3 想いの違い
ロジェは私をそっと自分の寝室へ運ぶと、ベッドへ寝かせる。
「では、失礼致します」
『ええ』
ロジェは小瓶をそっと私の口元にあてた。ぶるぶるとその手が震えている。
『ちょっと、私より緊張してどうするの?』
「す、すみません……」
『その小瓶を少し倒せば、眩い程の美女が拝めるのよ』
私が笑いながらそう言えば、ロジェはス、と真顔になった。
三百年経ているのに美女は言い過ぎたかしら?
「そうですね。石の色ではない、貴女本来の色を、また……」
小瓶から液体が零れ、私の口元を濡らす。
あ。
「……」
その時の、感動をどう表現したらよいのだろうか。
背中にぶわりと広がるシーツの感触。
ロジェの石鹸の匂いが鼻をかすめる。
口から息が漏れた。
心臓が動き出す。
指先がぴくりと反応した。
瞬きを繰り返す。
動ける、動かせる。
「……ロジェ」
声帯を震わせて出た音が、声となって耳の鼓膜を揺らす。
「セヴリーヌ、様……」
筋肉がやせ細っている感覚などもなく、私の身体は十八歳の、牢に入れられていた状態から再び時間を刻みだす。
腕を曲げ、自分の持ち上げた手を見た。
握って、開いてみる。
次に、目を見開いてこちらを見ているロジェの頬に手を伸ばした。
「ロジェ、ありがとう」
そっと頬を指先でなぞり、笑う。
表情筋は私の思い通りに動き、恐らく微笑を形成したと思われた。
「セヴリーヌ様……っっ!!」
ロジェは目に涙を溜めて、私の手にそっと自分の掌を重ねる。
「……温かい……柔らかい……」
「ロ、ん、んん~~っっ!!」
ロジェの顔が近付いたかと思えば急に口付けされ、私は目を白黒させる。
まだ乾いていないロジェの髪から、雫がぽたり、ぽたりと私の頬に落ちた。そのうち何滴かは、彼の涙だったのかもしれない。
「ロジェ、痛、痛いっ!」
「……っ、すみません!」
自分の怪力をすっかり忘れていたらしいロジェをじろっと睨み付け、私は掴まれていた手首をわざとらしく擦った。
「全くもう。私はロジェにそんな教育をした記憶はないわよ?」
女性には紳士であれと、あの事件の後、特に徹底的に叩き込んだはずなのに。
「はい……」
ロジェは私の上から身体を離すと、ベッドの脇に移動して跪く。
少し赤くなった私の手首に心配そうな眼差しを向けたので、私は大丈夫だと証明するために両手でベッドを押して起き上がった。
頭がくらくらするといったこともなく、本当に健康そのものだ。三百年経過しているとは到底思えない。
私は起こした身体を捻り、ベッドに腰かけるようにして足を降ろす。
「セヴリーヌ様、どこか違和感のあるところなどはございますか?」
首と手首と足首を軽く回して様子をみていると、ひとしきり反省したらしいロジェがそう尋ねて来た。
「大丈夫そう」
目を左右に動かし、首を左右に振った。
ああ、首は本当に便利だ。身体を動かさなくても見たい方向を見ることが出来るなんて。
「今、暑いとか寒いとかございますか?」
「それも大丈夫。だけど、まずは身体を清めたいのだけど」
「三百年も経っていたら、風呂の使い方も違うと思いますのでご一緒致します」
「大丈夫だと思うけれど……」
ロジェが差し出した手に、そっと自分の手をのせる。
石像の私に一生懸命伸ばしてきた小さな手がここまで大きくなったのだなと改めて思い、少し胸が熱くなる。
ゆっくり立ち上がった。眩暈もしない。足の裏に絨毯の感触。そして、下に引っ張られている感覚がする。
立っている。ああ、私は自分の足で立っているのだと思った。
一歩、足を踏み出した。自然と身体が動く。
そうだ、人は重心を移動しながら歩くのだっけ。
「私……歩けているかしら?」
「ええ、勿論です」
ロジェの支えから手を離し、今度はずり足にならないようにきちんと足を持ち上げるように意識して一人で歩いてみた。
数歩。
今度は少し早歩きに挑戦してみる。
「あっ……!」
倒れそうになった私の影が動き、私を支える。
ロジェが影を操れるということをすっかり忘れていた。
「大丈夫ですか? 絨毯の毛足が長すぎて足がもつれたようですね」
「あ、ありがとう」
ロジェは私の腕を引っ張ると、そのまますいと抱き上げた。
知らない男性に抱かれているようで、どきんと鼓動が打ち付ける。
遠い昔、高いヒールを履いて足を挫き、誰にも気付かれなかったのに第二王子殿下だけが気付いて同じように私を抱え上げてくれたことを何故か思い出した。
「本物の私はそこまで重たくはないでしょう?」
誤魔化すように早口でそういうと、ロジェはにっこり笑って言った。
「羽のように軽いので、何処かへ飛んで行ってしまわないかと心配になりますね」
ロジェはそのまま風呂場まで私を連れて行った。
「……」
「どうですか?湯の入れ方はわかりそうですか?」
「……ごめんなさい、教えて貰ってもいいかしら?」
三百年という期間は、人類が文明を発展させるには十分な期間だったらしいとその時気付いたのだった。
「湯加減は如何ですか?」
「とっても気持ちいいわ、ありがとう」
私が湯船に浸かると、ロジェは頃合いを見計らったように入室してきた。
ガウンを脱いで、タオル一枚を下半身に巻いている。
騎士のような逞しい身体を見て、もやしのようなひょろひょろとした少年がよくここまで成長したなと私は一人満足する。
「このまま髪も洗わせて頂きますね」
「……ロジェ、私の侍女みたい」
くすくすと私が笑えば、ロジェも微笑んだ。
「セヴリーヌ様は女神のようです」
「あの女は悪役令嬢だって言ってたけれど」
「ああ、平民ピンク頭女ですね」
「……」
私があの女の悪口を言う分にはなんとも思わないのに、ロジェがそう言うと違和感を覚えた。
親の背中を子供は見るのだ。心の中でも言葉遣いには気を付けなければならなかった、と反省する。
湯船に入って目を瞑り浴槽の縁に頭を置くと、ロジェが「失礼致します」と言って私の髪の毛を両手で全て束ねてそっと優しく浴槽の外に出した。
薔薇の香りの石鹸の香りが漂い、頭皮に沿ってロジェの指先が髪の中に滑り込んでいく。
ああ、髪が濡れるという感覚はこういうものだったなと三百年前の当たり前を徐々に思い出す。
「……幸せだわ」
雨に打たれるのとは違う、自ら湯に浸かるという贅沢を満喫した。
当時はそれが幸せなことだなんて、思ってもいなかったけれど。
「はい、僕も幸せです」
すっと瞼の向こう側が暗くなり、目を開ける。
あ、と思った時には反対側から覗き込むように近付いていたロジェにキスをされていた。
直ぐに離れていったロジェの顔は、私が可愛がっていた男の子ではないような気がして、胸が大きく高鳴る。
「……ロジェ?」
「すみません、我慢出来ませんでした」
「あのね、さっきは注意しなかったけれど、普通家族は口にしないものなのよ?」
帝国では違うのだろうかと思いながら、私は苦笑する。
「そうですね」
帝国でも一緒らしい。
「女性の同意なく勝手にキスをすれば問題になるわよ?」
「セヴリーヌ様にしかしませんが……気を付けます」
「ええ、気を付けて頂戴」
ロジェの大きな掌で何度も丁寧に撫でられながら、私は気持ち良さとどこかソワソワ浮き立つような気持ちの間を行ったり来たりしていた。
身体も洗いたいというロジェをなんとか締め出し、私は四苦八苦しながら一人で身体を洗う。キョロキョロと見回しても、柄の先に束子のようなものがついている掃除道具?のようなものしかなく、世の中の人はどうやって一人背中を洗っているのだろうと不思議でならなかった。
結局ロジェを呼んで、背中だけ洗って貰った。
掃除道具だと思っていたもので背中を洗うことを初めて知った。
三百年ぶりのお風呂を堪能した後、元々着ていたドレスが見当たらなかったため、
ロジェが出入口近くの籠の中に準備してくれたガウンを羽織る。
公爵家の娘だからか、華美なドレスは許されなかったものの牢の中でも囚人服ではなく簡素なドレスを着ることなら許されていた。
しかし、荷台の中から帝国の大通りを見学した時に思ったのだが、そんなドレスはとうに時代遅れのようで、出来たら新調したいと考えた。
元々着ていたドレスはどこにいったのだろうと思いながら、寝室で待っていたロジェに声を掛ける。
「ロジェ。早速頼って悪いのだけれど、一番安い服でいいから、使用人……ではなくて、平民……国民用の服を三着ほど見繕って頂けないかしら?」
親が子供に金を無心するようで心苦しいが、ないものはない。
流石に働かないと金が手に入らないことくらいはわかっているので、身分証を手に入れた後に勤め先を探して、賃金を手に入れたらロジェに返せばよいだろう。
「セヴリーヌ様の着る服は全てここのクローゼットに揃えています」
「え?」
ベッドに座っていたロジェが立ち上がり、ベッド脇の両開きのクローゼットを開くとそこには仕立てのよさそうな女性ものの服がずらりと掛けられていた。
殆どの服が女性ものの服で埋め尽くされており、ロジェ自身の服はその片隅に少しだけあるだけだ。
「こんな服……いつの間に?」
ロジェは常に身軽で荷物が少なかった為、一番大きな荷物が私だった筈だ。
いくら記憶を呼び起こしても、これらの服を運んでいた気配はなかった。
「僕達がここに到着する前に、直接ここに届ける手配をしたので」
「そ、そうなのね」
研究塔に入る一年前には、既に揃えていたことになる計算だ。段取りが早すぎるような気もするが、今となっては有り難い。
「それと……身分証を手に入れたら僕の傍を離れるつもりなのですか?」
「え?」
私は首を傾げる。
そう言えばロジェは人の心が読めるのだっけ、と口を開けるようになって改めて感じた。
まあ正直、読まれて困るようなことは考えていないのだが。
「いつまでも子供のお世話になる訳にはいかないことくらい、私でもわかっているわ」
「セヴリーヌ様のお世話は僕が一生します」
「え?」
三百年も時間を飛んで、右も左もわかっていない私を優しいロジェは心配してくれているのだろうか。
しかし、そこまで責任を感じてくれなくてもいい。
私は動ける身体を手に入れただけで、ロジェに感謝しているのだから。
私がそう言う前に、私の心を読んだロジェが先に口を開いた。
「違います。責任とかではなく……先程約束したではありませんか。僕の全てをセヴリーヌ様に捧げる代わりに、セヴリーヌ様の全てを僕に下さいと」
「ええ、怖気づいた私に勇気を与えようと思って言ってくれたわよ、ね……?」
私の言葉を聞きながらどんどん不機嫌になっていくロジェに戸惑い、最後は疑問形になってしまう。
「もう、本当にセヴリーヌ様は……っ!」
ロジェは濡れた髪をガシガシと引っ掻いた。
冷たい飛沫が手に飛んできた気がして、髪を乾かさないままのロジェが風邪をひかないか心配になる。
「ロジェ、私はここで着替えさせて貰うから、貴方は髪を乾かして頂戴?」
「家族だと思っているなら、いいじゃないですか。僕がいても」
「ええ……?」
私は眉尻を下げてちょっと困った。
本当に子供がいたら、十九の息子の前で全裸になる母親って普通なのだろうか?いややっぱり駄目な気がする。
「ロジェ、そんな子供みたいな――」
「セヴリーヌ様、僕は貴方の子供ではなく、恋人になりたいのです」
「……え?」
唐突なロジェの告白に、私は目を丸くさせた。
「駄目なんです、貴女じゃないと。四六時中考えるのはセヴリーヌ様のことだけですし、夜に自慰する時想う相手も貴女だけです。貴女だけが僕を導く女神であり、唯一の存在なのです」
「えええ……」
初めての経験に、私の頭は思考を停止する。
私はずっと、ロジェを育てたつもりでいたのだ。母親のつもりでいた。
なのに、息子だと思っていた相手から告白をされ、私はどうしていいのかわからない。
ロジェだけは決して、傷つけたくはないのに。
「ちょ、ちょっと待って……理解が、追いつかなくて……」
「いいです、セヴリーヌ様にそのつもりがなかったことはわかっていますから。少しずつわかって貰えればいいですが……、約束だけは、守って下さい」
「約束?」
「僕の全てをセヴリーヌ様に捧げる代わりに、セヴリーヌ様の全てを僕に下さい、という約束です」
「え、ええ、勿論」
私が慌てて返事をすると、ロジェはにっこり笑った。
愛し子の微笑みに、私はホッと安堵する。
「では早速、セヴリーヌ様を頂いてもいいですか?」
「ええ、ん?うん?」
ロジェはクローゼットをパタンと閉じると、私の方へ近寄って来た。
あら?私の着替えは……?
「着替えは後です。セヴリーヌ様の石化を解いた僕にご褒美を下さい」
「え?何を――ッ」
ロジェに覆い被され、唇を奪われる。
お腹のあたり、ガウン越しにロジェの熱を感じて、私の脳裏に過去何度も廃墟で見た男女の営みを思い出した。そこで漸く、ロジェが私を本気で女として見ていると思い知る。
キスの合間に必死でロジェの胸板を押し返して、顔を背けて「待って!」と叫ぶ。
ピタリと大型犬のように静止したロジェは、それでも不安そうな瞳を揺らして私をじっと見る。
なんて綺麗な、赤い瞳なのだろうと場違いにも思った。