16 ただそこにいるだけ
女生徒たちは喜んで何かを言いながらロジェとエリオットに近づき、エリオットが席を立つとそのままひとりの女生徒と回廊のほうへと移動する。
『あら……?』
女生徒はロジェの前に立つと、座ってお弁当を開いたままのロジェに両手で手紙を渡そうとした。
『こ、これはもしかして……!』
それはセヴリーヌが夢物語だと思っていた平民の「告白現場」というものではないかと理解し、期待に胸が高まる。
前にアンがロジェに告白めいたことをした時も目の前で観賞していたセヴリーヌだったが、あの時は殺伐とし過ぎていてセヴリーヌの中でカウントされていない。
告白現場というより、絶交現場、なんなら断罪現場に居合わせた気分だ。
セヴリーヌにとって、結婚は家門同士の結びつきだった。
貴族の男性は女性と恋愛を楽しむこともあったが、特に婚約者のいる貴族の女性が自由恋愛などというものをすれば、社交界であっという間に爪弾きにされてしまう。
よって、未亡人にでもならない限り、愛を囁く相手は婚約者か旦那様だけ。
イレドシウスとはそんな甘い関係ではなかったので、セヴリーヌは恋愛というものがどういうものかわからなかった。
ケイドシウスに告白されても、その手を握ることは家門を破滅させることや逃げることと同義で、絶対に許されないことだったのだ。
しかし、三百年も経過した今、セヴリーヌを縛るものは何もない。
石化してからサメと海亀の攻防、ロジェの影の力、様変わりした旧ロドヴェーヌ王国の街並みを見た時に匹敵する胸のときめきを抱えながら、セヴリーヌは意識を集中させて二人の様子に注視する。
しかし、ロジェは手紙を受け取らずに片手をあげてそれを拒否するような動きを見せ、女生徒は手紙を引っ込めてバッと踵を返すと校舎のほうへ走り去り、エリオットと席を外していたもう一人の女生徒も慌ててその後を追い掛けた。
『あら?もう終わってしまったのかしら……』
劇場で起承転結の転結が訪れなかった物語を見させられたような物足りない気分で、セヴリーヌは心の中でやや肩を落とす。
これは、あの女生徒をロジェが振ったということだろうか。
それにしても、手紙くらい受け取ってあげてもいいのではないだろうか。
ロジェだってそろそろ親離れをする思春期に突入する頃だろうから、女の子とお付き合いをしてみたいと思わないのだろうか。
『私たちの時代は自由に恋愛なんてできなかったから、ロジェには素敵な恋愛をして欲しいのだけど』
しかし、あの優しいロジェのことだ。
自分宛ての手紙を受け取らないで断るなんてこと、するだろうか。
相手が自分を想って書いた手紙の重たさを、ロジェが気にしないわけがない。
『もしかしたら、あの手紙を誰かに渡して欲しいというお願いだったのかしら。それならロジェが断ったのも、頷けるわ』
セヴリーヌがうんうんと心の中で納得するのを、ロジェは苦笑しながら聞いていた。
***
『なんだか最近、ロジェの様子が変だわ……』
ロジェに身体を丁寧に拭われながら、セヴリーヌはぼうと考えた。
ロジェの朝は早い。
五時には起床し、セヴリーヌに「おはようございます」と声を掛け、五時半までに身嗜みや使ったベッドを整える。
六時になるまでセヴリーヌを丁寧に磨き上げながら二人でおしゃべりを楽しむと、六時から七時まで自主学習をし、七時になると朝食を摂りに寄宿舎の食堂へ、七時半に戻って来て準備を整え、八時から開始のアカデミーの校舎へと向かう。
それが今までの流れだったのだが、あの「ロジェが告白をされたかもしれないと思ったけど勘違いだったらしい事件」が起きてから、ロジェのラブコールが止まらないのだ。
「おはようございます、セヴリーヌ様。今日も美しいですね」
『ええ、石像だからね。昨日も今日も明日も変わらない予定よ』
「大好きです、セヴリーヌ様。ずっと傍にいてくださいね」
『私も大好きよ、ロジェ。将来は石像を置いても違和感のないお家に住んでね』
「授業は楽しいですが、愛するセヴリーヌ様と離れている時間が長くて寂しいです」
『それは教授たちの許可が下りそうにないわね』
森にいた時は寂しいから一緒にいたいと言っていたのに、一緒になっても同じようなことを言うなと面白く思いながら、セヴリーヌはロジェを窘める。
ロジェももう十二歳。
親離れが来たら寂しいだろうと思うのに全くその様子が見られないので、セヴリーヌはどこか育て方を間違えたのだろうかと、なんとなく落ち着かない気持ちでいた。
親離れ……石像離れしないせいで、ロジェはすっかりアカデミーで、いや街の人たちの間でも有名になっている。
長期休暇のたびに美しい女性の石像を担いでロドヴェーヌの名所へ向かい、まるで恋人であるかのように優しくその石像に声を掛けるのだから、有名にもなるというものだ。
石像と行動を共にするロジェの呼び名が「変人」になってしまったことをセヴリーヌは心苦しく思っていたが、当の本人が全く気にせず行動を改めないのだから、もう気にするのはやめようと割り切ることにした。
「ロジェ、هل أنت هناك؟(そこにいるか?)」
「ああ、انا ذاهب الآن(今行くよ)。セヴリーヌ様、すみません。行って参りますね」
『ええ、ロジェ、気を付けて行ってらっしゃい』
そして、言葉だけならまだ可愛いですむものを、更に問題の行動がこれだ。
ロジェは事あるごとに、セヴリーヌを抱き締めるようになった。
おはようございますでハグ、行ってきますでハグ、ただいま帰りましたでハグ、おやすみなさいでハグ。
勉強の合間に疲れたので甘えさせてくださいのハグ、というのもある。
『こういうのって、なんというのだったかしら……そうそう、赤ちゃん返り?』
セヴリーヌは子どもを育てたことがないのでよくわからないが、成長した子どもが甘えたがる現象について聞いたことがある。
孤児で甘える相手が院長しかおらず、ほかの子どもの手前独り占めをできずに抑え込んでいた願望が今になって溢れ出たのかもしれない。
ただそれが、石像に対してする行動としては些かどうかというものであって。
ロジェが扉を開けると、そこにはエリオットがいた。
「エリオット、لا تنظر إلى الغرفة(部屋の中を覗くな)」
「فقط قليلا، حسنا؟(少しくらい、いいだろ)」
エリオットは、ロジェが石像を大切にしているという話を聞いて、からかうわけではなく純粋にその石像を見たがった。
しかし、いまだに部屋の中へ立ち入らせて貰えたことはなく、そのロジェの強固な姿勢がますますエリオットの関心を惹いてしまうのだ。
セヴリーヌもアカデミーでできたロジェの初めての友達に興味があるし、いくらでも部屋に呼んで見て貰っても触って貰ってもいいと伝えたのだが、ロジェは衝撃を受けたような顔をして「セヴリーヌ様は見世物ではありませんし、僕が嫌なんです」と言って聞かない。
そんなある日、いつも通りロジェを見送ると、昼休みの直後にやたら部屋の鍵がガチャガチャガチャガチャうるさく鳴った。
「セヴリーヌ様のお顔を見たら、授業に戻りたくなくなるので」と言って昼間にアカデミーから戻って来ることのないロジェにしては珍しいなと思いながら、セヴリーヌは扉を見る。
『あら?どちら様かしら?』
セヴリーヌの目の前で、ロジェではなく、ロジェの友達でもない見知らぬ男子生徒がひとり、こそこそとした様子で入って来た。
一瞬セヴリーヌを視界に入れてビクッと肩を揺らしたあと、石像だと理解して胸をなでおろしている。どうやら逆光のせいで、セヴリーヌが人の影に見えたようだ。
どう考えても怪しいその生徒の動きに、セヴリーヌは一応この場にいないロジェに話し掛けてみた。
『ロジェ、ロジェ、聞こえるかしら?ロジェの部屋に、男の子の生徒が一人入って来て机を漁っているのだけれど、これは良いのかしら?』
しばらくすると、バタバタという足音が聞こえて、バタン!と勢いよく扉が開いた。
ロジェとエリオットが飛び込んで来る。
「セヴリーヌ様、無事ですか!?」
「ماذا تفعل في هذه الغرفة؟ماذا تفعل في هذه الغرفة؟(お前、この部屋で何をしているんだ!)」
『え、ええ、勿論。そんなことより、机……』
「ああ、セヴリーヌ様に何事もなくて、良かったです……」
ロジェはセヴリーヌを四方八方から確認し、傷や汚れがないことを確認するとぎゅうと抱き締めた。
いっぽうのエリオットは、その男子生徒が握りしめている紙を取り上げ、それが何かを確認してから、ロジェに声を掛ける。
「ロジェ、.كان هذا الرجل يحاول سرقة مهمتك. خذهم إلى المعلم(こいつはお前の課題を盗もうとしていた。先生のところへ連れて行こう)」
「.شكرًا جزيلاً. سأفعل ذلك(ああ、ありがとう。そうするよ)」
そして改めてセヴリーヌに向き直って、「すみません、今日は少し遅くなるかもしれません」と寂しそうな顔で言ってから、エリオットとその男子生徒と三人で部屋の外へ出て行った。
「今日は驚きましたよね。すみませんでした、セヴリーヌ様を危険に晒してしまって」
帰宅したロジェは、着替えるより先にセヴリーヌの前で正座をして、申し訳なさそうな顔でセヴリーヌを見上げた。
セヴリーヌは心の中で首を傾げる。
身の危険を感じたのは、毒だと思っていた薬を煽った時と、海に沈んだ時と、博物館のあった町が戦火に呑まれた時だけだ。
『いいえ。それよりも、自分がいい成績を修めたいからって、人の答案を盗むような生徒が捕まって良かったわ』
正直、窃盗犯を現行犯で取り押さえる現場を目の前で見て、その取り押さえに自分も活躍できたという事実がセヴリーヌを高揚させる。
単なる石像でも、ロジェの役に立てたのだ。
その生徒は退学処分になるらしい。
やったことは許されないかもしれないが、何が彼をそんなに急き立てたのだろうかと思う。
セヴリーヌの周りにも、以前いたのだ。
親に、家門に、期待され、その重圧から逃れられず、求められる結果を出そうとしてとんでもないことに手を出してしまう令息や令嬢が。
実際に起きた物事だけ見ていては、状況は改善しない。
「そう言いながら、あの生徒の心配をするなんて、セヴリーヌ様らしいですね」
『そうかしら』
しかし、それはロジェと違って優しさからではない、とセヴリーヌは理解していた。
政策を打つ上でその背景に目を向けることが必要なだけで、王太子妃教育の結果、セヴリーヌの考え方にすっかり浸透し馴染んでしまっているだけだ。
父親の期待に応えられなかったばかりか、家門を危機に晒し、これからも石像のままであろうセヴリーヌ。
立派な王太子妃となり、イレドシウスを支え、国のために尽力するという未来はもう来ない。
勘違いをしてはいけない、ロジェがいなければ石像はただそこにいるだけなのだ。
これが、人の役に立ったと思える最後のことなのかもしれないと、セヴリーヌはしみじみ噛み締めた。




