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僕は椎茸が食べられない  作者: 灰色シオ
第1章 僕と彼女の日常
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1.オムレツ

 僕は椎茸が食べられない。

 好き嫌いの問題ではなく、食べられないのだ。あのぐにゃとした歯ごたえでぐにゅっとした食感でぐじゅっとした後味のあの食材を。思い出しただけで吐き気がする。実際吐いてしまう。だから、僕は椎茸が食べられないのだ。

 このお話は、椎茸が食べられない僕君と何が何でも食べさせようとするお母さんの戦いの物語です。僕君を助けてくれる彼女ちゃん。なついてくる妹ちゃん。温かく見守ってくれる友人たち。そんな仲間とともに成長していく僕君。はたして僕君は椎茸を食べられるようになるのでしょうか。

 この春、僕は新社会人になった。僕が努めるのは中堅の商社。1ヶ月の研修を終えて5月の連休明けから営業2課に配属になった。2課の仕事は工場に商材を売り込むことだ。担当は関東一円なので打合せのときは先方に出向く。とはいえ定期的な注文ならメールとファックスでだいたい済むので、一つのお客さんと顔を合わせるのは年に2、3回ほどだ。配属されて1ヶ月の僕は担当を持っていないけれど、同行する先輩は50社ほど担当している。一通り顔合わせが済んだらそのうちの半分ほどを僕が引き継ぐことになっている。

 先輩は新しく販売契約を結んだ新商材を持って新規顧客開拓を担当するそうだ。もちろん僕も既存の顧客に売り込むのだけど、うまくできるだろうか。


 業務開始は午前9時からだけど新人の僕は1時間ほど早く出社して準備している。家から会社までは小一時間掛かるので、家を7時に出る。駅まで徒歩で10分。いつも7時15分の快速に乗る。

 僕が家を出たのと同時に隣家の玄関が開いた。

「おはよう、僕君」

「おはよう」

 出てきたのは彼女ちゃんだ。幼馴染で今は僕の恋人だ。


 うちのお父さんと隣のおじさんは小学校の頃からの友達だ。お隣におじさん一家が引っ越してきてから30年以上の付き合いだそうだ。馬が合ったのか二人は親友になった。親友のまま成長し、やがて同時期に結婚した。そして同じ年に子供が生まれた。それが僕と彼女ちゃんだ。家族ぐるみで付き合っていた両家で僕と彼女ちゃんは、2年後に生まれた妹ともに兄妹のように育てられた(彼女ちゃんは姉弟だと言い張るけれど僕のほうが誕生日は1ヶ月早い)。

 僕たちは一緒に育った。互いを異性として意識し始めた思春期には微妙な時期もあったけど、高校に入る頃にはそれも落ち着き、恋人として付き合いだした。といっても生活はあまり変わらない。互いの家を行き来するのはこれまで通りだ。


「どうしたの? 元気ないね」

 彼女ちゃんが僕の顔を覗き込んで言う。

「朝食でショックなことがあってね」

「あはは……今度はおばさんどんな椎茸料理を開発したの?」

 長い付き合いの彼女ちゃんは僕が椎茸を食べられないことを知っている。大分県人のお母さんが何とかして僕に椎茸を食べさせようといろんな料理に椎茸アレンジをしていることも。子供の頃は椎茸料理が食べられなくてお腹を空かせていた僕を家に呼んでご飯を食べさせてくれたりした。隣のおじさんも椎茸が嫌いなので、彼女ちゃん家では僕は安心してご飯を食べることができるのだった。僕が無事に生きてこられたのはお隣のお陰だ。お隣がいなかったら僕は餓死していたと思う。


「オムレツだったんだ。バターの香りが美味しそうで、つい油断しちゃったんだ。そしたら……うっ……」

 オムレツの中身はひき肉のように細かく刻んだ椎茸だった。僕は不意打ちで椎茸を口に含んだときの感触を思い出し、思わずえずいた。

「それは……災難だったね」

 椎茸がダメではない彼女ちゃんでも、さすがにそれはないだろうという顔をして首を振った。


     *


 みじん切りにした玉ねぎと合い挽き肉を入れて全体に火が通るまで軽く炒めます。塩コショウで下味をつけ、下拵えした具材をいったん皿に取り除けましょう。

中火で熱したフライパンにバター10gを入れて溶かしてフライパン全体にバターをよくなじませてから溶き卵(2個分)の半分を入れて炒めます。卵が固まってきたら取り除けておいた具材を加えて卵と合わせましょう。具材と卵がなじんだら残りの卵を加え固まらないうちに具材を中心に転がすように包み込みます。フライパンの柄を軽く叩きながらフライ返しで裾をつつくように剥がせばきれいに転がるはず。破れてしまうときはフライパンの油なじみが足りなかったか、火力が弱いのかもしれません。気持ち強火にしてやれば底面が固まって捲りやすくなるはず。どうしてもうまくできないときはフッ素樹脂コーティングのフライパンを買ってください。

 形になったら火を止め、オムレツを皿に移し、お好みでケチャップをかけます。萌え萌えキュンキュンとか言いながら似顔絵を描いても構わないけど、実際にするのはちょっと恥ずかしい。これでミートオムレツの完成。


 オムレツは万能卵料理。卵の生地に牛乳や生クリーム、ヨーグルトを少量加えると味に深みが出て色合いもよくなります。仕上げの火加減でふわトロにできるから挑戦してみて。

 入れる具材はなんでもOK! コクがあるから合い挽き肉を使ったけれど、豚でも鶏でもベーコンでも合うし、お手軽にツナ缶もいけます。炒めた玉ねぎの甘みは卵によく合うけれど、それ以外にもジャガイモはほくほく感があって食べ応えがあります。トマトは酸味と甘みが絶妙のバランス。お子様にはコーンも人気です。アボカドやチーズは味に深みが出る。チーズにはマッシュルームなどキノコがよく合……

ビー ビー ビー。警報! 警報!

 あら? 僕君が何か騒いでます……

『ただいまの彼女ちゃんの発言に誤解を招く表現が含まれておりました。お詫びして訂正いたします。オムレツにマッシュルームを加えることはお好み次第ですが、人体に対して問題ありません。エノキ、シメジまでなら許容範囲でしょう。必要とは全く思いませんが、財力次第でトリュフをかけるのはお好きにどーぞ。けっ…… しかし、椎茸を加えるのは止めてください。大変危険です。家庭内不和、場合によっては破局に至る危険性があります。椎茸を加えるのは絶対にやめてください。人体及び人間関係に深刻な影響が出る恐れがあります。繰り返します。オムレツに椎茸を加えることは絶対にやめてください! 警告を無視した場合、どうなっても知らないからなっ!』


     *


 こうして椎茸入りオムレツの被災者となった僕だったけど、幼い頃はお母さんの料理が当たり前で食べられない僕がおかしいのだと思っていた。同じご飯を食べていた妹はすくすく成長していたわけだし。

 小学校に上がり給食を食べるようになってから世界が変わった。世の中には椎茸が入っていない料理がありふれていたのだ。隣家のメニューは椎茸が食べられない人用の特別メニューだと思っていた。家族でお隣にお呼ばれしたとき、家では見せない食欲で僕ががつがつ食べるさまをお母さんが微妙な顔をして見ていたことに僕は気づいていた。


 お母さんは決して料理下手ではない。むしろ上手なのだと思う。ただ、ほとんどの料理に椎茸が使われているので僕には食べられないだけだ。まれに椎茸が入っていない料理があるときはとっても美味しい。でも、それをお母さんに知られてはいけない。僕が好きだと知られたら最後、次からは必ず椎茸入りにアレンジされるから。そのせいで僕は何度好きな料理が食べられなくなったことか。家で好き嫌いを知られることはすなわち死を意味する。

 僕は椎茸が嫌いなんじゃない。体が受け付けないのだ。無理やり食べてもすぐに吐いてしまう。頑張ってどうにかなる問題じゃない。だが、どうしてもお母さんにはわかってもらえない。だから僕はあきらめた。椎茸は克服したことにした。好きではないながらも食べられるようになったのだと。それ以来、僕は理由もなしに椎茸を残したことはない。後でこっそり吐くだけだ。

 僕の偽装が完璧だったせいだろうか。生まれて22年、僕が椎茸を食べられないことに未だお母さんは気づいていない。ちなみに、お母さん以外のほとんどの人はそれを知っている。お父さんも妹も、彼女ちゃんも、おじさんもおばさんも友人たちもみんな知っている。知らないのはお母さんだけだ。


 実の母親に対して不誠実だと思うだろうか。でもまあ、それはしょうがない。お母さんに僕の椎茸嫌いが知られたら、間違いなく椎茸嫌い矯正プログラムが発動される。僕の口に入るものは全て椎茸入りになる。白米ですら安全ではない(椎茸出汁で炊かれる)。大分人であるお母さんにとって椎茸を食べられないこと、それはすなわち悪なのだ。そうなったら僕に残されるのは餓死する運命だけだ。なにせ子供の頃、風邪で寝込んだ僕に椎茸粥を食べさせたお母さんだ。体調が悪かったこともあって僕はその場で吐いた(今でも吐くと思う)。普通、病気の子供に食べさせるならすりおろしリンゴかヨーグルトじゃないか!? 

 あのとき結局、僕は脱水症状と栄養失調で入院することになった。お母さんは今でも食中毒だったと思っているが。


 つまり僕が椎茸を食べられないことをお母さんに隠すのは生き残るためには必要な手段なのだ。


     *


 給食を食べるようになって僕は気が付いた。確かに僕は椎茸が食べられない。けど、それなら椎茸が入っていない料理を食べればいいのだ。そうだ。昔の偉い人も言っていたじゃないか。パンがなければお菓子を食べればよいのだと。

 僕はお母さんに朝食をご飯ではなくパンにしてほしいとお願いした。特別パンが好きなわけじゃない。でも、パンならば椎茸出汁で炊かれることはない(白米にはその危険性が十二分にある)。それにパンに合わせる洋食のおかずなら椎茸が入らないと考えたのだ。しばらくは平和だった。僕はお腹いっぱいご飯を食べられる幸せを満喫していた。


 しかし、平和な時期も長くは続かなかった。ある朝、出てきたのは粒々入りのパンだった。

 うぐっ……

「おいしいでしょう? 椎茸パンよ。田舎から送ってもらったの」


 別の日、僕はトースト(粒々が入っていないことは確認した)にジャムを塗ってかぶりついた。

 うえっ……

「椎茸ジャムよ。田舎のおばあちゃんの手作りなの」


 また、別のある日、出てきたトーストを前に僕は言葉を失った。

「椎茸トーストよ。おいしそうでしょう」

 ハムトーストのハムがアレのスライスに代わったと思ってくれたらいい。代わりになると思う神経がわからない。


 僕の朝食は戦場に戻った。


     *


 僕の身長は155cm、体重は48kg弱。その上、童顔なので社会人になった今でも高校生に間違えられる。場合によっては中学生にも。こんな家に生まれなければあと10cmは背が伸びたのではないだろうか(事実、妹は僕より15cm大きい)。平均的な身長の彼女ちゃんがヒールを履くと僕より高くなってしまう。彼女ちゃんはそんなこと気にしないけど僕としては少し気になる。


 そんな僕を見てきて、ときにはご飯を食べさせてくれる彼女ちゃんは料理上手だ。椎茸が入っていない美味しい料理を一生懸命作ってくれる(考えなくても普通の料理なのかもだけど)。彼女ちゃんは大学で家政学部に入り、管理栄養士の資格を取った。今年からある会社に入って社員食堂と寮の栄養管理をしている。どこの会社でも社員の健康指導は大事なのだそうだ。

「彼女ちゃんは食堂のメニューに椎茸入れるの?」

「寮は若い人ばかりで和食は人気ないからあまり出さないかな。社員食堂だと低カロリーのヘルシーメニューでときどき使うよ。でも、嫌いな人も多いから選択できるオプションメニューでね」

 是非、そうしてあげてください。

 逃げ場のない給食で悩まされたことを思い出した。選べることはいいことだ。


「僕君の会社には食堂ないんだよね」

「うん」

「僕君は外食多いんだからちゃんとバランス考えて食べてね」

「気を付けます」

 そうは応えたものの、実際には難しい。ついている先輩は肉食だし、僕は基本和食の店には入らない。あの食材(椎茸)とエンカウントする可能性が高いからだ。せめてサラダを頼むようには心掛けよう。



 僕は椎茸が食べられない。


 このお話にはところどころで料理に関する記述が含まれます。全部とは言いませんがほとんどの料理は作者の体験済みです。彼女ちゃん解説のオムレツも作りました。バターをたっぷり使うのがコツです。おいしかったです。お母さんの作った椎茸入りオムレツは……幼いころのトラウマです。椎茸に関する内容の90%は作者本人が体験した実話をもとに書いています。私怨が込められているのでお見苦しい部分があろうかと思います。特定の地方の方には不快な思いをさせてしまうかもしれません。お詫びを申し上げます。温かい心でお目こぼし頂ければと思います。

 本作は毎週水曜日に投稿する予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。

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