2 石像の過去と少年の夢
「そ、それからどうなったのですか?」
ロジェは興奮冷めやらぬ感じで、前のめりになりながらセヴリーヌに話の続きをせがむ。
その様子は、遠い記憶の彼方にある、自分に懐いてくれたケイドシウスを思い出させて、セヴリーヌの心は久々に癒された。
『それからね……、と続けてあげたいところだけれども。ねぇロジェ、そろそろ暗くなってくる時間だわ。この姿では送ってあげることも出来ないし、危険だから、もう帰りなさい』
セヴリーヌが促すと、ロジェは辺りをキョロキョロと見回す。
「これくらいなら大丈夫です、ええと……お姉、さん」
『セヴリーヌ様と呼びなさい』
「はい、セヴリーヌ様」
『素直でいい子ね。でも、森はあっという間に暗くなるの。この辺は熊だって出るのよ?貴方が襲われでもしたら私の夢見が悪くなるから、今日はもうお終い』
「はい……わかり、ました」
ロジェはわかりやすく、肩を落とす。
『……暇な時、よければまたいらっしゃい』
思わず、セヴリーヌはそう声を掛けていた。
余計な期待を自分がしないよう、次の約束なんてしない方がいいに決まっているのに。
「よろしいのですか?」
『ええ、勿論』
セヴリーヌは心の中でにっこり笑う。
その嬉しそうな様子が、うすぼんやり沈んでいたケイドシウスについての記憶を刺激してくれる。
「また明日来ます。絶対」
『わかったわ』
「セヴリーヌ様も、そ、そこにいて下さいね!」
『見ての通り、私はここ以外どこにもいけないのだけれど!?』
違う場所になんていける訳もないのに、そんなことを言われたセヴリーヌは思わず心の中で笑う。
『それと、人との約束に絶対という言葉は使ってはいけないわ』
「わかりました。ではまた、明日。おやすみなさい、セヴリーヌ様」
『……おやすみなさい、ロジェ』
石像となったセヴリーヌは眠りを必要としない。
疲れもせず、ただ意識がその石像に張り付いているような感覚だ。
けれども、久々に、今日だけは。
お休みの挨拶というものを久々に交わした今日だけは目を閉じたいと、セヴリーヌは何となく思ったのだった。
ロジェは孤児院の院長に見つからないように、外遊びから戻って来た子供達にこっそりと紛れて大部屋へ戻ろうとした。
しかし、階段を上がったところで腕組みをしたまま待機をしていた院長にあっさりと声を掛けられる。
「ロジェ」
「……はい」
「あなた、今日の木の実拾いの当番をサボってどこに行ってたの?あなたの分までジョン達がやってくれたのよ?」
「……すみません」
ロジェは俯いて謝る。
自分が木の実を籠いっぱい拾って帰ろうとしたところに、サボっていたジョン達がやってきて籠を奪った。しかしそう説明したところで、院長は何故そんな嘘をつくの、と自分を責めることだろう。
そして、ジョン達が先生止めて下さい、ロジェの分は僕達が拾って来たんですから、と優しくロジェを庇うフリをし、まぁあなた達はなんて良い子達なの、ロジェも見習いなさい、今日のご飯は抜きよ、少しは反省なさいというところまでがセットだ。
「罰として今日のご飯は抜きです。今度は真面目にやりなさい」
「はい」
言い訳をしなかった分だけ、時間が節約できたと思いながらロジェは大部屋に宛がわれた自分のベッドに潜り込む。
縦二メートル、横一メートル。この広い孤児院の中で、それだけが子供達……ロジェに与えられた空間だ。
隣のベッドにいたアンが声を掛けて来た。
「お帰り、ロジェ。今日もご飯抜き?」
「うん」
「そっか」
アンも、ジョン達が怖くて直接ロジェを庇える訳ではない。
ただ、ご飯を抜かれたロジェに、手に入れたパンをこっそり持って来てくれる優しさを持っていた。
孤児院は老朽化が進んでいて、崩れたレンガの隙間から風が入って来る。
風だけならばまだいいが、雨の日は天井から水が滴って来る日もあった。
そこに、決してサボっていた訳ではないロジェにご飯抜きという罰が追い打ちをかける。
それは、いつものことだった。そしてそんな日々に、ロジェの身体も心も冷えたものだった。
なのに、今日はどことなく身体がポカポカしているように感じる。
明日はどんな話を聞かせてくれるのだろう、とロジェは胸に期待を膨らませながら、他のどの子よりも先に眠りについた。
***
『ケイドシウス殿下でいらっしゃいますか?はじめまして、私はハルガリン公爵家の娘、セヴリーヌと申します』
ロジェはぱちくりと目を瞬きながら、可愛らしい少女がぺこりと頭を下げる様子を眺めた。
艶やかでゆったりとしたカーブを描く蜂蜜色の髪を高価な髪留めで緩やかに纏めたその少女は、一度澄んだ緑色の大きな瞳に長いまつ毛で影を落とすと、潤んだ小さな唇の口角があげて、さくらんぼ色の頬で笑みを浮かべる。
『セヴリーヌ、様……?』
ロジェは一言も話していないのに、勝手に口が動いて言葉を紡ぐ。
いや、正確には自分はある人間の目からこの光景を眺めているだけで、この言葉を発した人間は別にいるようだった。
他人の中に入り込んでいるような感覚。
『はい。この度、イレドシウス殿下と婚約を致しまして。折角ですので、弟君でいらっしゃるケイドシウス殿下にご挨拶をさせて頂こうと思い、急なことで申し訳ございませんが、馳せ参じましたの。因みに私に敬称は不要ですわ』
『ええと……』
ケイドシウスと呼ばれたその人物が、狼狽えているのがロジェにはよくわかった。
なぜなら、この別宮を訪れる人なんて滅多にいないからだ。
しかし、何故僕はそれを知っているのだろう?とロジェは思う。
『……ところで、ケイドシウス殿下にご訪問の許可を頂こうとした時、身内に直接行った方が早いと言われ、失礼ながら先ぶれもなくこうして参ったのですが……失礼ではなかったですか?』
ケイドシウスの住んでいる別宮には、執事はいない。必要最低限のことをするメイドのみで構成されているため、取次役もいない。
生まれた時からそうした環境で過ごしているため、聞かれた意味がわからず首を傾げる。
『……失礼はないようなので安心したしました。けれども、ケイドシウス殿下も王族の一員でいらっしゃいます。イレドシウス皇太子殿下が跡を継がれた際には、たった一人の弟君にもしっかり働いて頂かないと、私が困りますの』
『僕が働かないと、困るの、ですか……?』
ケイドシウスがおずおずと尋ねると、セヴリーヌはしっかりと頷いた。
『勿論ですわ。イレドシウス皇太子殿下を支えて頂く方は、一人でも多い方が良いですもの』
『あの、けど……僕、賢くないので……』
つい最近、家庭教師もつけてもらえず文字も書けない王子だとメイドが嗤っているのを聞いたケイドシウスは、自分を恥じて俯く。
『まぁ、ケイドシウス殿下はご自分をそうご評価されておりますの?』
セヴリーヌはそんなケイドシウスと視線を合わせるように、彼に近付くとすっとしゃがんでその小さな手を握った。
きちんとその目を見つめながら、にっこりと笑って言う。
『ご無礼を承知で申し上げますが、ケイドシウス殿下はまだ五歳でいらっしゃいますよね?そのご年齢で、自分を賢くないと決めつけるのは、時期尚早が過ぎると思うのですが』
『……じゃあ、いつになったらわかるの?』
『自分が賢いか賢くないかは、自分が死ぬ時わかるのではないですか?』
『えっ……』
まさかそんな回答が来るとは思わず、ケイドシウスはきょとんとして目をパチパチと瞬く。
『ケイドシウス殿下は、イレドシウス皇太子殿下を支えるために、いつまで勉強をすればいいと思いますか?』
逆に問われ、ケイドシウスはうーん、と考える。
普通の人は、大人になるまで勉強すると聞いたことがあった。
『十八歳……でしょうか?』
恐る恐る答えるケイドシウスに、セヴリーヌはにっこりと笑って『違います』とざっくり切り捨てる。
『どんな人間も、死ぬまで勉強し続けるのですよ、ケイドシウス殿下』
『えっ……』
ぎょっとするケイドシウスに、セヴリーヌは追い打ちを掛ける。
『誰であっても人間は平等にずっと学び続けるのです。自分が選んだ、もしくは宛がわれた役割によって学ぶ内容は違いますが、等しく誰でもです』
『……』
『イレドシウス皇太子殿下を支え続けるということが、ケイドシウス殿下に与えられた役割です。それはどんな形であっても構いません。では、それを一緒に探すところからはじめましょうか』
セヴリーヌはそう言って立ち上がる。
離れていく温もりを留めておきたい気持ちを抱えながら、ケイドシウスはセヴリーヌに伝える。
『しかし、僕は……兄上より学問や武芸で目立つことのないよう、母上や父上、それに兄上からも言われております』
『まぁ……ああ、だから私が遣わされたのですね』
セヴリーヌは一度驚いて目を見開き、その後納得したように頷いて呟いた。
『ケイドシウス殿下のご心配は理解致しました。そうですね……ケイドシウス殿下ですと、仮に図書館への出入りだけでもラミア様譲りのその美しい髪色だけで目立ってしまいますね。持ち出し禁止の書物もあるのでいずれは対処しないといけませんが、最初は私がこっそり必要な教材をお持ち致しますわ』
ラミア様、とはケイドシウスの母親であると、ロジェは何故か理解している。
恐らく、ケイドシウスの意識と同化しているせいだろう。
『……その、僕、文字もまだ読み書き出来なくて……折角持って来て下さっても……』
それが恥ずかしいことだと知らなかったケイドシウスは、メイドに嗤われて良かった、と心から思った。知的そうなセヴリーヌを前に萎縮する。
『そうなのですね、教えて頂いて助かります。では文字の読み書きから始めましょう』
けれどもセヴリーヌは、嫌な顔ひとつせず笑ってそう言った。
思わずぱっと顔を上げたケイドシウスに、セヴリーヌは手を差し伸べる。
『ではこれからよろしくお願い致します、ケイドシウス殿下』
『お願い……致します、セヴリーヌ様』
『私が皇太子殿下と結婚するまで、私に敬称と敬語は不要ですわ』
『はい、セヴリーヌ』
自分とさほど変わらない小さな手を握り返しながら、兄上と結婚するまで、と頭の中で復唱した。
何故か胸が、チクリとした。
***
僕がケイドシウス殿下になった、変な夢を見たな、と思いながらロジェは目覚めた。
しかし、目覚めた瞬間あれほど鮮明だった夢は、あっという間に消えていく。
ああ、夢だったとしても、忘れたくはないのに。
「おはよう、ロジェ」
「おはよう、アン」
「昨日、珍しく早く寝たよね?」
小声で話しながら、二人はベッドを整える。まだ寝ている小さな子もいるからだ。
「うん」
「昨日、パンを持ってきたんだけど……もう要らないよね?やっぱり固くなっちゃったし……」
アンがもじもじしながら握りしめるそれを、ロジェは見た。
「ううん、貰ってもいいかな?いつもありがとう」
優しく微笑んで手を伸ばすと、アンは嬉しそうに顔を綻ばせてそれを手に握らせる。
「ふふ、ジョン達に見つからないように気を付けてね!」
「うん」
大部屋に入る子供は十二歳までで、十二歳から十五歳は男女で部屋が分かれる。
ジョンはもう十二歳になったから大部屋に入って来ることはまれなので、ロジェは固くパサついたそれを、自分のベッドの上で少しずつ口の唾液で溶かして飲み込んだ。
「アン、今日はご飯係でしょ?一緒に行こうよ!」
「あ、そうだね早く行かなきゃ!……じゃあロジェ、また後で!」
ロジェは他の子供と忙しなく大部屋から出て行くアンに手を振り、窓から見える森を眺めた。
「こんにちは、セヴリーヌ様」
『ごきげんよう、ロジェ。あら、その籠には何が入っているの?』
昨日と同じ道を辿り、目的地に到着したロジェはホッと安堵の溜息をつく。
石像であるセヴリーヌは今日もそこにいて、ロジェを優しく受け入れてくれた。
「木の実や山菜です。孤児院で養って貰っている僕達子供には当番があり、今日は木の実拾いの担当なのです」
『そうだったのね。では、昨日は何の当番だったのかしら?』
「昨日も……同じ当番でした。籠は他の子達に、奪われてしまいましたが……」
『何ですって? ロジェが拾った木の実を、何もしない他の子供に盗られたと、そう言ったの?』
「ええと、まあ、はい……」
『だから泣いていたのね』
セヴリーヌにずばりと言われ、ロジェは顔を伏せる。
そうだった、自分が情けなくて一人になれる場所を探し、泣いている最中に、セヴリーヌの声に導かれたんだった、と思い出す。
しかし、今となってはこう思う。籠を奪われて良かった、と。
『ロジェは悪いことなんて何もしていないのだから、堂々としていればいいのよ』
「えっ……」
『悪いのはロジェではなくその子達でしょう?恥じて俯くべきなのは、その子達だわ』
「ええと……ありがとう、ございます」
ロジェを疑うことなくきっぱりと断言するセヴリーヌに、ロジェは勝手に救われる。
ロジェの髪の色はとても珍しく、忌避の目で見られるため、いつも声をあげる前から諦めていた。そして、それが普通になっていた。
『とはいえ、今日も盗られてしまわないかしら?』
木の実や山菜が山ほど入った籠を背中から降ろすロジェに、セヴリーヌは心配そうな声を掛ける。
「今日は盗られないようにするために、帰宅時間間際を狙って帰ろうかと思っています」
『まぁ、それはいいアイデアね』
セヴリーヌの満足したような声が聞こえたところで、ロジェは早速本題に入った。
「ですからセヴリーヌ様、是非昨日の続きを教えてください」
『ええ、勿論良いわよ。ええと、ケイドシウス殿下が他国へ向かうところから、でしたわね』
「他国へ向かう?」
『そうよ。あれは、私が十七歳の時だったかしら。ケイドシウス殿下は十五歳になったところで、偶々帝国から来ていた外交官に気に入られて、帝国に渡って勉強をすることになったの』