31.梅干の日
僕は椎茸が食べられない。
好き嫌いの問題ではなく、食べられないのだ。あのぐにゃとした歯ごたえでぐにゅっとした食感でぐじゅっとした後味のあの食材を。思い出しただけで吐き気がする。実際吐いてしまう。だから、僕は椎茸が食べられないのだ。
このお話は、椎茸が食べられない僕君と何が何でも食べさせようとするお母さんの戦いの物語です。僕君を助けてくれる彼女ちゃん。なついてくる妹ちゃん。温かく見守ってくれる友人たち。そんな仲間とともに成長していく僕君。はたして僕君は椎茸を食べられるようになるのでしょうか。
僕の家の庭には二羽にわとりが……じゃなくて、梅の木がある。
二月末のまだ肌寒いころに白い花をつける。良い香りがして僕は好きだ。一足早い春の訪れを感じさせてくれる。
でも、うちでは風情を楽しむより食用として育てられている。種類は南高梅といって実が食べられるやつだ。お母さんが梅干を漬けるために世話をしている。冬前には剪定して伸びすぎた枝を刈り込む。そしてたっぷりと肥料をやる。花芽を作るこの時期に栄養を与えないと花が咲かない。つまり実もつかないということだ。
「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」という言葉があるように梅は刈り込みに強く剪定がしやすい樹木だ。桜とは同じバラ科サクラ属だけど桜は弱く切り痕から細菌にやられて壊死しやすい。タールなどを塗って切り口を保護してやらなければならない。
梅の剪定はお父さんの仕事だった。お父さんは僕に引き継がせたいようだけど僕では背が届かないので仕方ない。しょうがなくお父さんは妹に跡を継がせた。
ああ、そうですよ。僕は妹より背が低いですよ。
そうして去年から妹子ちゃんが剪定の作業をするようになった。脚立に乗ってお母さんの指示で伸びすぎた枝を手際よく落としていく。剪定は道路にはみ出さないようにということもあるけど、生命力の強い梅は手入れをしないと枝同士が絡まってしまうほどに繁ってしまう。ある程度枝を払って風通しを良くしてやらなければならないのだ。
そんな甲斐もあって今年も梅の木はきれいな花を咲かせた。追肥もやったおかげで大振りの実をたくさんつけた。
6月の良く晴れた日曜日、今日は梅干の日だ。そういう記念日があるわけじゃない。うちでは一家総出で梅干を作ることになっている。梅干の日は実の熟し具合と天気を見定めてお母さんが招集をかけるのだ。これに参加しないと今年の梅干も梅酢も食べさせてもらえなくなる。どんな予定が入っていてもキャンセルせざるを得ない。子供のころはそれで苦労した。6月の週末に予定は入れられない。もっとも今では実り具合を見て見当がつくようになっている。僕だけでなくお父さんも妹子もだ。
今年の梅干の日は彼女ちゃんにもお呼びがかかった。まあ、いずれはと思っているけど……わざわざ働かされるために来なくてもいいのにと言ったのに彼女ちゃんは喜んでやってきた。そしてお母さんのお供をして収穫の真っ最中だ。
「ありがとう妹子ちゃん。届かなくて困ってたの」
どうやら妹も参加しているようだ。
「たくさん採れたから余った分で梅酒を漬けてあげるね」
収穫を終え、袋に一杯の梅の実を抱えながら彼女ちゃんがそう言ってくれた。料理上手な彼女ちゃんが漬けた梅酒は香りがよくてとってもおいしい。僕も大好きだ。
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僕君はわたしが漬けた梅酒をおいしいと言って喜んでくれる。けど、僕君は勘違いしている。わたしが特別なことをしているわけじゃない。
一般的に梅酒は青梅を使うものだけどわたしが漬ける梅酒は黄色く熟した梅を使っているのだ。柔らかくなるほどではないうちだけど熟した梅は漬けると崩れやすい。だから漬けるときに潰れないように丁寧に扱わなければいけない。けど、あとは普通の漬け方だ。わたしが熟した梅を使う理由は……だって、おばさまが梅干用の梅を確保するまで採らせてくれないから
*
今日はおばさまに梅干の漬け方を教わる。僕君が食べられる数少ない家庭料理(おばさまの味)?だし、わたしも覚えておきたい。あと、しっかり見張っておかないとおばさまは壺に椎茸を入れようとするし(実際に昔やって家族から不評だったそうだ。懲りずに毎年「今年こそうまくいくから」と言っている。もちろん全員で却下だ)。
まず梅の実を傷つかないように優しく洗います。笊にあけて水切りをしたらキッチンペーパーで水気をしっかりと拭き取ります。竹串で梅のヘタを取りましょう。
梅を漬ける容器は僕君の家では信楽焼の壺を使っています。内側を熱湯で消毒しておきました。中の水分を良くふき取って準備OK。
梅の実1kgに対してお塩180g。18%が重要なのだそうです。最近は減塩ブームですが、漬け込むお塩の量を減らすとカビが生えやすくなり保存がきかなくなります。お塩は精製塩でもよいのですが、にがり成分を含む粗塩のほうがおいしくなるそうです。
梅を敷き詰めお塩を振ってその上にまた梅を並べてお塩を振って交互に詰めていきます。最後に残りのお塩を振りかけたら、落し蓋を乗せて重石を乗せます。梅1kgに対して重石2kg(落し蓋の重量含む)が目安だとか。梅酢が上がってこない場合は重石を足すそうです(その辺の塩梅は勘なんだとか。!? だから塩梅っていうのか)。落し蓋や重石は梅酢の酸で溶けないような素材のものを使いましょう。僕君の家では陶製の落し蓋に水を入れたペットボトル(500ml)を使っていました。中に入れる水の量で重さの調整がしやすいのが良いそうです。
ここからは予定の話。
蓋をして一週間ほど漬け込みます。やがて梅の水分がお塩に吸われて梅酢が上がってきます。最後に残る梅酢ですが、料理にも使えますし、水で割ればさっぱりしていて夏の飲み物に最適です。妹子ちゃんの大好物です。
一週間で梅の実がすべて浸るくらいまで梅酢が上がっていれば順調です。僕君は赤い梅干が好きなのでこのタイミングでもみ紫蘇を加えます。
茎を取り除いた赤紫蘇200gを水で丁寧に洗います。赤紫蘇の20%、40gのお塩を用意し、その半分を赤紫蘇にまぶしてよく揉みます。赤紫蘇を絞ると赤黒い汁が出てきますがこれは灰汁です。よく絞り、残りのお塩をまぶしてもう一度よく揉みます。よく絞って灰汁を切ったらもみ紫蘇の完成です。紫蘇の葉が破れないように丁寧に扱いましょう。破れても味は変わりませんが、紫蘇は広げて海苔のようにおにぎりを巻いたりお肉を巻いて焼いたりと使い勝手が良いのです。破れた紫蘇は砕いてゆかりにして食べてもおいしいです。
もみ紫蘇ができたら壺から梅酢を取ってもみ紫蘇を浸します。梅酢が赤くなるまでもみ紫蘇をほぐします。赤く染まったら梅酢をもみ紫蘇ごと壺に戻します。赤紫蘇のきれいな赤紫色に染まってくれるでしょう。もう一度落し蓋をします。このときの重石は軽めに500gくらい。すでに梅は柔らかくなっているので潰れないように優しく。
一月ほどして梅雨が明けた頃、梅干を天日干しします。
子供のころは何で漬物なのに梅干っていうのだろうと不思議でした。でもこのひと手間をかけるせいで保存がきくようになり、おいしくなるのです。梅干づくりには欠かせない工程です。
お箸で取り出した梅干と赤紫蘇を盆笊に並べていきます。日向において3日ほど干します。1日に1回くらいひっくり返してよく日に当てます。
天日干しした梅干は梅酢を取り除いた壺に戻します。このとき一度梅酢をくぐらせてから戻すのがコツだそうです。しっとりしておいしくなるそうです。
梅酢は一升瓶の空き瓶(別に一升瓶でなくてもよいのですが、なぜか僕君の家では空き一升瓶がたくさんあるので……僕君、飲みすぎじゃない?)に移し冷暗所に保存します。もう梅干として十分おいしく頂けるのですが、寝かせると酸味と塩気がなじんでよりまろやかになります。
そうだ。今晩はお素麵にしましょう。つけ汁に梅酢を垂らすと夏バテして食欲がないときでもさっぱりしていくらでも食べられます。妹子ちゃんには梅酢の水割りも。僕君やおじさまには焼酎の梅酢割りでしょうか?
*
朝から始めた梅干づくりもひと段落。もう日が傾いている。
お母さんの命令で漬け込み終わった二つの壺を涼しい床下収納庫にしまった僕は居間に戻った。だが、そこに彼女ちゃんの姿がない。
「彼女ちゃんならお母さんと梅の実の取り残しを探してるよ」
疲れてソファーに寝っ転がったお父さんが答えた。
疲れたって……お父さん今日は何もしてないじゃん。
僕も大したことはしてないけど、それでも彼女ちゃんを家に帰すまでは気が抜けない。そう思っていたところで庭から声が聞こえた。
「痛っ!」
「彼女お姉ちゃん、大丈夫!?」
僕は思わず駆け出した。
庭に駆け付けた僕の目に映ったのは左手を抑えてうずくまる彼女ちゃんと心配そうに見守るお母さんと妹子だった。
「大丈夫!? どうしたの?」
「大丈夫だよ。僕君、心配性だなぁ」
痛みを堪えながら笑い返す彼女ちゃんだったけど僕にとっては笑いごとじゃない。
「何があったの?」
「蜂に刺されちゃっただけだよ」
連日の猛暑で虫たちも疲弊している。そんな中、木陰、特に生い茂った葉の裏は彼らのオアシスだ。日中休んでいた虫たちが、日が陰りだしたタイミングで活動を始めたのだ。そんなときに枝をかき分けていたら蜂も驚いただろう。
「消毒しよう。来て!」
僕は彼女ちゃんの手を取って(刺された左腕じゃない。右腕のほうだ)家に戻った。救急箱を引っ張り出し、治療しようとしたのだけれど……ダメだ。ソファーではお父さんが寝ている。僕にとってはいつものことだけど彼女ちゃんは気を使うだろう。
「僕の部屋に行こう」
手を引いて2階に上がる。
彼女ちゃんが僕の部屋に来るのは久しぶりだ。
僕が彼女ちゃんの家にお邪魔するときはよく部屋に通されるのだけど、彼女ちゃんが家に来たときはいつも台所か居間だけで僕の部屋に来ることはまれだ。
「妹子ちゃんがいるでしょう?」と彼女ちゃんは言うけれど付き合っていることは妹も知っている(両家家族公認だ)。「なんで?」と聞いたら「そういうところだよ、僕君!」とえらい怒られた。
別に部屋で二人っきりだからと言って人に言えないことをするわけじゃない。家族がいる家で致すほど僕は無分別じゃない。そういうことをするときは旅行に行くとか家に誰もいない日だけだ。事前に彼女ちゃんにも伝えておくのに……
おっと、それどころじゃなかった。
「どこ刺されたの? 見せて」
「もう、大袈裟だなあ」
彼女ちゃんは茶化してなかなか見せてくれない。もしかして見せられないようなところを……
「違うからね。左手って言ったでしょ!」
別に残念じゃない。それどころじゃないのだ。
まだ、刺されて5分と経っていないのに彼女ちゃんの二の腕は赤黒く腫れ上がっていた。
「とりあえず針を抜こう。消毒したら病院に行こう」
「その前に手を洗ってきてもいいかな? 汚れたままじゃ消毒しても意味ないし」
彼女ちゃんのほうが冷静だった。僕はとても落ち着いていられなかった。
「ミツバチめ、駆逐してやる!」
「そういうのいいから……」
*
毛抜きで針を抜いて消毒した後、僕は彼女ちゃんを病院の休日夜間診療窓口に連れて行った。
「大袈裟だよ」
彼女ちゃんは嫌がったけど、無理やり車に押し込んだ。僕も昔、蜂に刺されたことがあるけどこんなに腫れ上がることはなかった。
お父さんお母さんも勧めてくれた。
「すぐに来てくれてよかったです」
患部を見たお医者さんは言った。
「今晩は熱が出るかもしれませんが、もう大丈夫です。腫れが引くまで2、3日かかるでしょうが、熱が引いたら普通にしていて構いません。通院の必要もないでしょう」
「先生、大丈夫ですか? こんなに腫れるなんて……」
食い下がる僕に先生は言った。
「ハチ毒は中和したから心配ありませんよ。じきに腫れも引きます。痛み止めは出しておきますが、つらいようでしたら患部を冷やしてあげてください……今後は蜂には気を付けてください」
もう彼女ちゃんも大袈裟だとは言わなかった。
その晩、彼女ちゃんの部屋に泊まることになった。うちのイベントで怪我させたのだから看病くらいさせてもらわないと僕の気が済まない。
「ごめんね。明日も仕事だっていうのにつき合わせちゃって……」
熱が出だした彼女ちゃんは赤い顔で僕に彼女ちゃんは謝った。
「いいんだよ。こっちこそ休みの日につき合わせた上に怪我までさせちゃってゴメン」
「ううん。わたしが不注意だったから……それに、わたし、今日は楽しかった。おばさまに僕君のお家のレシピを教えてもらえたし……」
「それならよかった……痛む?」
彼女ちゃんは首を振った。
やがて彼女ちゃんは眠りについた。僕は保冷剤を替えようと立ち上がろうとしたけど彼女ちゃんは手を放してくれなかった。いつしか僕も彼女ちゃんの隣で眠りに落ちていた。子供のときのように
僕は蜂が嫌いだ。駆逐してやる!
今話第31話から新章「僕と彼女の未来」編です。僕君と彼女ちゃんの物語はどんな結末を迎えるのでしょうか。
第31話は僕君の家で取れた梅の実を梅干に漬けるお話でした。蜂って人によってはアレルギーを起こすので危険です。皆さんも気をつけましょう。
このお話にはところどころで料理に関する記述が含まれます。私怨が込められているのでお見苦しい部分があろうかと思います。特定の地方の方には不快な思いをさせてしまうかもしれません。お詫びを申し上げます。温かい心でお目こぼし頂ければと思います。
本作は毎週水曜日に投稿する予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。感想・レビューなど頂けたらうれしいです。




