21 身体に染みる温かさ
「……待って。約束は守るけれども、もう少し……心の準備をしたいの」
王太子妃となるべく育てられたセヴリーヌにとって、接吻は初めてだ。
もう少し正確に言えばとある貴族の宝物庫に石像として保管されていた時、その後継者に色々一方的な行為をされたことはあるが、セヴリーヌにとってそれは数に含まれていない。
因みにその貴族男性が石像のセヴリーヌにしでかした行為が家族に知れ渡ったために、セヴリーヌは博物館行きとなっている。
その男は家族に見放されて籍を抜かれたらしいが。
「はい、セヴリーヌ様。僕、焦ってしまって……すみません」
「私は何処にもいかないから」
ロジェが望まない限り、と心の中でセヴリーヌが続けると、ロジェはぴく、と眉を顰めた。
そうだった、ロジェには私の心の声が聞こえるんだっけ、と気づき、セヴリーヌは自分の失敗に気付く。
いつからロジェは、セヴリーヌを家族ではなく女として見ていたのだろうか。
『人の気持ちを理解しようとしないセヴリーヌ様には、これから本音で付き合える友人なんて出来ませんし、ましてや親の役目なんて絶対に務まりません』
ケイトリンは三百年前、イレドシウスと口論になったセヴリーヌを指差してそう言った。
それはあながち間違いではなかったと、今ならあの女の言葉に同意出来るとセヴリーヌは苦笑する。
ロジェの気持ちを理解しようとしなかったセヴリーヌは、ロジェの親にはなれなかったのだ。
「僕がセヴリーヌ様と離れることを望むなんて、一生ありません」
ロジェに寂しそうに言われ、セヴリーヌは手を伸ばしてロジェの頭を撫でた。
アカデミーに入る前、こうして頭を撫でてロジェのことをたくさん慰めてあげたかったし、褒めてあげたかった。
石化が解けた今、ようやく言葉だけではなく態度で示せるようになったものの、ロジェの頭の位置はとうにセヴリーヌより上にある。
昔は、可愛がっていたケイドシウスの背丈がセヴリーヌに追いついた時、頭を撫でたり抱き締めたりするような行為は止めた。
当時はイレドシウスの婚約者だったので変な噂の種になるようなことはやめたのだが、今はセヴリーヌの行為を咎める者は誰もいないだろう。
公爵令嬢でもなければ、帝国民でもない、戸籍すらないただの女なのだ。
「そうよね、ごめんなさい、ロジェ」
セヴリーヌはロジェに寄りかかるようにして、背伸びをする。
そしてその頬に、軽く口付けた。
ロジェは少しだけ驚いたように目を見開いたあと、ぱああ、と笑顔を向けて一気に雰囲気を柔らかくする。
「いいえ、これからセヴリーヌ様にしっかりと僕の気持ちを理解していただけるよう、努力いたします」
「ええ。けれどもひとまず、着替えをしたいわ」
セヴリーヌは漂う甘い雰囲気を振り払うように、小さく手を打ってにっこり笑った。
「お着替えも手伝います」
「いいえ、一人で大丈夫」
そんな押し問答を何回か繰り返した結果、結局ロジェが少し残念そうな顔をしつつも折れた。
「では、僕はお茶でも入れておりますから、セヴリーヌ様は好きな服にお着替えください。解石剤を手に入れるために各地を回った際、ロドヴェーヌ王国時代から続く茶屋で入手した茶葉を揃えておいたのです。セヴリーヌ様が気に入るお茶があるとよいのですが」
「ありがとう、頂くわ」
セヴリーヌが笑顔で頷けば、ロジェは服の着方がわからなければ呼んでください、と言いながらご機嫌で寝室をあとにする。
セヴリーヌは廃墟で睦み終えた女性が服を着ていたところを思い出しながら、四苦八苦しつつもなんとか服を着ることに成功した。
三百年前の衣装と比べて随分着衣の方法が簡素化していたが、とても動きやすくて機能的だ。
服の性能に感心しながら、ひとりで寝室の扉を開けることに成功したセヴリーヌは満面の笑みを浮かべて廊下に出る。
その時、玄関扉の開く音と閉まる音がして、セヴリーヌは振り返った。
「ロジェ、عندما تعود ، قل بضع كلمات!(帰って来たなら、一言くらい声をかけてよ!)……ماذا؟(え?)」
セヴリーヌの視線の先で、呆然と口を開けたままのエリオットが立っている。
急な来訪にきょとんとするセヴリーヌだったが、三百年前に身に付いた癖か、直ぐに優雅にお辞儀をするとにっこりと笑って言った。
「こんにちは、エリオット。ロジェならリビングにいるわ」
「ロジェهل توجد امرأة في غرفة ؟(の部屋に女の人?)……لا توجد طريقة للقيام بذلك(いや、あいつに限ってまさか)」
勝手に知り合いの気分になっていたセヴリーヌがロジェを呼ぼうとする前に、二人の声を聞いたのかロジェがリビングから駆け付け、セヴリーヌを庇うように、もしくは隠すように二人の間に立ち塞がる。
ロジェの背中で視界を遮られたセヴリーヌは、目をぱちくりと瞬かせた。
「エリオット、كان يجب أن أخبرك ألا تدخل المنزل دون إذن(お前……勝手に入るなと言ったはずだ)」
ロジェの声は酷く低音で、背中から怒りが滲み出ている気がする。
風が吹いていないにもかかわらず、ロジェの短い髪の毛がぶわりと重力に逆らって浮いていた。
セヴリーヌは思わず、ロジェを宥めるようにそっと自分の掌を目の前の背中に添える。
ロジェがぴくり、と身体を振るわせ、セヴリーヌに意識を向けたことがわかった。
「اإذا قلت ذلك ، احتفظ به مغلقا(そう言うなら、鍵くらいかけてよ。)أكثر من ذلك ، من هي تلك المرأة الجميلة(それより、その美人は誰なの?)」
「セヴリーヌ様、大変申し訳ありませんが、リビングで少々お待ちいただけますか?」
「セヴリーヌ……?」
「ええ、わかったわ」
セヴリーヌはロジェの背中からひょっこり顔を出すと、エリオットに小さく頭を下げてその場から撤退した。
子どもの喧嘩に、親がむやみに口を出してはいけないのだ。
ティーポットの形が変わっていなくて良かったと思いながら、その中に入ったままのお茶を、セヴリーヌはメイドを思い出しながら見様見真似でカップに注ぐ。
先にお茶をいただいてしまうのも申し訳ない気がして、ロジェが戻って来るまでテーブルに並べられた木製の箱を眺めた。
なんだろうと思い留め具を外して蓋を開ければ、中には茶葉が入っている。
三百年前は茶壷にお茶を入れて保管したものだが、今は箱に茶を入れるらしい。
箱には帝国語で何か書かれていたが、セヴリーヌには読めずに首を傾げる。
石化が解けた今、帝国語を学ばなければと強く思った。
セヴリーヌが帝国語を習うことに反対をする父はもう、いないのだから。
「ロジェ、もしかして今の女性が石像の乙女……三百年前に石化したセヴリーヌなの?」
セヴリーヌの後ろ姿をしっかりと見送ったロジェが自分に向き直るまで辛抱強く待ったエリオットは、セヴリーヌが退場するなりロジェに尋ねた。
ロジェは苦虫を嚙み潰したような顔で、「ああ、そうだ」と答える。
「なんでひとりの時に解石材を使ったんだよ……! セヴリーヌの解石は我が家門の悲願であると同時に、研究者たちが大金を積んででも列席したがる世紀の瞬間なのに!それをお前、そんなあっさりと……」
セヴリーヌが無事に解石を済ませたという安堵と同時に、少なくとも協力者である自分には先に話して欲しかったという怒りが沸いてくる。
「悪い。セヴリーヌ様を、見世物にしたくなかったんだ」
少しはエリオットに申し訳ないと思っているのか、ロジェはすんなりと謝罪をした。
あとを追う時に邪魔されそうだったからという理由なんて、思っていても言わない。
「……まあ、お前の気持ちもわかるけど。すんだことは仕方がないよね。じゃあ、さっきはなんであんなに怒っていたの?」
エリオットがセヴリーヌに害を及ぼす存在だとは思っていないだろうに、なぜロジェがセヴリーヌを隠したのかがわからずエリオットは首を捻った。
正直、挨拶くらい交わしたかったと思う。
石像の時から、遠目であっても美しいことは理解していたが、色彩を帯びたセヴリーヌはまるで美の化身であるかのような眩さを備えている美女だった。
そして、エリオットの血縁者でもある。
「お前が一番に見たからだ」
「ん? セヴリーヌが動く姿を、僕が一番に見たってこと?」
「違う。セヴリーヌ様が僕の準備した服に着替えたあと、僕が見るより先にお前がその姿を見たんだ」
完全なタイミングの問題なだけであって、ほぼ八つ当たりではないかとエリオットは呆れかえる。
しかし、単なる研究対象としての興味だけのエリオットとは違い、ロジェのセヴリーヌへの長年に及ぶ恋慕を知っているエリオットはそれを笑い飛ばすことをしなかった。
自分が他人からどう思われようと、変人と言われようと、セヴリーヌをずっとひとりの人間として大切にしてきたのはロジェなのだ。
「そうか。僕も呼び鈴を鳴らさずに入って悪かった。一日だけあげるから、それまで彼女を独り占めしていいよ」
「一日だけか」
「ロジェ、僕はこれでも随分譲歩しているつもりだよ。彼女をこれから保護するには、ハルガリン家の力を借りた方がいいでしょう?」
「ああ、わかっている。……感謝するよ」
「万が一彼女の調子がおかしくなったら、直ぐに連絡してね」
「ああ」
「ハルガリン家には報告するよ」
「ああ、任せる」
セヴリーヌが気になり過ぎて、心ここにあらず状態で頷くロジェに苦笑しながら、エリオットはロジェの家を後にした。
「セヴリーヌ様、お待たせいたしました。ひとりにしてしまい、申し訳ありませんでした」
リビングへ戻って来たロジェは、セヴリーヌに謝罪する。
「気にする必要はないわ。それよりエリオットはロジェに何か用事があったのではないの? 大丈夫?」
「はい、問題ありません」
どうやらエリオットとは喧嘩別れにならずにすんだようだとホッとしながら、セヴリーヌはロジェとのティータイムを満喫することにした。
ゆっくりと口に液体を含んでそれを飲み込む。
飲み込んだ液体が喉を通って、臓腑へと落ちていく。
温かいお茶がセヴリーヌの身体に染みわたっていくのを感じる。
当たり前の、けれどもあまりにも懐かしいこの感覚に感動し、セヴリーヌは思わず涙ぐみそうになった
こくり、こくり、とゆっくりお茶を味わうセヴリーヌをロジェはじっと観察しながら、消化器官系などの内臓関係も問題なく機能しているようだとホッと胸を撫で下ろす。
病み上がりとは異なり、固形物を与えても消化にはなんら問題はないはずだが、それでもロジェは慎重に脂質や食物繊維が少ないため消化に良いと聞いたことのあるカステラを勧めた。
「セヴリーヌ様、今の時代はお茶と一緒に、果物ではなく菓子というものを食べるのが一般的です。おひとつ試してみませんか?」
「ええ、いただくわ。ありがとう」
食具は以前と変わらないわねと思いながら慣れた手つきでフォークを使い、セヴリーヌは勧められた菓子に手をつける。
「まあ、美味しい」
こんなに高級そうな食べ物なのに庶民も食べることができるのかとセヴリーヌは嬉しくなる。
身分制度が崩壊するなんて三百年前は考えてもいなかったが、誰しもがこうした美味しい物を食べられるようになるなら、それは素敵なことだと思った。
固形物の嚥下も問題ないようだと確認しつつ、ロジェは改めてセヴリーヌを見た。
ロジェがセヴリーヌのために並べた服は、どれもひとりで簡単に着られるワンピースである。セパレートの可愛い服も用意してあったが、それはひとりで着ることに慣れた頃から並べようと決めていた。
セヴリーヌが選んだ服は、はっきりとした顔立ちの彼女に似合う真紅の落ち着いたドレスで、胸元から背中までぐるりと一周、可愛らしいレースフリルがついたものだ。
「セヴリーヌ様。今着ている服も、とってもお似合いです」
セヴリーヌの蜂蜜色の髪がよく映える。
本人に自覚はないだろうが、三百年前からセヴリーヌは赤色を好んで着ることが多かった。
恐らくハルガリン公爵家の男性の髪色が真紅であるため、セヴリーヌはその色合いを知らずのうちに求めていたのだろう。
自分の瞳の色も赤で良かった、とロジェはふんわり笑う。
「ふふ、ありがとう。ひとりでも着ることが出来たわ」
前後逆に着つつも、嬉しそうににこにことして言うセヴリーヌが可愛くてロジェはうんうんと頷く。
「そうですね、さすがです」
「それにね、とても軽くて驚いたの。庶民の服なのに着心地も悪くない……いいえ、昔私が着ていた服よりずっと良いし。素敵な服を選んでくれて、ありがとう」
「喜んでくださったなら僕も嬉しいです。ただ、前後が逆なので、あとで直しましょうか」
「……え?そうなの?」
ロジェの言葉にセヴリーヌは数回目を瞬いたあと、恥ずかしそうに顔を両手で覆ったのだった。




