38.私の王子様
僕は椎茸が食べられない。
好き嫌いの問題ではなく、食べられないのだ。あのぐにゃとした歯ごたえでぐにゅっとした食感でぐじゅっとした後味のあの食材を。思い出しただけで吐き気がする。実際吐いてしまう。だから、僕は椎茸が食べられないのだ。
このお話は、椎茸が食べられない僕君と何が何でも食べさせようとするお母さんの戦いの物語です。僕君を助けてくれる彼女ちゃん。なついてくる妹ちゃん。温かく見守ってくれる友人たち。そんな仲間とともに成長していく僕君。はたして僕君は椎茸を食べられるようになるのでしょうか。
小さくてかわいい男の子。うちの店をよく利用してくれるお得意さまだ。接待で使っているようなので二十歳にはなっているのだろう。とても社会人には見えないけど。高校生……もしかしたら中学生くらいに見える。指名はしない(接待されるお客さんは店の上位のナンバーズを指名している。)ので実はヘルプの私たちにとって人気のあるお客様だ。
今日も彼はNo.1のI子の膝の上でおもちゃにされている。
「I子さん、僕、仕事中なので……」
「あら、僕君。そんなこと言っちゃっていいのかな? 社長さん、どう思います?」
「I子ちゃんの言う通り! 僕君、I子さんの言うことを聞きなさい。がははははは」
「I子さん、独り占めなんてずるいわ。私の膝も空いているわよ」
No.2のJ奈さんも争奪戦に参加してきた。
「なら、J奈ちゃんの膝には儂が……」
「やだーっ、社長さんは重量オーバーです」
僕君のお客さんの社長さんがJ奈姉さんにふざけてちょっかいを掛けるがJ奈姉さんは華麗に受け流す。I子姉さんも笑っている。冗談だとわかっているのだ。
彼のお客さんはちゃんとしている。冗談ではエッチなことも言うけれど間違っても嬢の体に触れることはない。キャバ嬢だって女の子だ。好きでもない男性に触られるのは嫌に決まっている。だから紳士的にふるまう彼は信用されているし、彼が連れてくるお客さんも信用している。
社風なのだろう。僕君を連れてきた先輩さんは不埒な真似をする相手にはお客さんであろうとちゃんと窘めていた。高身長でスポーツマンでイケメンの先輩さんに注意されると接待されているほうでも無理強いはためらってしまう。
僕君と呼ばれる彼にはそこまでの威圧感はないけれどこの店に連れてくる時点で選別しているのだろう。そのくらいには彼もこの店を好んでくれているのだと思いたい。
「社長には本当に感謝しています」
彼がお客様に頭を下げた。I子姉さんの膝の上では恰好つかないけれど。
「気にするな。若いころの失敗は金を出してでも買えと言うもんだ。うちも損をしたわけじゃない。多少在庫を抱えただけだ」
社長さんが彼の謝罪を笑い飛ばす。
どうやら彼は発注を一桁間違うというミスをして社長さんに助けてもらったらしい。今日はそのお礼の接待だそうだ。
私は知っている。中小企業が過剰な在庫を抱えるということがどういうことか。これでも大学を出てから商社で経理の仕事をやっていたのだ。昔のことだけど。
確かにP/L上では損はしていないのだろう。でも、C/Fが狂う。在庫は資産だけれど売れるまでは売買には使えない不良資産だ。社員の給料や原材料の支払いに充てる現金にはならない。その分の運転資金を銀行から借りることになる。そうすれば銀行に返す利息分を会社が負担しなければならないのだ。つまり彼はお客さんに損をさせているのだ。
でも、そんなリスクを抱えてまで社長さんは彼を庇った。つまり、取引先の社長として彼は庇うに値する人物なのだ。
「社長さん、エッチだからイヤ」
「ひどいなあ。儂は客だぞ」
「残念でした。お金を払うのは僕君なんだからお客様は僕君です。社長さんは……お連れさん?」
「払うのは僕じゃなくて会社だけどね」
「なんだと……わかった。明日も来るぞ、自腹でだ。僕君、付き合え」
そんなこと言って……本当に接待でなく自腹で飲みに来るかもしれないけれど、でも、社長さんも本当は紳士だ。みんなわかっている。
*
ぼく夢を見ていた。悪夢だった。いつものように胸をせりあがっていくよく知っている熱いもの……あれ、僕いつの間に椎茸食べたんだろう?
勘違いだった。僕は飲みすぎて路地裏で吐いていたのだ。いつ店を出たのかも覚えていない。
「大丈夫? 気持ち悪いんだったら全部吐いちゃいなよ」
優しく背中を撫でる手が言った。
「はぁはぁ……ありがとう。もう大丈夫……」
「大丈夫には見えないけど……ほら、つかまって」
優しい手に僕はそれ以上逆らえなかった。
次に気が付いたとき、僕が見たのは知らない天井だった。
「気が付いた?」
話しかけてきた相手を見る。
「誰!?」
部屋着らしいスウェットを着た女の人だった。
「酷いなぁ……て、しょうがないっか」
その女の人はおでこから眉を左手で隠した。そして右手で口元を隠す。
「……K子さん?」
感染症が流行っているこのご時世、口元を隠している姿のほうが見慣れている。額を隠したのは化粧を落として眉の形が変わっているからだろう。でも、それでわかるってのもかなり失礼だろう。
「ごめん……」
「名前覚えててくれたんだ……私みたいなただのヘルプを……」
K子さんは接待でつかうキャバクラの嬢だ。おとなしい娘で売れっ子の嬢たちのように積極的に絡んでこない(僕を抱き上げたりしない)。代わりにお客さんをもてなしてくれたりしてくれるので僕もだいぶ助けられている。だからナンバーズの娘たちより印象に残っている。僕のキャバクラ通いは仕事であって趣味ではないのだ。
「ここは?」
「私の部屋」
驚いた。きらびやかな姿しか知らない女の子の部屋だとは思えなかったのだ。1ルームマンションと思しきその部屋にはベッド以外家具らしいものが何もないのだ。よく見たら台所の隅に小さな冷蔵庫があった。でもそれだけ。女の子どころか人が住んでいるようにすら見えない。
「ごめん! ベッドを借りちゃって……うぷっ」
起き上がったとたん僕は吐き気に襲われた。
「いいから寝てなよ」
「そんなわけには……うっ」
胃の中は既に空っぽだったらしく吐かずに済んだ。よかった。女の子の部屋でゲロするなんて申し訳ない。とはいえいつ吐いてしまうかもわからない状態で他人のベッドに居座るわけにもいかない。押しとどめようとするK子さんと押し問答した末に僕はベッドに寄り掛かり床に座った。フローリングの冷たさが気持ちいい。
「君は変わってるね」
「そうかな?」
差し出されたペットボトルのミネラルウォーターを受け取りながら僕は答えた。
「そうだよ」
「そっか……」
K子さんはそれ以上言わずに僕の隣に腰を下ろすと膝を抱えて丸くなった。
二人とも黙ったままでそれでも違和感がない。静かに時が流れた。
「君は吐き慣れてるよね」
突然、K子さんが言った。
「なんでわかるの?」
「気持ち悪くなるほどお酒を飲んでも普通の人はそんなに簡単に吐けない。苦しそうに何度もえずいて、それでようやっと吐けるんだ。でも君はごく自然に指で喉奥を刺激して当たり前のように吐いていた。慣れてなきゃできないことだよ」
そうか……無意識だったけど僕はいつもそんな吐き方をしてるんだ……
「よく知ってるね」
「うん……私もそうだから」
K子さんが掲げた左手の甲には吐きだこがあった。
!?
僕は思わずK子さんの左手を掴んだ。
「……余計なもの見せちゃったね」
後悔したようにK子さんが呟いた。
僕が見とがめたのは……内側の手首に何本も残る白い筋、リストカットの痕だった。
*
優しい男ってだから嫌い。見てほしくないものを目敏く見つける。
普段は腕の傷痕をファンデーションで隠しているのだけど、シャワーを浴びたのでファンデを落としていることを忘れていた。しょうがないでしょ自分の部屋なのだから
彼は見つけてしまったことを申し訳なさそうに手を離した。そして何も言わない。
「気にしないで……私、摂食障害だから」
なにが『だから』なのかわからない。でも、沈黙が怖かった。一人でいるときの静寂には慣れた。今はそうじゃない。誰かがいて黙っていることが急に耐えられなくなった。
「帰って!」
これ以上の沈黙には耐えられない。彼を追い出そうとした。
「ごめん……」
謝らないでよ……
彼は動こうとはしなかった。
やっぱり沈黙に耐え切れなくなったのは私のほうだった。
「聞かないんだ……」
彼はどうしようか迷っているようだった。しばらくうじうじしていたかと思うと突然関係ないことをしゃべりだした。
「僕は椎茸が食べられないんだ」
何言ってるの、こいつ?
そんな私にお構いなしに彼は話を続ける。
「食べると気持ち悪くなって吐いてしまう。……ちょっと違うかな。気持ち悪くなって我慢できなくなってだから吐くんだ。僕は食べたくないんだけど、うちの母が椎茸を食べさせようとあれこれ小細工して食べさせようとする。食べたくはないんだけど母に嫌われたくなくて仕方なしに食べるんだ。でも、やっぱり気持ち悪くなって吐くんだ。毎日ね。椎茸以外ではこんなことにならない。だから、君の気持はわかってあげられない」
「ぷっ……なにそれ! 椎茸って……子供なの?」
「大人だよ、これでも」
思わず噴き出した私にむっとした表情で彼が応えた。
「僕の吐き癖はそんなもんだから……笑ってくれていいよ」
私の状況を心配しつつも、でも、安易な同情はできなくって、だから自分のことを話したのだろう。まったく優しい男って……嫌い。
「私だって似たようなものよ。結婚を約束した男に裏切られて捨てられたの。こんな地味な女しょうがないわよね。ははは……」
彼は笑ってくれなかった。そしてやっぱり私は沈黙に耐えられなくなった。
「始めはそれほどひどくなかった。一晩泣き明かして吹っ切れたと思って日常に戻った。戻れたと思った。でも違った。ある日、一人分の夕食の用意をしていたら突然涙が止まらなくなった。優しかったあの人を思い出して……あの人はもう戻ってこない。そう思ったら料理の臭いが気持ち悪くなって吐いたわ。夕食前だったから胃の中は空っぽだったけど、指を突っ込んで無理やり吐いて……胃液が空っぽになるまで吐いたわ。それで物が食べられなくなって、食べないとよくないからって無理して食べてやっぱり吐いて……それがだんだん酷くなって今では受け入れられるのは水とお酒だけ……」
「誰かそのことを知ってる?」
「I子と店長は……I子は同級生なの、高校の。それほど仲いいってわけじゃなかったのだけど、あの娘は面倒見がいいから。ボロボロになっているときに偶然再会して、酒が飲めるんだったらうちに来なよって引っ張られて……家も解約しちゃったし、お金もなかったから正直助かったわ。ね、笑える話でしょ?」
「笑えるわけない……笑えるわけないだろ!」
なんで君が泣いているの? 関係ない赤の他人の話じゃない。馬鹿な女が騙されて落ちぶれた。どこにでもあるよくある話……なのになんで君が泣くのよ……
彼につられて私も泣いてしまった。涙なんてとっくに枯れ果ててしまったと思ったのに……なんで出るのよ。止まってよ……
彼は何も言ってくれない。慰めてもくれない。黙って隣にいてくれるだけ。だけど、その優しさが今はありがたい。
気がつくと窓の外が白み始めていた。何時間泣いていたのだろう。
「もう君は帰りなよ」
「うん……帰る……時間はないかな。このまま会社に行くよ」
「大変ね、社畜は」
「うん、大変なんだよ」
「君、結婚するんでしょ」
「話したことあった?」
彼は驚いたように私を見た。
「うん、先輩さんと来たときに」
「ああ……隠してたわけじゃないんだけど」
「キャバクラでする話でもないでしょ。それより奥さんになる人とよく話しなよ」
彼は意味が分からないというように不思議そうな顔をした。
「最近になって思うの。結婚が決まってからマリッジブルーっていうの? なんかうまくいかなくなっちゃって。ケンカばかりしていたら浮気されちゃった。浮気だけならよかったのだけど子供ができたって言われちゃったらあきらめるしかないわよね。あのとき、私が彼のことをちゃんと見ていたら、優しくしていたらこんなことにならなかったのかなって。だから、君は私みたいにならないで」
「……ありがとう。話してみるよ」
彼が立ち上がった。私も見送りに立ち上がった。
「もう君は店に来ないで」
玄関で靴を履く彼に向かって言った。
「接待も仕事だから無理かな」
「じゃあ、私が辞める」
「うん。そのほうがいいよ」
「もう会わない」
「うん」
「さようなら」
「うん、さよなら」
そう言って彼は出て行った。
部屋に私だけが残された。でもその静寂は心地よかった。
ぐぅーっ
お腹の虫が鳴いた。笑えてきた。一晩中泣き明かしたら元気になったみたい。二か月ぶりに空腹を感じた。今なら食べられそう。でも、冷蔵庫の中に食材はない。
しょうがない。外に出よう。いつの間にかお昼近かった。
*
バスに乗って駅前にでる。さて何を食べようか? 久しぶりの食事だから胃に優しいものにしよう。そんなことを考えているところに声を掛けられた。
「K子先輩じゃないですか!」
「あっ……二郎君? どうしたの?」
大学のときのゼミの後輩だった。
「職場がこの辺なんですよ。先輩もお昼っすか? せっかくだから一緒にどうです?」
「まあいいけど。でも私のチョイスじゃ君には物足りないんじゃない?」
後輩は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「先輩、なんか雰囲気変わりましたね。なんていうか昔はもっとパワフルっていうか」
「12kg痩せたからね。変?」
「いいえ」
後輩が首を振る。
「先輩は綺麗です!」
新しい日常がやってきた。そんな気がした。
私だってまだまだこれから。
でも、泣けるときは泣いたほうがいい。
第38話では無断外泊をしてしまった僕君のお話でした。酔い潰れて前後不覚になった僕君を介抱してくれたK子嬢。共通の悩みを抱える彼女にも僕君は優しさを見せます。アドバイスをもらった僕君は立ち直ることができるのでしょうか。
椎茸は出てきませんが、吐きまくる僕君でした。
本作は毎週水曜日に投稿する予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。感想・レビューなど頂けたらうれしいです。




