名前負け
白鳥愛美は、ハキハキと教科書を読む娘だった。
小学五年生の頃、「名前負け」という言葉を、僕が意図せず流行らせるまでは。
僕は今、その彼女の結婚式に出席していた。三十歳。東京から地元に戻る。新郎と彼女は中学三年の頃のクラスメイトで、何年か前の同窓会で再会し、交際から結婚に至ったらしい。
奇妙なことに、僕は新郎の友人ということで招待されていた。友人といっても、彼とは中学二年の時に同じクラスになっただけだ。部活も違う。
格別親しい訳ではなかったのに、驚いた。その理由を新郎に尋ねると、新婦が呼んだらどうかと提案したことが分かった。白鳥愛美とは中学からクラスが分かれていた。
そうして僕は、友人らと共に二人の式に出席した。同じ小学校出身の連中ばかりが集まる席で、気安い顔ぶれが並ぶ。披露宴が終わり、二次会にほどなく突入した。
催し物が終わり、談笑の時間が訪れる。新郎新婦は特別な席で特別な装いながらも、寛ぎ始めている様子だった。僕らのグループが新郎を冷やかす為、腰を上げる。
違う小学校出身の、顔を酒で赤くした新郎が、彼と同じ部活に所属していた友人らにからかわれている。僕は自分をもてあます。彼女と、成人式ぶりに対面した。
「結婚、おめでとう」
そう言うと、新婦の彼女は控えめに微笑んだ。
彼女は大人しい人だ。一歩、引いている人だ。
快濶だった頃の彼女を覚えている人なんて、もう殆どいないだろう。ハキハキと教科書を読み、行進するみたいに歩き、歯をこぼして笑っていた彼女。
『っていうかさ、名前負けっていったら、愛美じゃね』
明確な覚えのない、漠然とした、小学五年生のいつかの日。
何かの切っ掛けで僕が口にした「名前負け」という単語は、瞬く間に男子生徒の遊びになった。誰それは名前負けしていないだとか、誰それは名前負けしているだとか、そんな他愛ない遊びだ。無邪気なぶんだけ、残酷でもある。
その標的になったのが、愛美だった。
今では誰も覚えていないだろう。そのクラス中を巻き込んだ一連の遊びが過ぎると、彼女はとても大人しい人になっていたことを。
彼女は全てを笑い流していたけど、ある時期から、内股で歩く人になっていた。歩幅も狭くなった。女性徒の中心から少しずつ外れ、背中を丸めるようになった。
完全に俯いている訳ではない。でも、目線を斜め下辺りにうろつかせ、肩に力が入っているようで、それがよく、ビクッと動くようになった。
教科書を読む声が、小さくなった。大声で、笑わなくなった。
憐憫とか、見下しているとか、そういう訳じゃない。ないと思う。なくあれと、切に願う。いつか僕は、そのことを彼女に謝りたかった。
手紙を書こうと思ったこともあったけど、それを上手く伝えられる自信がなかった。心の動きを説明する力がなくて、気づくと全てが「ごめんなさい」になっていた。だから書けなかった。渡せなかった。だが、今日、この日になら――
「あの、愛美さん。僕は、」
友人たちが新郎を囲んで騒いでいる間に、僕はそういうことを言った。
ずっと謝りたかったんだ、と。祝いの席の話題としては相応しくないかもしれない。それでも彼女が僕を呼んだ意味があるような気がして、口からは言葉が続いていた。
「君はとても、表情が豊かな人だった。目が合うと微笑んでくれて、朝と夕方、おはようとか、バイバイとか、大きな声で言ってくれて。何よりもよく、笑ってた」
彼女は最初、驚いた顔をしていた。直ぐに、可笑しそうに笑った。
僕が謝ることじゃない、と。もう、可笑しいな、と。昔の話じゃない、と。
「でも、そういうところ」
「え?」
「変わってないよね、鈴木くんって」
僕が訝しんで目で問うと、さっぱりと笑って彼女は続ける。
「私なんて……鈴木くんの人生に殆ど関わってないのに。それなのに、そういう関係ない人からの評価も、気にするところ」
僕は静かに、言葉を無くした。
白でも黒でもない無が、突っ立った両足を木偶にしている。
彼女の厚い唇が動く。
「本当、自分が大好きだよね」
白無垢の女性に言われ、言葉を無くした。
何か言おうとしても、言えずに、笑おうとしても、失敗して。
「うん、本当にそうだ」
ようやく、ある種の清々しい顔で、応じた。
彼女はそこで白い歯をこぼす。
「う、そ」
僕は目を瞬かせた。
鼻から息を零して、彼女が笑う。
「嘘よ、ちょっと意地悪したくなっちゃっただけ。ふふ、驚いた?」
驚き、曖昧に微笑んでいると、彼女は続けた。
「もう、本気にしないでよ。名前負けの件だって、あれより前から女の子に言われてたの。私の顔で白鳥愛美って、白鳥に愛に美だよ。面と向って言われるか、影で言われるかの違い。あれが切っ掛けで表だって女の子から冷笑されて、無視されるようになったのは事実だけど……。それも自分が悪いの。他のことでも、きっと簡単に切っ掛けになってた。私、結構嫌な奴で、調子に乗ってたりもしてたからね」
何も言えずにいる間に、彼女は遠くの風景を引き寄せるような眼差しをする。
「あれから私は大人しくなった。今もそう。だけどそれは、猫を被ってるだけなの。彼の前だと昔の儘だよ。悩んだこともあったけど、私はそういう人を見つけられるようになった。メイクだって覚えたし、少しは見られるようになったでしょ」
薄く微笑んで、「とても、綺麗だ」と伝える。彼女はニィと笑った。
「ありがと」
「いや、こちらこそ。式に呼んでくれて、有難う」
そうやって言葉を交わしていると、背後から女性グループが近づいて来る声に気付く。僕は顔だけを振り向かせて一団を確認すると、そっと場を譲ろうとした。
その間際、
「ねぇ、鈴木くん」
「ん?」
「名前負けの件なんだけど――」
そこまで言って、彼女は女の子のグループから祝福の言葉を受け始めた。
僕は手を上げると苦笑し、全てを心得た顔で、笑みを深めた。
新朗の挨拶に参加し、それが終わると席に戻る。友人に尋ねられた。
「お前、愛美さんとなに話してたんだ」
「あぁ、うん。名前負けの件をさ」
「はぁ? 名前負け?」
「そう。僕が、名前負けしてるってこと」
お酒が入った友人たちが、その一言にドッと沸いた。
『末は博士か大臣か』
「なんたってお前、博臣だもんな。それで、博士でやっていけそうなのか? 心理学か何かだっけ、一時期フランスだかスイスだかに留学してたよな。同窓会で話題になってたぞ。博士になっても、やっていくのは難しいんだなって」
僕は机に頬杖をついて「心理学じゃなくて」と、専門用語で正したが、誰も聞いてはいなかった。友人たちは「名前負け」という言葉で盛り上がり、式に出席していない誰かの噂話を始めた。お酒を飲めない僕は、黙ってウーロン茶を口に含む。
『ねぇ、鈴木くん』
『ん?』
『名前負けの件なんだけど――』
先ほど愛美さんが口に出そうとした言葉について、想いを巡らす。
あっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
ただ僕は、驚きと安堵と自嘲と励ましを、一度に貰った気がした。
『博臣。高学歴ワーキングプアって言葉、知ってるよね?』
冴えない人生の中の冴えなさを、改めて見つめる。
混じりけのない寂しさに、砕け散れ。
『ごめんなさい。私、不安なの。だから、別れましょう』
心もとない懐事情を押してでも、式に来てよかったと、心から思った。あぁ、そうだ。クヨクヨしている暇はない。諦めず、食らいついてみようじゃないか。
なぁ、そうだろ。
「あれ? 何かさっきから引っ掛かってたんだけど……名前負けといえば他にもさ、小学校の頃に俺たちのクラスで――」
視界の端では友人が、何かを思い出したように、そんなことを言い始めていた。
ば~か、と心の中で呟く。口元を綻ばせながら、視線を主役に転じた。
今日の美しさには、名前が負ける。