6 変化と小さな救世主
いつも通り別宮にセヴリーヌが顔を出したその日、子猫が鳴いていることに気付いた。
子猫の鳴き声を辿ると、それは屋敷近くの木の上で、その木は太く、下の方は枝がないのでセヴリーヌが登ることは出来なかった。
『二階からなら、木に移動出来そうですわね』
『セヴリーヌ!危ないよ、僕が行くから……!』
『ふふふ、こう見えても王太子殿下の婚約者になる前までは木登りは得意でしたの。それに、臣下としてケイドシウス殿下を危険に晒す訳には参りませんわ』
セヴリーヌはケイドシウスに子猫が落ちた時の為に下で待機するよう言いながら、屋敷の二階へと駆けて行った。
やがて直ぐに、二階のバルコニーに姿を現し、『ああっ……ドレスでなければ、もっと簡単に跨げますのに……!』と言いながら、いつも木登りは乗馬用の服の時にやっていたので、と言い訳をしながら柵を跨いで掴み、もう片方の手を立派な枝に伸ばす。
正直、見ているケイドシウスの方が、心臓に悪い。
『セヴリーヌ……!危ないよ……!猫は体質的に、高いところから落ちても平気な生き物だし……!!』
一生懸命セヴリーヌを止めようとするが、セヴリーヌも必死過ぎてそれどころではない。
『ちょっと……待ってて、下さいね……!確かに、体質的にはそうかもしれませんが……、この子猫が今、感じている恐怖は……本物でしょうし』
パシ、と枝を掴み、一気に体重を木の方へ移動させて、セヴリーヌは飛び移ることに成功した。
はぁ、と息を詰めて見ていたケイドシウスの口から吐息が漏れる。
『助けて欲しい時に、それに気付いた人がいながらも眺め続けて動かないとなると、この子猫も傷付くかもしれませんし』
それは子猫だけではなく、この国の弱者にも通じるのだ、とセヴリーヌは続ける。
おいでおいで、とセヴリーヌが子猫の方へ手をそうっとゆっくり差し出すが、子猫はぶるぶると震えてそこから動けないでいた。
そんな子猫を怖がらせないように、セヴリーヌは根気よくゆっくりゆっくり、距離を縮める。
時間を掛けて傍に近寄り、その子猫を確保する。
みぁ、と自分の胸の中で安心したように小さく鳴く子猫を見て、セヴリーヌが安堵した時だった。
木の枝にドレスが引っ掛かり、セヴリーヌはバランスを崩す。
『セヴリーヌ……っっ!!』
ケイドシウスの焦った声が聞こえたと同時に、視界には木と葉と真っ青な空が映る。
全てがスローモーションで、自分の身体がゆっくりと地面に近付いていくことをセヴリーヌの脳は理解した。
背中に走る衝撃に備え、息を詰める。
『……』
しかし、来るはずの衝撃は来ない。
『良かった、セヴリーヌ……怪我はない……?』
『……ケイドシウス、殿下……?』
セヴリーヌは、大きな瞳をさらに大きくして、自分を支える真っ黒な「影」を見詰める。
セヴリーヌの胸の中から、お礼かなんなのか、みぁ、ともう一鳴きして飛び出すと、どこに隠れていたのか現れた母猫と共に去って行った。
『これは……ケイドシウス殿下の手なのですか?』
セヴリーヌは興味津々な様子で、自分を支えている「影」をつんつんと指先でつつく。
ケイドシウスは屈んだまま、気まずそうな表情を浮かべながら首を振った。
『手……ではなく、影は私の能力で……自由に操れるのです』
『……凄いですね。最初からケイドシウス殿下に頼めば早かったかもしれませんわ』
セヴリーヌはにっこり笑って、影に支えられながら地面に足を降ろす。
『ありがとうございます』
律儀に影へお礼を言うと、セヴリーヌは委縮するケイドシウスを見る。
ケイドシウスが立ち上がると、地面から地上へ伸びあがっていた影はフッと掻き消えた。
『母上から……人前でこの力を使ってはいけないと、言われていて……』
『ああ、そうなのですね。私も、その方がいいと思います』
『えっ……』
セヴリーヌの発言に、ケイドシウスはパッと顔を上げてセヴリーヌを見た。
『ですから私も、ケイドシウス殿下の能力について、知らない人には話さないとお約束致します』
『……兄上にも?』
ケイドシウスは、恐る恐るセヴリーヌに確認する。セヴリーヌは力強く頷いた。
『はい。この能力を恐れたイレドシウス王太子殿下がケイドシウス殿下を排斥する方が、国の損害になります。ケイドシウス殿下の知識と経験と発想の方がずっと、国の利益に繋がりますので、お話しするメリットを感じませんわ』
王族も貴族も力を合わせ、今後脅威となるであろう帝国に侵略されないような国造りをしていかなければならないとセヴリーヌは学んでいる。
そんな時代に内輪揉めなど、もっての外だ。
イレドシウスの機嫌を損ねるような情報をわざわざ流すなんて、セヴリーヌの選択肢には存在しなかった。
『ありがとうございま……ありがとう』
『助けて頂いたのは私の方ですよ、ケイドシウス殿下』
安心してはにかむケイドシウスにセヴリーヌは明るく返す。
それにしても、セヴリーヌが言ったことをそのまま信じるところは美徳と言えるが、王族としては非常に危うい。
これから盲目的に人を信用することは危険だとゆっくり伝えていかなればな、と思いながらセヴリーヌは気になっていたことを聞いた。
『ところで、話は変わりますが……ケイドシウス殿下は、剣は習わないのですか?』
普通、王族は護身術を含め暗殺や襲撃に備えて武術を習うのが通例である。
しかし、何回別宮を訪ねても、ケイドシウスが剣を振ったり携えているところを見たことは一度もなかった。
『剣は、禁止されているのです。あ……禁止されているんだ』
ケイドシウスが剣を持つことは、ラミアが嫌がった。
戦闘能力があるとわかれば、ケイドシウスが正妃やイレドシウスに目を付けられると思ったからだ。ならいっそ、剣を持たない姿勢を貫けばいい。そして陛下は、剣を持たない二人を守る為に別宮の外の警護だけは必要以上に厳戒にしていた。
『……そうですか、ラミア様が』
ずっと不思議だったのだ。
命を狙われる可能性もあるケイドシウスが丸腰で他人に命を預けるだけなんて、本当に安心出来るのだろうかと。
影を操る能力があれば、それを剣がわりにするのだろう。
しかし、見せてはいけないと言い含めているのであれば、問題が発生するなとセヴリーヌは考えた。
セヴリーヌはその足で、ラミアの元を訪れる。
『ラミア様、本日はケイドシウス殿下の武術の訓練のご提案に参りました』
『ケイドシウスの……?』
ラミアは困ったように、眉を顰めた。
『ケイドシウス殿下は確かに剣に代わる力をお持ちかと思いますが、それだといくつかの危険に対処出来なくなります』
『セヴリーヌ……!言わないって約束……!』
セヴリーヌの発言に、ケイドシウスは慌てる。セヴリーヌが能力について知っているとわかれば、自分が母親から怒られることは必至だ。
そんなケイドシウスに、セヴリーヌはにっこりと笑って『知らない人には話さないというお約束は致しましたが、ラミア様は当然ご存知です』と言う。
『……対処出来なくなるとは?』
しかしラミアはケイドシウスを責めることなく、セヴリーヌに会話の続きを促した。
『はい。一つ目は、ケイドシウス殿下の性格的に、困っている者が目の前にいたら力を使っても助けてしまうことです。今回は私でしたので偶々問題はありませんでしたが、今後ケイドシウス殿下が外に出る機会が増えれば、必然的にそうした場面は増えるでしょう』
『……他にもあるのかしら?』
『二つ目は、同じくこれから外に出ることが多くなった際、街中や大勢の前で襲撃される可能性もあるということです。ラミア様は能力を隠すことをケイドシウス殿下にご指導されておりますが、そのような場合はどうするか、考えておかないとケイドシウス殿下も身動きが取れなくなります』
『……』
ラミアは、俯いているケイドシウスを見た。
『その場合、ケイドシウス殿下は命優先でよろしいのでしょうか?』
『勿論です』
ラミアが頷くと、セヴリーヌは続ける。
『では、能力がイレドシウス王太子殿下の耳に入った場合、自分の身を守る武術を習ってこなかったケイドシウス殿下は不利になります。何故なら、影を操るのに条件があるからです。ケイドシウス殿下が屈んでいらっしゃったところを見る限り、恐らく影に触らないと能力の発動は出来ないということですよね?』
セヴリーヌがケイドシウスに尋ねると、ケイドシウスはそろ、とラミアの顔色を窺った。
『……ケイドシウス、セヴリーヌさんに今まで何回その能力を見せたの?』
『先程、一回だけです』
『そう……』
『ラミア様。ケイドシウス殿下の影は、奥の手として残した方がいいかと思います。どんな状況でもまずは剣で自分の身を守り、誰にも能力を知られないことが一番かと』
『……』
セヴリーヌの説得に、ラミアは難しい顔をして考え込んだ。
ケイドシウスも、そろそろ別宮にばかり籠ってはいられないだろうとは思っていた。今までは剣を握らなくて済んだとしても、これからはそうも言っていられなくなるかもしれない。
否が応でも時間は過ぎ、穏やかな母子二人きりの世界は終わりを迎えるのだ。
別宮を訪ねたセヴリーヌにケイドシウスが随分懐いているなと感じた時から、なんとなくその事実には気付いていたが、見て見ぬふりをしていた。
子供の命を守りたいから、という言い訳で、子供の好奇心や可能性を潰していい理由にはならない。他の手段を模索する時が来たのだ。
『……けれども、ケイドシウスが剣を習っていることが王妃様やイレドシウス王太子殿下の耳に入れば……』
あの二人ならば、ありもしないケイドシウスの反乱や反逆をでっち上げ、潰しにかかることだろう。
ロドヴェーヌ王国内に味方がいないラミアは頭を抱える。
『私の一番上の兄のゼドゥルは、騎士団の第五隊長を勤めております。そして、帝国にいる二番目の兄のゼヴァンが開発し、まだロドヴェーヌ王国では知られていない髪染めの薬液がこちらになります。ケイドシウス殿下の髪色ですと流石に目立つので、武術をしっかりと身に着けるまではこちらを利用されては如何でしょうか?』
『そうね……』
ラミアはセヴリーヌが手にした小瓶を受け取る。
セヴリーヌが公爵の命を受けて二人を騙している可能性はなくはない。
しかし、騙しているのであれば、ケイドシウスの情報を正妃に売るだけでよくて、何も影の能力や、それを隠していることの弱点をわざわざこちらに伝える必要はないのだ。
いつまでも自分や国王が健在な訳ではないし、その時ケイドシウスを守れるのはケイドシウス自身と、セヴリーヌのような、味方となってくれる人達だ。
『……ケイドシウスは、どうしたい?』
ラミアは、可愛い息子に尋ねた。ケイドシウスは、驚いたように目を見開く。
『僕は……母上を守るためにも、習いたい、です』
息子のキラキラとした瞳を見ながら、ラミアは微笑んで頷いた。
***
今日の夢は随分と長かったな、と思いながらロジェは他の子供達と一緒にご飯を食べる。
ロジェの心を読む能力は、影を操る能力と同じくいくつか条件があった。
一度に多人数の心を読むことは出来ない。
ロジェが一定時間相手を見なければ読めない。
それはロジェにとって、聞きたくもない声を聞かずにすむという、自分の心を守るための大事な機能であった。
だから、こんなに子供の多い食堂でも煩わしいと感じずにいられるのだ。
……あれ?
何かの違和感を覚えたが、その発見には至らず食事を終えたロジェは首を捻りながら席を立つ。食事が終われば、三歳以上の子供は全員、自分の使用した食器や食具は自分で洗わなければならない。
「今日は改修だったよな」
「俺、結構得意だぜ」
皿を洗うロジェの後ろを、ジョン達が騒がしく駆けて行く。
そうだった、今日は木の実係ではないからセヴリーヌに一番に会いに行けないな、とロジェは肩を落とす。
以前は、割り当てられる作業なんて何でも良かった。
しかし、今は違う。いつまでかかるのか、自由時間は多く取れるのか。
セヴリーヌとの時間を持てるのかどうか、それが気になって仕方がない。
「改修の仕事を割り当てられた子達は、食事後裏庭に集合しなさい」
さっさと作業を終わらせてセヴリーヌのところへ行こうと思いながら、ロジェは裏庭に向かう。
そこには、木の杭と長い板、金槌やペンキが並んでいる。
作業には十歳以上の男の子が割り当てられたようだ。
「今日は、施設と家畜小屋の周りの柵が老朽化してきたので、そこを改修して貰います」
院長がそう言い、子供達は慣れたように、はーい、と一斉に返事をする。
「ペンキは最後にね。三人ずつ一グループを作って、皆で協力して取り壊しからペンキ塗りまで今日中に終わらせるのよ。私は事務室にいるから、何かあったら声を掛けて」
はーい、と再び子供達が返事をすると、院長は「じゃあ頼んだわよ」と孤児院の中へと入って行った。
「俺達、鶏小屋の周りな!」
ジョン達三人は一番狭い、他の場所よりずっと作業量の少ない場所を勝手に担当決めする。他の子は文句も言えず、他のだだっ広い場所を分けて、じゃんけんで担当箇所を決めた。
ロジェも他の子供とグループを作り、真面目に作業をこなしていく。
本当は素手で簡単に引っこ抜けるが、道具を使いてこの原理でどんどんと引き抜いて行った。
「すごーい!ロジェ!」
他の二人が感心する中、ロジェは引っこ抜いて出た廃材を二人に運んで貰っている間、杭打ちハンマーを使って杭を立てていった。廃材を捨て終わった二人は、その杭に横板をトンカチで固定して貰う。
しかし、ロジェが余りにも早く作業をこなすので、他のグループからヘルプの声が掛かってしまった。
「ロジェ、悪いんだけどこっちも抜いてくれないかな?三人でやっても全然抜けなくて……!」
そう泣きつかれては、ロジェが断ることはない。
「うん、いいよ」
結局ジェフ達以外のグループ全体を手伝い、お昼ご飯を挟んで、ペンキで塗り終えた頃にはおやつの時間になっていた。
「やー、ロジェがいてくれなかったら、絶対に今日中なんて無理だったよな!」
「そうそう!前回改修した時、三日以上かけてた気がするんだよ。院長、今日中とか絶対何か間違えたと思う」
気持ちの良い汗を拭いながら、子供達は割り当てられた作業を完遂したことに達成感を得つつ、孤児院へと戻った。
「あれ……」
「ん?ロジェ、どうした?」
「ううん、ペンキが足りない気がして」
「ああ、まだジェフ達が使ってるんじゃない?」
「そういや、作業終わったのにペンキ持って森の方に入って行ったな」
仲間の言葉に、ロジェの胸がざわりと騒いだ。




