんだアバズレもいたものだ!」


 さすがに、私は、デザートを口に運ぶ手を止めた。


「二股ってーーそんな……」


 この三ヶ月もの間、私はどちらの男性を本命にするのか悩んでいたが、そのこと自体が「二股をかけた」という非道徳行為だ、と指摘された。


 マジで?

 私としては、どちらとも婚約に至っていないのだから、フリーな身の上だと思っていた。

 これだから、男性とのお付き合いの流儀はわからない。


 でも、とにかく、道徳的な悪評が立ってしまったら、貴族家の令嬢として、今後、縁談を進め難くなってしまう。

 それはヤバい。


 私は即座に立ち上がり、深々と頭を下げると(きびす)を返し、クロス公爵邸から這々(ほうほう)(てい)で逃げ出した。



 かくして、アンナ・テレジア伯爵令嬢は、外務省にお勤めの彼氏、コモン・クロス公爵令息から、破談を言い渡された。


 が、私、アンナの心は、ちっとも傷付いていなかった。


 一方から断られた。

 だけど、大丈夫。

 もう一方がいる。


 本来なら、こちらの方ーー騎士団所属のバジル・ヴォルフ男爵令息の方が、私、アンナと性に合っているから、コモン・クロス公爵令息からフラれたのは、かえって良かった。

 これで迷いから醒めて、一途になれる。


 私、伯爵令嬢アンナ・テレジアは、バジル・ヴォルフ男爵令息と婚約し、いずれはヴォルフ男爵家に嫁ぐのだ!

 そう、覚悟を決めた。


 バジル男爵令息と結婚するうえでのデメリットについては、これからなんとかしていこう。

 私の実家テレジア伯爵家の協力も得られれば、夫バジル・ヴォルフ男爵令息の騎馬隊副隊長就任も、男爵位からの陞爵(しょうしゃく)もあり得ることだ。

 悲観することなく、将来を夢見て、夫バジルと、二人三脚で結婚生活を頑張って行こう。


 そう決心し、もとより予定されていた、バジル男爵令息とのレストランでの晩餐会に出向いた。


 ところが今度は、そのバジル・ヴォルフ男爵令息から、食卓の席に着いた途端に言われてしまった。


「アンナ・テレジア伯爵令嬢。

 悪いが、もう君とは付き合いきれない。

 君との縁談を白紙に戻してくれ」と。


 私は手にしたフォークをテーブルに戻して、


「どうしてでしょう?」


 と理由を問うた。


 すると、バジル・ヴォルフ男爵令息が、金髪を掻き上げながら、胸を張った。


「君は馬の話ばかりする。

 貴族令嬢を相手に会話をしている気がしない。

 柔らかさに欠けているんだ」


「え?

 貴方は騎馬隊員を志望しているとおっしゃられていたから……」


 バジルは騎士団に所属し、近いうちに騎馬隊に編入されると聞いていた。

 だから当然、馬について興味があるものとばかり思っていた。


 私は驚きの表情で口籠ると、相手の男性は肩を(すく)めた。


「私生活でまで、仕事の話をするのはウンザリする」


 私は下から窺うような目線で、対面の座る男の表情を見る。


「でも、正直、貴方だけは、私の馬好きを認めてくれると思っていたのに……」


 バジル・ヴォルフ男爵令息は、面倒臭そうにテーブルを指でトントン叩き、吐き捨てる。


「君は言っていたよね?

『馬から降りて騎士として堂々と勝負するのは、合理的ではない。

 騎馬のまま、短めの槍を低く構えて突撃する方が、馬の脚力を活かせる』と。

 でもね、そんなふうに馬に乗ったまま戦うのは、野蛮人だけだ。

 騎士が行う戦法ではない」


「でも、帝国ではそのように戦うと、それこそ騎馬隊の先輩方が、話しておられたからーー」


 騎馬隊に将来入る男性ゆえに、自分が事情通であることを示して、「夫の仕事に理解がある女」アピールをしているつもりだった。

 それなのに、かえって重荷になっていようとは。


「ごめんなさい」


 とりあえず、私は頭を下げたが、相手は許してくれそうもなかった。


「謝っても遅い。

 知ったように騎馬戦の話をするな。

 馬でピクニックするような、女の遊びと一緒にされるのは迷惑だ。

 そもそも馬は唾を飛ばすし、糞も垂れ流す。

 生き物はすべて臭くて嫌だ。

 淑女なら、そう思うべきではないか?」


「……」


「君とは合わなかった。

 君以上に素敵で、淑女として慎ましい女性と、僕はこの先、真剣交際をすることとなった。

 二度と連絡をしないでくれ」


「わかりました……」


 私が謝罪を述べると、それを最後に、バジル・ヴォルフ男爵令息は席を立ち、一切、料理に手をつけることなく、立ち去ってしまった。


 このレストランでは大勢の男女が食事を摂っていたので、私を置き去りに彼氏が立ち去ったのを見て、


「何があったんだ?」


「女性が、お可哀想に……」


 などと口々に(ささや)きあっているのが、こちらにまで漏れ聞こえてくる。


 でも、目の前には、二人分の豪華な肉料理が、置かれているのだ。

 私は今度こそ、しっかりとフォークとナイフを手にして、料理を頬張った。


 今日は朝から立て続けに、二人の男性から、私はフラれてしまった。

 この三ヶ月間の努力は泡と消えてしまった。

 でも、目の前には料理がたっぷりある。

 ヤケ喰いの日となった。


◆4


 アンナ・テレジア伯爵令嬢は、屋敷に帰ると、自室のベッドに倒れ込んだ。

 そして仰向けになって、天蓋のレース編みをボンヤリと眺めながら、想いに(ふけ)る。


 二人の男性ーーコモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息から好意を寄せられ、私、アンナが、どちらの男性と婚約するのかを選ぶものだと思っていた。

 本気で、どちらかと結婚するものだと思い、何度も結婚生活を夢想して、どちらがより好ましい人生になるか、と思い悩んでいた。

 ところが、私は肝心なことを忘れていた。

 向こうの男性側も、選ぶ権利があるのだ、ということを。


 彼らは私と付き合い、その結果、私と別れる決断をした。

 一方で、私、アンナは、どちらとも「結婚する」という決断ができなかった。

 そう、私に必要なのは決断だったのかもしれない……。

 ーーと思ったりもした。


 が、ゴロンと寝返りを打つと、一瞬で思考が切り替わった。


 でも、ほんとうにそうだろうか?

 必要だったのは、どちらかの男性を早くに決める、決断だったのだろうか?


 逆に考えてみよう。

 そうすれば、別の、新たな視野も開けてくる。


 考えてみれば、「決断できなかった」ということは、「どちらの男性とも、将来的に豊かなヴィジョンが描けなかった」、少なくとも「結婚に踏み切れない、何かがあった」ということではないのか?


 二人の男性からモテたと錯覚して、結局は捨てられて、どちらの男性ともゴールに辿り着けなかった。

 アンナ・テレジア伯爵令嬢は、彼らから選ばれなかったーー。

 それは事実だけど、同時にそれは、


「アンナ・テレジア伯爵令嬢が、彼ら二人ともを、選ぶことができなかった」


 ということでもある。


 私はベッドから起き上がって鏡台の前に座り、自分の顔を見る。

 金髪に碧色の瞳をした、結構、整った顔が目の前にある。

 その顔に向かって、(つぶや)いた。


 うん。そうよ。

 私はもとより「選ばれたかった」わけではない。

 自分のお相手を「選びたかった」んだ。

 だから、男性から求められたーー「選ばれた」と思われたときに、戸惑いを覚えたんだ。


 たしかに、私は「選ぶ側であること」に固執していたのかもしれない。

 逆に、「選ばれた」ことを、素直に受け取ることが必要なのかも。


「選ばれた」ことを受け入れることーーそれも、ひとつの「私の選び」ということになるのではないか?


 実際、二人の男性ーーコモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息との間で悩んで、挙句、恋を成就することなく終わって、かえってスッキリした感があった。


 私に必要だったのは、早急な決断ではない。

 じっくりとした(とら)え直しだったんだ。


 そうだ。

 これは私、アンナが「二人の男性から、選ばれなかった」ということではない。

 私が「彼ら二人ともを、選べなかった。決断できなかった」ということに過ぎなかったんだ。


 アンナ・テレジア伯爵令嬢は、椅子から立ち上がる。


(良い学びをさせてもらったわ。

 相手を品定めする前に、まずは自分がどのように生きたいかを、しっかり考えるべきなのよ。

 そして、自分の好きなように、自由に生きられるヴィジョンが見出せそうならば、たとえそれが向こう側の選びによってもたらされたのでも、素直に受け入れるべきなんだ……)


 私は、「いきなり、二人の男性から、フラれた」ことによって、ようやく新たな一歩を踏み出せるような気がした。


◇◇◇


 アンナ・テレジア伯爵令嬢がフラれた現場でもある、クロス公爵邸の庭園テラスーー。


 翌日の昼下がり、その場では、男女四人、二組のカップルが、小さな丸テーブルを囲んで、お茶を(たの)しんでいた。


「アンナが、この場面を見たら、卒倒するんじゃない?」


「悪いわよ。彼女、真剣に悩んでたみたいだから」


「そうだね。そこまで、追い討ちをかけるのはね」


「あははは」


 コモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息、そして、ミレーとメリルのパイ姉妹だった。

 彼ら、彼女らは、じつは裏で付き合っていた。

 アンナ・テレジア伯爵令嬢に言い寄ってきた、二人の男の背後に、アンナと仲が悪いパイ侯爵家の姉妹がいたのだ。


 コモン公爵令息と姉ミレー、バジル男爵令息と妹メリルは、互いに婚約する仲だった。

 パイ侯爵家姉妹の婚約する条件が整い、あとは公表するだけという段階で、アンナ・テレジア伯爵令嬢に悪戯(イタズラ)を仕掛けた。

 姉妹の婚約者、コモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息の二人を動かし、アンナ・テレジア伯爵令嬢を(もてあそ)んでやろう、と。


 あれほど化粧っ気もなく、恋愛偏差値も低いアンナ・テレジア伯爵令嬢が舞い上がり、さらにはどちらと婚約すべきかとあれこれ悩んでいるさまを、男どもーーコモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息はつぶさに見物し、パイ侯爵家の姉妹に報告しては、皆で腹を抱えて大笑いした。

 次に会ったとき、アンナに、どう言ってやろうか、どう振る舞えば、彼女をその気にさせられるのか、と男女四人で主人公を騙す計画を立てては、陰でほくそ笑んでいたのだ。


 アンナ・テレジア伯爵令嬢が二人の男性から言い寄られて悩んでいた頃、パイ侯爵家の姉ミレーは、他の面々に呼びかけたものだった。


「アンナが、どちらの男性を選ぶか、賭けてみましょうよ。

 そして、舞踏会直前に、彼女をフッてあげて、舞踏会に参加できないようにしてやるのよ!」と。


 夏に開かれる、王家主催の王宮舞踏会で、自分たちの婚約は発表される手筈になっていた。

 だから、それまでさんざんアンナ・テレジア伯爵令嬢に気を揉ませた挙句、舞踏会直前でフッてやる。

 そうすれば、エスコート役を務める彼氏が不在となって、アンナは舞踏会に出席することができず、赤っ恥を掻くことになるーー。

 そういう計画だった。


 そして、その計画は、コモン公爵令息とバジル男爵令息の二人が、ほぼ同時にアンナ・テレジア伯爵令嬢をフッたことによって、完遂された。

 あとは、王宮で舞踏会が催されていることを知りながら、自室で涙に暮れるアンナの姿を想像するだけである。


 見事にアンナを翻弄することができて、彼ら、彼女らは、紅茶が殊の外、美味しく感じられていた。

 パイ侯爵家の妹メリルも褐色の瞳をキラキラさせながら、手を合わせる。


「ミレーお姉様の計画は完璧だったわ!

 アンナは、『モテ期到来!』って、はしゃいでたもの。

 どっちのオトコを選ぶべきか、なんて悩んじゃって。

 さぞ楽しかったでしょうよ。

 あっははは!」


 妹メリルは、アンナと同年齢で同学年だった。

 でも、学園カーストでは、容姿で(かな)わないせいで、いつも上位にあったアンナの鼻をあかせてやれる、と張り切っていた。

 彼氏のバジル・ヴォルフ男爵令息に、こう言ってやれ、ああしてやれ、とアレコレ指図しては楽しんでいた。

 侯爵家の令嬢が、男爵家に嫁ぐのは珍しい。

 だが、内務省を根城にするパイ侯爵家にとって、騎士団内部に懇意となる味方を作ることは、さらなる勢力発展のために必要な政治的配慮といえた。

 強い後ろ盾がないヴォルフ男爵家にとって、パイ侯爵家と縁付くのは願ってもないことで、おかげでバジル・ヴォルフ男爵令息は、メリル・パイ侯爵令嬢のワガママを何でも聞いてやってばかりいたのだ。

 ワガママ小娘の言いなりになっている、屈強な騎士といった風情だ。


 妹カップルのイチャつきを目にしながら、コモン・クロス公爵は、神経質げに眉をひそめた。


「とはいえ、アンナ嬢はグズグズするばかりで、結局、相手を誰にするのか、決めないうちに期限切れになってしまったな」


 彼らが同時にフッたのは、王宮舞踏会を五日後に控えた段階までに別れる、と決めていたからだ。


 メリルが身を乗り出す。


「いえ、それは違うわ。

 アンナは私のバジルを好んでいた。

 だって、貴方の肉体ばかりをしげしげと眺めていたんでしょ?

 現に、最後まで彼女が執着したのは、私のバジルなんだから」


 ミレーが扇子を広げてほくそ笑む。


「あら。

 それは、私のコモン公爵令息が、先にアンナをフッていたからじゃないの?

 もっとも、伯爵家とはいっても『馬令嬢』と称されるアンナが、クロス公爵家のしきたりに合わせられるはずもないから、バジル男爵令息になびくのは仕方のないことだと思う。

 ま、どーでも良いけど」


 そう言ってから、パイ侯爵家の姉は、パチンと扇子を閉じて、膝を叩く。


「ほんと、楽しい悪戯(イタズラ)だったわ。

 だけど、ちょっと残念なところもあるわね」


「なに?」


 と妹メリルが問いかけると、姉ミレーは瞑目してお茶を啜りながら言った。


「アンナには、エスコートしてくれる男性がいないから、王宮舞踏会に来られないじゃない?

 おかげで、『私たちは、じつはお付き合いしていたのよ』って種明かしする、私たちの婚約発表の場面に出喰わすことがないじゃない?」


 バジル・ヴォルフ男爵令息は、膝をパン! と一打ちする。


「あ、そうか。

 舞踏会に参加できなくさせて、アンナ・テレジア伯爵令嬢を笑ってやろうと思ってたけど、ソッチのほうが面白かったかも」


 メリルもバジルの隣で、面白そうに肩を揺らせる。


「あははは。

 たしかに、舞踏会場で目を丸くするアンナの顔を見てみたかったわ」


 姉のミレーは、ティーカップを皿に置くと、満足そうに(うなず)く。


「私たち姉妹が揃って婚約発表すると、皆の話題になるでしょうね。

『美人姉妹、同時に婚約発表。永遠の愛を誓う』って」


 そこで、婚約者のコモン・クロス公爵令息が、横槍を入れる。


「自分で『美人姉妹』って言うかね?」


 婚約者のからかい言葉に、わざとらしくミレーは頬を膨らます。


「あら、貴方は、将来の奥方が美しくないとでも?」


「当然、そんなことはないさ」


 コモン・クロス公爵令息は、細面の顔を、婚約者ミレー・パイ侯爵令嬢に近づけ、熱い口付けを交わす。

 それを見た妹メリルのカップルも、釣られるようにキスをした。



 ところが、王宮舞踏会、当日ーー。


 目を丸くして呆気に取られたのは、彼ら、コモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息、そしてパイ侯爵家の姉妹の方であった。


 二組のカップルとして、彼らが一緒に馬車から降りて、舞踏会場に足を踏み入れた、そのときーー。

 すでに大勢の人だかりが、一組のカップルのもとに集まっていた。

 面喰らったメリル侯爵令嬢とバジル男爵令息は、口々に言い募る。


「なによ? この人だかり」


「皆、誰のもとに集まってるんだ?」


 彼らの問いを無視して、コモン・クロス公爵令息は、前方を指差す。


「見ろよ。レムルス・アーバン王太子殿下もおられるぞ!」


 レムルス・アーバン王太子は、自分たちよりも少し年長ながら浮いた話もない。

 しかも、こうした華美な舞踏会には、滅多に顔をお出しにならないというのに。

 さすがは王家主催の王宮舞踏会、といったところか。


 彼らが、居並ぶ貴族家の令息、令嬢を掻き分けて進んでいくと、人だかりの中心には、なんと、満面の笑みを浮かべたアンナ・テレジア伯爵令嬢がいた。

 しかも、強力な彼氏連れで!


 コモン、バジル、そしてミレーとメリルは、両目を見開き、生唾を飲み込む。

 彼氏のいないアンナ・テレジア伯爵令嬢は、今晩の王宮舞踏会にはエスコート役がおらず、不参加になるはずであった。

 ところが、違ったのだ。


 コモン・クロス公爵令息が、両目を見開いて、喉を震わせた。


「あ、あのお方は……!」


◆5


 アンナ・テレジア伯爵令嬢が彼氏と腕を組んで、貴族家の令息、令嬢らから注目を浴びていた。

 たしかに、アンナ伯爵令嬢に寄り添う男性は、物凄いイケメンだった。

 精悍な顔つきをしているうえに、金銀に装飾された豪華な舞踏会用の衣装の下からも、透けて見て取れるほど、筋骨(たくま)しい肉体を誇っている。

 パイ姉妹らも見惚れるほどに良い男で、自分が今現在、腕を組んでいる男どもが霞んでしまうほどだった。


 バジル・ヴォルフ男爵令息と、パイ侯爵家の妹メリルが、


「誰なんだ?」


「あの男、誰なの?」


 と(ささや)き合う。


 コモン・クロス公爵令息が、生唾を飲み込みつつ、喉を震わせた。


「あ、あのお方は……!

 テムル帝国の皇太子、マックス・テムル殿下だ!」


◇◇◇


 アンナの実家テレジア伯爵家は、馬の名産地を領有していた。

 アーバン王国で活躍している馬のじつに七割を、テレジア産馬が占めているほどだ。

 ゆえに、テレジア伯爵家から、歴代、名伯楽(はくらく)ーー名高い馬の調教師が生み出されてきた。

 その中でも、アンナ・テレジア伯爵令嬢は、歴代の調教師の中でも、特別に優秀であった。

 テレジア伯爵家が雇う馬丁や調教師といった「馬の専門家」たちでさえも、アンナには太鼓判を押した。

「馬令嬢」という通称は、伊達ではなかったのだ。


 半年ほど前、アーバン王国とテムル帝国の国交樹立二十周年を祝って、アーバン王家を介して、テレジア伯爵家が、テムル帝国の皇室に、駿馬を寄贈したことがあった。

 その馬は葦毛であったが、性格が穏やかなうえに、乗り手の意向を良く汲み取る、名馬であった。

 近年、二十六歳という若さで、数々の新たな騎馬戦術を編み出しては武勲を挙げてきた、テムル帝国のマックス皇太子が、その馬を大層、気に入った。

 しかも、伯爵家の令嬢が、じかに仔馬の頃から育て、鍛え上げた馬と聞き、俄然、その伯爵令嬢に興味を持った。


 結果、マックス・テムル皇太子からの強い要望で、アーバン王国外務省の企画で、アンナ・テレジア伯爵令嬢を招いての乗馬ピクニックが開催された。

 その際、マックス・テムル皇太子は、アンナ・テレジア伯爵令嬢に惚れてしまった。

 金髪をなびかせて、颯爽と馬を駆る、その姿に見惚れたのだ。

 彼女の鍛えられた美しい容姿と、飾らない態度に感銘を受けた。

 単に、アンナが外交における礼儀に(うと)かった側面もあったが、貴族令嬢から気さくに接せられたこと自体が、マックス皇太子にとっては初めての体験であった。


 マックス皇太子は感激のあまり、(くつわ)を並べた際、アンナ伯爵令嬢に向かって手を差し伸べた。


「アンナ・テレジア嬢。

 どうも王国の連中は、貴女の価値をわかっておられないようだ。

 ぜひ、貴女を我が帝国に迎え入れたい。

 いや、余の許へ来い。

 そうだ、結婚しよう!」


 いきなりの求婚(プロポーズ)である。

 それも、騎馬帝国とも称される、テルム帝国の皇太子から、呼びかけられたのである。

 驚いたのは、アーバン王国の外務省職員だけではない。

 アーバン王家の面々や父親のモーリス・テレジア伯爵、そして何よりも、アンナ・テレジア伯爵令嬢本人がビックリした。


 結果、アンナは反射的に、帝国皇太子からの求婚を拒否した。


 アンナは馬の育成に関わっていられたら、それだけで幸せで、政治には出来るだけ関わりたくなかった。

 権力の中枢では様々な策謀が渦巻いていることぐらい、少し歴史を(かじ)っただけでもわかる。

 当然、騎馬帝国の皇妃などになるのは、嫌だ。


 乗馬ピクニックを終えるや否や、アンナは伯爵邸に逃げ込み、外務省とアーバン王家に、帝国皇太子から求婚された事実を伏せてもらうよう、かつまた、マックス・テムル皇太子の申し出を断ってもらうよう、お願いした。


 ところが、帝国に帰還しながらも、マックス皇太子に諦める気配がない。

 政治的な案件が山積みで忙しいのに、毎月、莫大な数の、高価な贈答品がテレジア伯爵家に送り届けられ、熱い言葉が書き連ねられた恋文が同封されていた。


 その皇太子の熱意に押される形で、アーバン王家や、父親のモーリス・テレジア伯爵が、テルム帝国との結び付きを強固にするためにも、


「アンナが諦めて、帝国に嫁に行ったらどうか」


 という風潮に傾き始めていた。


 焦ったアンナ・テレジア伯爵令嬢は、帝国皇太子のラブコールから逃げるために、国内貴族相手の婚活に(いそ)しんだのだ。


 結果、思いの外、やすやすと、コモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息の二人と付き合うことができたので、彼らのどちらかを選び、婚約を結ぼうとした。

 婚約者を作りさえすれば、マックス皇太子も諦めてくれるだろう、と思ったのだ。


 ところが、結局は、その二人の男にフラれたから、アンナ・テレジア伯爵令嬢は決意せざるを得なくなった。

 マックス・テムル皇太子からの求婚を受け入れることを。


 今でも、政治闘争の渦中に首を突っ込みたくはない。

 だけど、私、アンナが馬に情熱を注いでいることを尊んでくれる男性と結婚すべきなのも確かだ、と二人の男と無理に付き合ってみて、改めて思わされていた。

 だったら、騎馬戦術の考案者であるマックス・テムル皇太子から、お相手として選ばれたことを歓迎すべきで、拒んではいられない、と思い直した。

 マックス皇太子殿下とは、馬を介した、確かな縁があったのだ。

 そう、アンナ・テレジア伯爵令嬢は信じた。


 その結果、この夏の王宮舞踏会で、私、アンナ・テレジア伯爵令嬢は、マックス・テムル皇太子と壇上に昇り、婚約を発表した。

 すると、レムルス・アーバン王太子殿下が率先して、祝福の言葉を述べてくださったので、会場にいた、アーバン王国貴族の皆から、盛大な拍手をもらった。


 ちなみに、パイ侯爵家の姉妹が、コモン・クロス公爵令息とバジル・ヴォルフ男爵令息との婚約を発表したのは、その直後のことだった。

 当初から予定されていた発表であったが、アーバン王国とテムル帝国の両国に渡る、サプライズにも近い婚約発表の後では、その価値が霞むのは仕方ない。

 パイ侯爵家姉妹たちも、会場から生暖かい拍手は送られたものの、ほんの儀礼的なもので、誰も注目せず、話題にものぼらなかった。



◇◇◇


 パイ侯爵家の姉妹ミレーとメリルの婚約は、アンナ・テレジア伯爵令嬢がテムル帝国の皇太子と婚約したというビッグニュースに掻き消された感があったが、それでも予定通りに果たされた。

 が、彼ら、彼女らの婚約は、単に人々から祝福されなかっただけでなく、明らかに呪われた顛末をもたらした。



 まず、騎士団に所属していたバジル・ヴォルフ男爵令息は、予定されていたエリート騎馬隊への編入を果たせなくなった。

 騎馬隊の騎士たちが総出で彼の参入を拒絶したのだ。

 騎馬隊に所属する先輩騎士たち皆が、バジル男爵令息に、冷たい視線をぶつけてくる。


「おまえ、アンナ・テレジア伯爵令嬢に対して、

『馬に乗ったまま戦うのは、野蛮人だけ』って言ったんだってな?

 だったら、騎馬隊(ウチ)に来るなよ」


 彼ら、騎馬隊員の内の何人かは、先の王宮舞踏会に参加していて、アンナ・テレジア伯爵令嬢から、バジル男爵令息からフラれた「自虐ネタ」を聞かされていた。

 マックス皇太子と手を取り合った姿勢のまま、アンナ伯爵令嬢はあっけらかんとした調子で、周囲に集まってきた貴族家の面々に、ぶっちゃけていた。


「私、マックス皇太子殿下のお誘いを身に余るものと感じちゃって、頑張って逃げようとしたのよ。

 だから、婚活したの。

 誰でも良いから、さっさと国内で彼氏を作ったら良いんだって」


「おいおい、アンナ嬢。

 マックス皇太子殿下と婚約発表する舞台で言うようなネタかい?」


 長身のレムルス・アーバン王太子殿下が、銀髪を掻き上げて笑いながらも、(たしな)める。

 が、当のマックス・テムル皇太子殿下が、赤い瞳を細めて、明るい口調で(さえぎ)った。


「まあ、良いじゃないか。

 アンナの、そういう素直なところも、余は気に入っておるのだ」


 酒に弱いアンナ伯爵令嬢は、先程飲んだワインが回っていたのか、顔を赤くして、


「でも、結局、フラれちゃった!」


 と朗らかな声で自虐ネタを語り、皇太子や王太子をはじめ、皆からの笑いを誘っていた。

 その際に、バジル・ヴォルフ男爵令息から、具体的にどのように言われてフラれたかを、笑顔で暴露したのだ。


 曰くーー。


「馬に乗ったまま戦うのは、野蛮人だけだ」


「知ったように騎馬戦の話をするな」


「馬でピクニックするような、女の遊びと一緒にされるのは迷惑だ」


「馬は唾を飛ばすし、糞も垂れ流す。

 生き物はすべて臭くて嫌だ」


 などなど……。


 とても「馬令嬢」と称せられるアンナ・テレジア伯爵令嬢を相手に言うべきではないセリフの連呼に、居並ぶ者は皆、大笑いした。


 が、内心で舌打ちする者も、何人かいた。

 騎馬隊に所属する騎士の面々である。


 先輩騎士たちは、バジル・ヴォルフ男爵令息を、五、六人で取り囲んで、恫喝した。


「馬に愛されてこそ、騎馬隊の騎士といえる。

 それなのに、馬のことを、

『唾を飛ばすし、糞も垂れ流す。

 生き物はすべて臭くて嫌だ』

 などと言うヤツを、仲間にするわけにはいかん」


「ほんとうだ。

 なぜ、貴様のようなヤツが騎馬隊への編入を望んだのか、理解し難い」


「どうせ、お父上のご威光があれば、出世も思いのままと勘違いしたのだろう。

 だが、実力を示せずして、我が騎士団内での出世はない」


「まさに、貴様のお父上が男爵位であるにも関わらず騎馬隊副隊長になりおおせたのも、戦場で実績を積んだからだ」


「貴様の実績は、馬嫌いを標榜して、かの『馬令嬢』を愚弄して得意になったことぐらいだ」


「我が騎馬隊でも懇意にさせてもらっていた『馬令嬢』を侮辱した挙句、帝国に嫁がせてしまうとは、とんでもない実績だな」


「我が騎士団で活用する馬の大半がテレジア産の馬だというのに、よくもヌケヌケと、そのテレジア伯爵家の令嬢を(あざけ)ることができたものだ」


 バジル・ヴォルフ男爵令息は、額に汗を浮かべながら、慌てて弁明する。


「い、いえーーそれは、我がアーバン王国の淑女なら、そうあるべきだ、と言ったまでで、貴族紳士、それも騎馬隊の騎士のことでは……」


 だが、彼の弁明は、先輩騎士たちの怒りに油を注いだだけであった。


「おい、バジルさんよぉ。

 そもそも、どうして、『馬令嬢』とも称されるアンナ嬢が、騎馬戦のことを論じてはならんのだ?

 以前、興味を持ってもらおうと、騎馬戦術の変化を説明して、彼女と歓談したのは、俺たちなんだぜ」


「そうだぞ。

 近年、テムル帝国が北方の国々との紛争を優位に決着をつけてきたのも、騎馬戦術が功を奏しているからだ。

 その新しい騎馬戦術を考案した人物こそ、マックス・テムル皇太子殿下だという噂だ」


「そのマックス・テムル皇太子殿下が、『是非、我が妻に!』と迎えようとしたのが、アンナ・テレジア伯爵令嬢だった。

 実際、彼女はじつに話し相手として、最高だったな。

 我が騎馬隊の編成についても、色々と意見を言ってもらったが、参考になることばかりだった。

 正直、我が妻や母が、彼女のように、馬を愛してくれていたら、どれほど嬉しいことか」


「ったく、夫の仕事に理解のある妻を得るというのは、望外の喜びというべきなのに」


「アンナ嬢には、俺の愛馬が怪我したときに手当てしてもらったが、治療の手際も良く、我が家の馬丁や獣医までが舌を巻いていた。

 驚くほど、馬に詳しかったぞ。

 そんな彼女を相手に『女の遊び』と(おとし)めるとは」


「さぞ、お詳しいんだろうよ。

 なんせ、バジルさんは、ドズル・ヴォルフ副隊長殿のご子息様なんだからなぁ」


 彼らは、自分たちの密かなマドンナだった女性アンナ・テレジア伯爵令嬢を袖にした新人が許せなかったのだ。


 バジル男爵令息を取り囲む騎士たちの輪は、どんどん(せば)まっていく。

 ほとんど唾が飛びかかるほどの距離で、バジルは四方八方から罵倒された。


「俺たちの総意として、言わせてもらえば、バジル・ヴォルフ、おまえを騎馬隊に入れるわけにはいかない。

 おまえを入れるくらいだったら、俺たちは騎馬隊を辞めるって副隊長に宣言した。

 署名したのは百名を超える」


「俺の馬も、アイツの馬も、皆、アンナ・テレジア伯爵令嬢の世話になっている。

 そんな名伯楽をーー有為な人材を、国外に流出させた罪は重い。

 いっそのこと、国益を損ねた罪で、おまえを投獄してやりたいくらいだ」


 結局、バジル・ヴォルフ男爵令息は青褪めて、騎士団騎馬隊駐屯所から逃げ出した。

 三日後、父親の騎馬隊副隊長ドズル・ヴォルフ男爵も辞表を提出した。



 一方、外務省で勤務するコモン・クロス公爵令息も、厳しい立場に追い込まれていた。

 父親のセンス・クロス公爵が外務省長官であったから、生まれながらにしてエリートコースに乗っていたが、そんな彼、コモンでも、職場に重い空気が充満していることに耐えきれなくなっていた。

 居た堪れなくなったコモン・クロス公爵令息は、軽口を叩いた。


「いやあ、まさか僕がフッた『馬令嬢』が、テルム帝国の皇太子妃になるかも、なんて。

 人生、何が起こるか、わかんないですよね」


 重たい沈黙に支配されていた職場の空気が、一気に軽くなって、ざわざわとした喧騒に包まれた。

 それまで押し黙っていた人々が、一気に(ささや)き始めたのだ。


 彼、コモン・クロス公爵令息が、わざわざ自分で自慢しなくとも、先日の舞踏会で「アンナ・テレジア伯爵令嬢が皇太子と婚約した」というビックニュースは、貴族社会の隅々にまで伝わっていた。

 そして、それに付随して、「コモン・クロス公爵令息がミレー・パイ侯爵令嬢と婚約し、アンナ・テレジア伯爵令嬢をフッた」という事実も知れ渡っていた。


 が、同時に皆に疑念を抱かせていた。

 舞踏会での婚約発表を当初から予定していたということは、すでにコモン・クロス公爵令息はパイ侯爵家の姉ミレーと婚約することが確定していたに違いない。

 にも関わらず、アンナ・テレジア伯爵令嬢に思わせぶりに近づき、挙句にフッたのか? と。


「それって、二股?」


「いや、二股よりタチ悪いだろ。

 二股は、不実ではあるが、まだ相手を決めかねている状態だと言い訳もできるが、コモンの坊ちゃんの場合はどうだ?

 すでにパイ侯爵家の姉ミレーとの婚約が決定しているのに、アンナ・テレジア伯爵令嬢と付き合っていたというではないか」


「それって、『馬令嬢』のみならず、婚約者のミレー・パイ侯爵令嬢にも失礼ではないか?」


「でも、その割には、パイ侯爵家のご令嬢は微笑んでいたぞ。

 ひょっとして、二人で共謀して、アンナ・テレジア伯爵令嬢と付き合うフリをして(もてあそ)んだのか?」


「もっとも、アンナ・テレジア伯爵令嬢も、そのときにはすでに皇太子に求婚されていた、というからな。

 互いに秘密を抱えての、〈お付き合いゴッコ〉をしていたってわけだ」


「でも、アンナ・テレジア伯爵令嬢には、悪意は無かろう。

 本気で皇太子妃になるのを忌避していたんだから」


「それはそうだろ。

 いきなり外国の、しかも先代の御代でようやく和平が結ばれた帝国の帝室に嫁ぐっていうんだから。

 期待よりも、不安が大きくて、当たり前だ」


「アンナ・テレジア伯爵令嬢には罪がない。

 だが、コモン・クロス公爵令息とミレー嬢の方は、どうだろう?」


「そうだよな。

 もとよりパイ侯爵家の姉妹は、アンナ・テレジア伯爵令嬢を悪く言ってばかりだったと、俺の妹は言っていたぞ」


「マジか。

 だったら、悪意で付き合うフリをして、フッてやった、というわけか。酷いヤツらだ」


「でも、良い気味だ。

 彼らもまさか、アンナ・テレジア伯爵令嬢に、テムル帝国の皇太子がすでに言い寄っていたとは、知らなかったようだしな」


「でも、コモン坊ちゃんも皮肉なことだよな。

 テルム帝国の皇太子を招いての乗馬ピクニック企画を了承したのはお父上のセンス・クロス長官だろ?

 その際、皇太子が『馬令嬢』に言い寄ったってことは、一応、箝口令が布かれてはいたが、俺たち、外務省の職員なら、皆、知ってた。

 それなのに、こんな危険な火遊びをするなんて。

 まさか、コモン坊ちゃんは、知らなかった?」


「その、まさかだろ。

 アイツ、根っからのボンボンだからな。

 外務省に入ったのも、クロス公爵家の慣例に則っただけで、世界における我が国の状況すら、まるで理解しておられんようだ。

 これだから、無試験組は……」


「でも、問題ないか?

 テムル帝国とは、これから親睦を深めなければならないのに」


 同僚や先輩たちが(ささや)き合う。

 コモンが長官の息子である手前、それまで「コモン坊ちゃん、無能説」の話題を避けていたが、一度タガが外れると止まらない。

 コモン・クロス公爵令息は、職場で縮こまり通しになってしまった。


 やがて昼過ぎになり、上司パタム・レンバ子爵によって、コモンは執務室に呼ばれた。


 パタム子爵は、いままでは、いつもコモン・クロス公爵令息に笑顔を振り向けていた。

 これまでは外務省長官である父センス・クロス公爵の威光にひれ伏して、コモン公爵令息をヨイショしていた。

 が、今日は眉間に縦皺を刻み、じつに不機嫌そうな顔をして、机を指でトントン叩く。


「コモン公爵令息。

 知っての通り、我がアーバン王国は、これからますますテムル帝国との親交を深めていく方針だ。

 だから、近い将来、テムル帝国の皇太子妃となるアンナ・テレジア嬢を愚弄した貴殿を、外務省の表に出すわけにはいかん。

 これは内務省への出向辞令だ。

 受け取りなさい」


 コモン・クロス公爵令息は、外務省から内務省の雑務部、通称「問題児部屋」に出向を命じられた。

 露骨な左遷である。


 さすがにコモン公爵令息は気鬱になった。

 外務省と内務省は犬猿の仲である。

 だからこそ、外務省長官の父センス・クロス公爵は、内務省で力を持つパイ侯爵家との繋がりを求めて、コモンをミレーと縁付かせたのだ。

 でも、今の段階で、外務省と内務省の仲を取り持つような力が、コモンにはない。

 外務省の職場で受けた以上の嫌味に晒されるだろうと、コモンは覚悟した。


 ところが、予想外に、左遷先では、コモン・クロス公爵令息は、先輩たちから歓迎された。


「おお、クロス公爵家の坊ちゃんか!」


「近い将来、帝国の皇太子妃になろうかっていう女をフッた男だ」


「そりゃあ、たいしたヤツだな」


 などと、部屋に顔を出すや否や、笑顔で迎えられた。


 ホッとしたコモン公爵令息を取り囲んで、先輩たちがそれぞれに自慢話をし始めた。


「でも、俺様もなかなかのモノだぞ。

 俺様は今の王妃マリー・アーバン様にアタックしたんだ。

 俺は(ひざまず)いて愛の告白をしてから、マリー王妃様に抱き付いたんだ。

 甘い香りがしたな。

 さすがは王妃様、良い香水を使っておいでだ。

 そしたら、近衛騎士どもに引き離され、

『ピック公爵閣下!

 マリー王妃殿下のみならず、ボイス国王陛下にも無礼とは思わないのか!』

 と来たもんだ。

 知るかよ。

 愛は身分を超えるってのを、無粋なヤツらは知らないとみえる。

 マリー王妃様は涙を浮かべて、走り去られておられたが、怒った顔をするのも、じつに美しかった。

 あの表情が間近で見られただけで、俺は自分の告白を悪いものと思わんな」


「俺は王宮の金を博打に使い込んだ。

 それでも、俺は悪いとは、ちっとも思わんぞ。

 王宮がくだらん儀式に大枚をはたくのを知ってるか?

 ウンザリするほどの額だ。

 それに比べたら、俺がチョロまかした金はわずかなものだ。

 しかも、倍にしたら、元金を戻してやろうとすら思っていた。

 それが、上手くいかなくて、ちょっと負けが込んでしまったからって……」


「俺様、バラム子爵は、博愛主義を信奉する愛犬家として、当然のことをしただけだ。

 王宮に意見書を投函して、法律の改革を要求した。

 犬にも平民と同格の市民権を与えるべきだってな。

 平民でも気軽に様々な店に入れるのに、犬はダメだなんて、おかしな話だとは思わないか?

 そもそも動物虐待する(やから)が居なくならないのは、ペットを同じ国民と認めないからだ。

 特に、主人に対する忠誠心から言えば、犬は平民どもにまさる。

 それは、犬を飼う貴族ならば、誰もが知っている厳然たる事実だ。

 なのに、俺は内務省に勤めていたんだが、上司のヤツが、俺が提出した意見書を手にして、

『平民が反発すると思い至らないのか』

 と溜息をつきやがった。

 王家の連中も、口ではペットの犬のことを家族の一員と言いながら、現状のままで良いと思ってるんだろう。

 ほんとに、我が国は上から下まで、偽善者ばかりだ!」


 彼ら、「問題児部屋」の先輩諸氏の発言を耳にして、コモン・クロス公爵令息は、薄笑いを浮かべたまま、深く吐息をはいた。


(なんだよ。非常識な跳ね返りばかりじゃないか。

 僕はこんなヤツらと同類と見做されてしまったのか……)


 これでは、出世どころか、外務省に返り咲くことすらも絶望的だと、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。



 その頃、ミレーとメリルの実家、パイ侯爵家も立場に窮していた。


 元々、テレジア伯爵家の台頭を面白く思っていないから、パイ侯爵家は家族総出で、テレジア家の者に嫌がらせをしていた。

 だが、アンナ・テレジア伯爵令嬢が、テムル帝国の皇太子の許に嫁ぐことが決定したので、対立していたパイ侯爵家の方が危うい立場に立たされてしまった。

 特に、アーバン王家をはじめ、テムル帝国との親睦を深めようとしている勢力から、冷遇された。

 パイ侯爵家のご夫妻は、王家主催の舞踏会への参加が忌避されて招待状が届かず、奥方同士の付き合いであるお茶会にも誘われなくなった。

 バイデン・パイ侯爵は意気消沈、奥方のドリス・パイ侯爵夫人は鬱気味になった。



 揃って新婚夫婦となった娘、ミレーとメリルたちの状況も、悪化するばかりだった。


 新妻メリルは、荒れる一方となった夫バジル・ヴォルフを、(なだ)めることができなかった。

 騎馬隊に入れなくなったばかりか、騎士団からも追い出されてしまって、バジルは酒乱に成り果て、拳でテーブルをぶっ叩く。


「おい、ご立派なパイ侯爵家のメリルさんよぉ!

 おまえは言ったよなぁ?

『アンナ・テレジア伯爵令嬢を()めてやりましょう。

 彼女がハマってる馬をバカにしてやるのよ!』

 って。

 そんな、くだらねえ提案をおまえがしたせいで、俺はーー。

 どうしてくれる!」


 夫バジルは、妻メリルの頬を平手打ちにする。

 体格の良いバジルの腕力は相当なものだ。

 メリルはリビングの壁にまで吹っ飛んで、床に崩れ落ちた。

 赤く腫れた右頬を手で押さえながら、メリルは涙をこぼす。

 ここ最近、夫からのDVが止むことはなかった。

 騎士団を出てからのバジルは飲んだくれて、職探しもしない。

 もとよりヴォルフ男爵家の領地は狭く、収入に乏しい。

 だから、代々、騎士団に所属して給金を貰っていた。

 だが、その給金も、もはやない。

 今後の生活費が心配だとメリルがこぼすと、夫バジルは顔を真っ赤にして吼えた。


「俺が世間からどのように悪く言われているのかを知らないのか!

 これから先、俺を受け入れてくれるところが、何処にあるって言うんだ!」


 酒を飲んでは、(ののし)り、暴力を振るう。

 バジルからのDVは一向に止みそうもなかった。

 パイ侯爵家の妹メリルは、生傷が絶えなくなって、泣くばかりとなった。



 かたや、メリルの姉ミレーは、夫コモン・クロス公爵令息が、通称「問題児部屋」に左遷されたと知って、ヒステリーを起こして、甲高い声を張り上げた。


「どうして貴方は、不用意なことを口にするのよ!

 いつも『一言多いのが欠点だ』って、私が指摘してたでしょ!?」


 ミレーは癇癪を起こし、亜麻色の髪を振り乱して、手当たり次第にモノを投げまくる。

 夫のコモン・クロス公爵令息は、屋敷から逃げ出し、公爵家の使用人小屋に寝泊まりし、やがては平民街の安宿に連泊するようになった。

 職場の「問題児部屋」から自宅へ帰ることができなくなってしまい、新妻ミレーとの仲はすっかり疎遠となってしまった。

 脆弱なコモン公爵令息には、妻のミレーに抗弁する気力すら湧かなかったのだ。

 父親のセンス・クロス公爵からも叱責されていたし、コモン公爵令息は自暴自棄となり、平民女相手に浮気するしか、憂さの晴らしようがなかった。

 その結果、妻のミレーは、公爵邸で深酒にのめり込む。

 これでは、名門クロス公爵家の後継が望めそうもなかった。

 やがて、父親のセンス・クロス公爵も外務省長官の地位を逐われて多くの権限を失い、辞表を提出して引退することになった。



 一方、その頃、お隣の大国、テルム帝国では、おめでたの報に、上は皇帝陛下から、下は市井の庶民までが湧き立っていた。


 皇太子マックス殿下が自宅に(ともな)ってきた婚約者アンナ・テレジア伯爵令嬢の妊娠が発表されたのだ。

 その結果、正式に結婚する運びとなり、婚約者アンナ・テレジアは、テルム帝国のアンナ・テムル皇太子妃となった。

 帝都を挙げてのお祭り騒ぎとなり、一週間にも渡る結婚式には、アーバン王家からレムルス王太子殿下も参列した。

 もちろん、アンナの父モーリス・テレジア伯爵も、新婦親族筆頭として参加している。

 新郎実家のテルム皇室の面々に気後れしながらも、まずは無難に儀式をこなした。

 結果、テレジア家も、伯爵から侯爵に陞爵(しょうしゃく)した。


 アンナの父モーリス・テレジアは、二重の喜びに浸っていた。


「馬ばかりにかまけて、どうなることかと思っていたらーー」


 と感極まって(むせ)び泣く。

「馬令嬢」アンナは父の背中をさすりながら、もらい泣きをしていた。



 もちろん結婚しても、アンナ・テムル皇太子妃の馬好きは変わらなかった。

 お腹が大きくなっても、長い金髪を後ろでまとめて、馬小屋の掃除をしようとして、侍女たちに止められるなどして、相変わらず、アンナは活発に活動し、


「ゆくゆくは、子供たちに乗馬を教えてやりたいわ」


 と、大きくなったお腹をさすりながら、語っているという。


 近い将来、アンナが「馬皇妃」と渾名されるのは確実だと、騎馬帝国の人々の誰もが、嬉しそうに語り合っていた。


(了)

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