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きのうの私/あしたの僕

作者: 結木さんと



 ――すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない。


         Hans・Christian・Andersen







 世の中には不思議がたくさんある。

 実際に遭遇したとき、どこかの誰かは幽霊や宇宙人のしわざだといい、違う誰かがそこに科学的な原因を見つけようと、必死になるような。

 ……だけど今回の出来事は、ひょっとしたら神様のうっかりミスなんじゃないかって、わたしは密かに思ってる。

 忙しいときって、誰でもちょっとくらい失敗しちゃうよね。

 きっと神様は眠る時間もないくらい忙しくて、だから、その書き損ないを見過ごしたんだ。一夜漬けのテストで、うっかり解答欄を間違えたみたいに。



 これは高校一年生のわたしたちが出会った、ある不思議な出来事の顛末。


 ――神様の手違いに翻弄された女の子と、わたしたち「ガーバン部」のメンバーが本当の仲間になるまでの、とても短いお話だ。



     ◇



 地方とはいえそれなりに都会で、だけどすごく便利かと聞かれれば素直には頷けない。

 そんな土地に、わたしたちの通う高校はある。

 運動部の盛んな公立校で、学力もそこそこ。校舎の壁には、たまにどこかの部の「全国大会出場!」とうたう垂れ幕が下がってる。何年か前に改装が行われたから、敷地内の大半の建物は新しくてキレイ。そんな学校だった。


 これほどスポーツで盛り上がるわが校において、あろうことかわたし――九都ここのつなつめは、さして注目もされていない文化系のマイナークラブに所属している。

 多数派にはたやすく迎合しない主義なのだ。わたしのことは、どうか『御星川みほしがわ高校のレジスタンス』と呼んでもらいたい。…………いや、ちょっと嘘ついた。本当は幼なじみに誘われただけ。運動、苦手だし。別に体育会系の部活を崩壊させたいわけでもない。

 そんなわたしが所属するのは、まだ出来たてほやほやのガールズバンド部。略して「ガーバン部」。響きが西洋の魔除けみたいでカッコいいと、わたしの中で大好評を博している。どうしてか他のメンバーたちには不評の嵐だけど。

 「既存の軽音部がチャラくて鬱陶しいから新しいのを作ろう」という、実に反骨的な理由で創設されたわがガーバン部は、現在、部員五名というギリギリの人数で部活の面子を保っている。あと一人でも少なければアウト。御星川の生徒会はなかなかシビアだった。

 なにはともあれ、保育園からの幼なじみであり心の友と呼んでも差し障りない蒼子あおこちゃんから強引に誘われて、わたしは今日も――――マラカス片手に、ボーカルの練習を頑張っている。



「――はい、一度止めて」


 旧部室棟最上階。その最も端に位置する古めかしい部屋に、澄んだ声が凛と響いた。

 こんな冷え切った声を出せる人は、われらがガーバン部に一人しかいない。

 腰まである黒い髪、モデルさんみたいにピンと伸びた背筋。さながら真冬の湖のごとき凍てついた眼差しでこちらを睨みつけてくるのは――わたしの幼なじみかつ親友であるはずの、東堂とうどう蒼子ちゃんだった。

 いかにも「大和撫子!」といった容姿の彼女は、大きく息を吸いこんで、


「だーかーらー……サビの導入が遅いと何度いわせれば気が済むんだお前は――――っ!!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 うん、そうだね。歌い出しが遅れたね。

 鬼の形相で猛り狂う幼なじみに怒涛の平謝りである。大和撫子どこいった?

 もちろん失敗したわたしが悪い。自業自得だ。それは分かってるんだけど……


「そもそもマラカスなんてマイク代わりにしてるからリズムが狂うんだ!」

「しょ、しょうがないじゃん! 他にマイクみたいな形状の物がないんだから!」

「これを使え!」


 そういって蒼子ちゃんが手渡してきたのは、ラムネ入りの状態でよくスーパーなどに並べられている、プラスチック製の小さなマイクのおもちゃだった。


「――わたしはアイドルに憧れる幼稚園児か!」

「こ、こら! 床に叩きつけるんじゃない! それはなつめにあげようと思って、昨日ラムネを全部食べてきれいに洗って乾かしてきたんだぞ!」

「うわーんっ! そんな気配りいらないよお! ツンデレ蒼子ちゃんのデレはいっつも空回り気味なんだよおおおお!」

「なななな何てこというんだお前は!?」


 顔を真っ赤にした蒼子ちゃんがぺしぺし叩いてくる。……ちょ、痛い。ピックの先端が頭皮に刺さって地味に痛い! 照れ隠しならせめてその凶器を置いてからにして!


「まーまー、落ち着きぃなアオっち。ケンカはアカンよー?」


 そんなのんびりした声が背後から聞こえて、理不尽な攻撃の手はぴたりと止まった。

 ……た、助かった。

 うなりながら頭を押さえつつ、わたしは後ろを振り返る。

 ででんと鎮座するドラムセットの向こうには、そのふんわりした関西弁からは想像もつかないほど……ギャルギャルしい女の子が座っていた。


「アオっちはちょっとピリピリしすぎとちゃう? まだこの新しい曲は練習しだしたばっかりやん」

「ぐ……し、しかし」

「なっつんも、オモチャのマイク捨てたんはやりすぎや。……だいぶズレてるけど……アオっちはなっつんに喜んでもらおうと思って準備してきたんやから」

「う……ごめんなさい」


 愛用のマラカス『ハマー君』を否定されて、ついカッとなってしまった。彼女の注意はごもっともである。

 素直に謝ると、下げた頭を優しく撫でられた。


「わ、私の方こそ、ごめん……痛いところはない?」

「ううん、もう大丈夫だよ」


 蒼子ちゃんはちょっとツンツンしてるけど、本当はとても優しい子なのだ。いまも心配そうな顔で傷がないか確認してくれている。……でも、この構図はおサルさんの毛繕いみたいだから、そろそろ放してほしいかな。

 心配性の幼なじみに頭をいじられつつ、わたしはドラムの向こうに視線を向ける。すると、すごくギャルっぽい彼女はニカッと笑って、スティックを振ってくれた。ああ、なんだろう――――これ、ギャップのせいかな? 胸のときめきが止まらない……。

 派手な見た目に反して意外としっかりものの彼女は、巻野梨々まきのりりかちゃん。

 すらりとした太ももがあらわになる短いスカートに、胸元を大きく開けたシャツとベージュのニットベスト。耳と首元にはヴィヴィアンのアクセサリー。大人っぽいキレイめメイクが、今日もバッチリきまってる。

 くるんと巻いた金髪が驚くべきことに自前だという梨々香ちゃんは、関西地方出身でハーフの美人さんなのだ。

 長い地まつ毛うらやましいです。ちょっとください。


「うふふ。蒼子ちゃんとなつめちゃんは、本当に仲がいいわね……」


 今度は隣から、そんな声が聞こえた。

 ベース担当の矢上詩織やがみしおりちゃんである。

 クセのない髪をシュシュでまとめて、シンプルなフレームの眼鏡をかけた文学少女チックな子なんだけど……ねえ、わたしたちをトロンとした眼で見つめてるのはなんで? なぜ呼吸がちょっと荒いの?

 彼女は、わたしと蒼子ちゃんがくっついてるとき、よくあんな顔をしてる。

 なんだか危険な香りが漂う詩織ちゃん。手遅れになる前に誰か注意してあげてほしい。小心者のわたしにはムリだ。


「いいのよ? わたしのことは気にせず、続けてちょうだい」

「や、やだよ。続けるってなにさ……そのさりげなくカメラ起動したスマホしまってよ……」


 思わず後ずさってしまう。詩織ちゃん、なんで近付いてくるの?


「……前から思とったけど、しおりはちょっとヤバいな。軽く犯罪の香りがする」

「のんきなこといってる場合か。同じ中学だろ、あの暴走娘をなんとかしろ梨々香」

「いやー、ヘブン状態のあいつには声が届かんから……」

「――詩織はなにか厄介な呪いでも受けてるのか? ……見ろ、あの顔。女がしていい表情じゃないぞ」


 ……ねえ、二人とも? この状況で、どうしてそんな冷静に話し合えるの?

 助けてよ。この「ハァハァ」いいながらついにデジカメを準備しだした危険人物へんたいさんから、大切なメンバーを助けて。

 あと詩織ちゃん、フラッシュ付きの連写モードやめてください。まぶしいです。

 わたしがパパラッチの襲撃を受けた芸能人みたいになっていると、部室の隅からパイプ椅子を引く音が響いた。


「落ち着いてください、矢上さん。――これ以上暴走するようなら、貴女が例のサイトでやらかしたことをこの場で洗いざらいブチまけます」

「ひっ!?」


 短い悲鳴をあげた詩織ちゃんが、一瞬で正気を取り戻した。

 よかった……戻ってこれたんだね。

 なんだか有り得ないくらい青ざめてるけど、わたしは、あなたがまだ人間の心を残していたことが、なにより嬉しい。――あと『例のサイトでやらかしたこと』ってなんだろう? すごく気になるよ。


「あああああ……あ、あのね? 違うのよ、美弥みやちゃん……」

「なにが違うというんです。私は中学の時にいいましたよね? 自分のしたいことだけに集中して、視野狭窄になってはいけませんと。だというのにこのような……これで何度目ですか」

「ご、ごごごごめんなさい! 謝るから! もうしないから、アレは……みんなにバラすのだけは勘弁して!」


 ……ほんとに何したの? 詩織ちゃん怯えすぎだよ。膝が耐震実験の模型みたいになってるんだけど。余計に気になるよ。

 そんな詩織ちゃんを氷点下の眼差しで見つめているのは、首の後ろで髪を二つくくりにした、お人形みたいな顔立ちの女の子だった。

 彼女、なんとわが部のマネージャーさんである。

 お名前は古塔美弥ことうみやちゃん。

 部で一番小柄なんだけど、そのクールな振る舞いとミステリアスな雰囲気が相まって、氷の王女様みたいな風格を醸している。

 ちなみに、彼女は梨々香ちゃんや詩織ちゃんと同じ小中学校の出身だ。入部したのはわたしが最後だったので詳しくは知らないけど、美弥ちゃんは最初からマネージャーとして参加していたらしい。

 一緒に演奏しないの? と尋ねてみても、持っていたお菓子を渡されて、上手くはぐらかされてしまった。

 あのときの美弥ちゃんは、わたしがポッキー三本で誤魔化されるアホの子だと思ってたのかな? 一応もらったけどさ。あんまり話したくないことなのかと思って、それからその話題は一度も口にしていない。


「まったく……そもそも、九都さんには無理をいってボーカルをしてもらってるんですよ? そのことを忘れてませんか」

「うう……ごめんなさい、なつめちゃん」

「あ、いや、そんなの気にしないでよ。わたしもいまは楽しんでやってるし」


 ヘコんだ詩織ちゃんを慌てて慰めにまわる。

 そう。わたしは高校に入るまで、音楽に携わったことがまるでなかった。

 カラオケくらいなら何度か行ったけど、所詮はその程度。吹奏楽部だった蒼子ちゃんや、バンドをやってた梨々香ちゃんたちとは比べるまでもない。みんなに誘われなければ、きっといま頃は帰宅部のエースとして第一線張ってたと思う。

 ……けど、部活が楽しくなってきたのはホントだよ? 最初は人前で歌うなんて恥ずかしくて緊張もしたけど、慣れれば割と平気になったし。

 たとえ人数合わせでも、みんなの役に立ってるなら嬉しい。


「しかし予感はしとったけど、なっつんのボーカルはホンマに掘り出しもんやったな」

「ふふん、そうだろう? なつめは声だけなら一級品だからな」

「蒼子ちゃん、それ褒めてるんだよね? わたし信じてるよ?」

「もちろんだ。よくピッチ外れるわテンポずれるわ高音域かすれるわだけど、声質はイイ。――胸を張れ、なつめ」

「……九都ここのつさんは、東堂さんに何か恨まれるようなことしたんです?」

「してないよお……蒼子ちゃんはちょっとアレな子だから、ツンデレをはき違えてるんだよおおお……」

「な、なななな何だと!?」

「うふふ、二人は仲良しさんね……」


 もういいよ、このやりとり。さっき似たようなやつやったもの。

 混沌と渦巻く無限ループを終わらせたのは、呆れたような顔をした美弥ちゃんだった。

 彼女は咳払いをひとつして、みんなの注目を集める。


「このままでは練習が進みませんので、先に朗報をお伝えしましょうか」

「朗報?」

「はい。昨日、藤見女学園の福永さんから、秋に行われる合同ライブに参加しないかと打診のメールが届きました」

「――ライブできるの!?」


 思わず勢いよく身を乗り出してしまった。ぶつかりそうになった美弥ちゃんが、ビクッと肩を震わせて仰け反る。

 そんなに嫌がらなくてもいいじゃん……あ、嘘です。ごめんなさい、にらまないで。新しい扉が開いちゃう。

 でも、みんなも嬉しいんじゃないかな? わたしほどじゃないけど、みんなの目にもキラキラした光が浮かんでる。

 ――合同ライブ。

 人前に出ることがすべてじゃないけど、せっかく練習してるんだもの。誰かに聴いてもらいたいって気持ちがあるのは当然だと思う。

 そうして、わたしたちの音楽を聴いた人たちが楽しんでくれたら、もっと嬉しい。

 福永さんは美弥ちゃんたちと同じ中学の同級生で、文化祭のわたしたちのライブを観にきてくれた子だ。ステージのあとに紹介してもらった。


「かおりんのトコと対バンか。ええんちゃう? あの子ら、学院にもファンおるやろ」

薫里かおりちゃん、可愛いし演奏も上手だものね」

「はい。われわれの知名度はまだまだ低いので、こういったお誘いはありがたいです。……では、この申し出を受けますか?」

「もちろん!」


 前のめりになって即答した。

 せっかく舞い込んできたチャンスだ。逃す手はない!

 みんなもすぐに頷いて、美弥ちゃんが「では、そのように連絡しておきます」と話を締めくくろうとした。


 そのとき、ふいに蒼子ちゃんが口を開いた。


「――なあ、美弥。そのライブ……お前、ギター弾いてみないか?」




       ◆




 ――いくつものスポットライトが瞬いていた。

 広い会場を満たす光に眼を細めて、深く息を吐き出した。

 ステージに上がるこの瞬間だけは、いつまで経っても慣れそうにない。

 緊張と高揚と、少しの不安が、胸の奥から湧きあがる。

 居並ぶ客はどれも似たような顔で、舞台に注目を向けていた。

 突然のスコールのような拍手が止めば、後は演奏の始まりを待つばかり。どの視線からも過大な期待が感じられて、それだけで否応なく重圧は増していく。

 ……もう一度だけ、静かに息を吐いた。

 ここまで来れば、もう逃げることなど許されない。そんな切迫した空気は、決して嫌いではなかった。

 幾許かの閉塞感を燃料に変え、相棒を抱えるように構える。六本のストリングスの上に、指を軽く添えた。

 ――さあ、行こう。

 誰にも聞こえない声で呟いて、押し出されるように演奏が始まった。




       ◇




 それはあまりにも急な提案だった。心なしか空気が固まったように感じる。

 ……美弥ちゃんって、ギターできるの? そんなのはじめて聞いたんだけど。

 ていうか、美弥ちゃんがギターを弾くなら、蒼子ちゃんはどうするつもりなんだろう?


「この曲もそうだけど、他のもいくつかアレンジすればソプラノサックスが合わせられるような構成にしてあるんだ。それで、もし美弥がギターを弾いてくれるなら、私はそっちに戻ろうかと思ってな」

「ほー、なるほどな。だからこれジャズっぽい曲調やったんか。うん、たしかにスコアいじったら合いそうや」

「こっちのはファンファーレから演奏が始まったら面白いかも」

「そうだろ? 管楽器の音色と合わせたら、今よりもっとこのバンドの曲の表情が豊かになると思うんだ。――――後はなつめが一刻も早くギターを覚えて、メンバーが増えたらいうことなしなんだけどな」


 おお、なんか音楽っぽい話題になってる。……でも蒼子ちゃん、小声で本音を吐き出すのはやめようね。全部聞こえてるから。

 どうやら蒼子ちゃんは管楽器をバンドに加えたいらしい。そういえば中学のときはサックスやってたっけ。ガーバン部のオリジナル曲も作ってくれてるし、すごいよね。

 あと、わたしのギターに関しては、もう少し待って欲しい。FとBmが、あの憎いコードがわたしの前に立ちはだかるんだ……!


「美弥はギターがすごく上手いって、薫里から聞いたんだ。だから……」

「――私は、やりません」


 きっぱりと、拒絶する声が聞こえた。

 躊躇いはなかった。考える素振りすらなかったように見える。

 あまりにも頑ななその態度に、蒼子ちゃんはおろか、わたしまで動揺してしまった。


「あ、その……気を悪くしたなら、ごめん」

「いえ、そういうわけでは……」


 ふと、張り詰めた空気が解けた。そのことで、美弥ちゃんが怒っているわけではないことがわかった。


「……すみません、ギターは弾けないんです。新しいメンバーなら頑張って集めますので、もう少し待ってください」

「違う! そういう意味でいったんじゃないんだ! 美弥はよくやってくれてる!」


 慌てた様子の蒼子ちゃんに、美弥ちゃんは一瞬驚いた顔をして――唇を柔らかく綻ばせた。


「……ありがとうございます。でも、バンドに管楽器を加えるのは良い案だと思いますよ? 私も聴いてみたいです」


 とても優しい声音だった。いつもと変わらない彼女の笑顔に、なんとなくホッとした。

 その後、美弥ちゃんは用事があるといって、部活を早退していった。


「うう……余計なことをいったみたいだ」

「いやいや、気にせんでええよ。ミヤはあの程度じゃ怒らんし。それに、ウチもそろそろいうたろと思とったから」


 しょげてしまった蒼子ちゃんを、梨々香ちゃんが慰めていた。

 わたしの幼なじみは少し、いやかなり猪突猛進なところがある。口は災いのもとって部室の壁に貼っといてあげようかな。怒られそうだけど。

 それより、さっきの美弥ちゃんの様子が気になったわたしは、二人に尋ねてみることにした。


「ねえ、美弥ちゃんってギター弾けたの?」

「ん? ああ、そういえばなっつんは知らんのか」

「美弥ちゃんはね、元々クラシックギターをやってたのよ」


 梨々香ちゃんの返事を、詩織ちゃんが引き継いだ。クラシックギター……そんな話は、まったく知らない。美弥ちゃん、どうして教えてくれなかったんだろう?


「ごめんなさいね。なつめちゃんにも教えてあげればよかったんだけど、この話はわたしたちもまだよく分からないことが多くて……」

「よくわからないこと?」

「うん。ホンマはな、ミヤと高校入ったらエレキ買って一緒にバンドしようって約束しててん。春休みにはウチら三人でギターも選びに行った。……それがあいつ、入学式の直前になって、いきなり『ギターはやめました』とかいいだしてな」


 ……ギターを、やめた?

 どういうことだろう。事情がよく分からなくて押し黙ると、梨々香ちゃんは困ったような苦笑を浮かべた。


「よう分からんのはウチらも一緒や。あいつ、ギター弾いてる時、めっちゃ楽しそうにしてたんやけどな……」

「美弥ちゃん、とても上手だったものね」


 二人の声には、心から今の状況を惜しむような響きがあった。


「そんなに上手かったの?」

「楽器やってみたら、って誘ったんはウチらやけど、音楽の先生から借りたギターで練習し始めて、ひと月くらいでバレーコードもアルペジオもマスターしてたな」

「一ヶ月……っ!?」


 あっさりと告げられた事実に、わたしは雷に打たれたような衝撃を覚えた。わたしの前に半年も立ちはだかり続ける初心者殺しの技法を、一ヶ月で。

 その場に崩れ落ちたわたしは、ガックリと項垂れる。


「い、いや、マスターといっても……少しクリアな音が出るようになったとか、それくらいのレベルだろう?」

「音楽の先生が絶賛してたわよ? その流れで、何度かコンクールにも参加してたもの」

「……ぐはっ!?」


 エレキギター歴一年の蒼子ちゃんが、膝から崩れ落ちる。

 いらっしゃい、仲良くしようね。

 わたしたちは手を取り合ってガタガタ震えていた。


「待て待て、アオっちとなっつんの方が普通やから! ミヤの成長速度がおかしいねん!」

「昔からなんでも器用にこなす子だったけど、音楽は特に才能があったんでしょうねえ。練習も休まずしてたみたいだし」


 うう……そうか、そうだよね、練習たくさんしたんだよね。

 ……よし、わたしも今日からもっと頑張ろう。

 待ってろFおよびBあたりのコード。わたしは必ずお前たちを倒してみせる!


「なつめちゃんの転んでもすぐ立ち上がるところ、わたし好きよ」

「この娘、ホンマ和むなあ」


 たぶん褒められてる。

 わたしは復活した。


「でも、クラシックギターでそこまでいったなら、どうして高校からエレキに転向しようと思ったんだ? 普通、好きならそのまま続けそうなもんだろう」


 遅れて立ち直った蒼子ちゃんが尋ねる。


「それも詳しくは聞いてないのよねえ」

「なんや受験が始まる前くらいに、急にエレキやりたいとかいいだしてな。そん時にはウチらも部活引退してたし、志望校は三人とも同じやったから、ほなみんな受かったら一緒にバンドやろかーっていうてたんやけど」

「中三の終わり頃に楽器を変えたくなって、高校入学前にはギターそのものをやめた? ……いくらなんでも変化が急すぎやしないか?」

「その時期になにかあったのかな?」

「わからん……ミヤはあの通り、感情をあんま表に出さんヤツやからなあ」


 うーん、と四人で唸る。

 美弥ちゃんがギターをやめた理由。なにがあれば、大好きなものを急に手放そうと思うんだろう? さっきの様子を見る限り、キライになったってわけじゃないと思うんだけどな。


「……まあ、ここで深刻に悩んでも仕方ないわね。美弥ちゃんも、またいつかギターを弾きたくなるかもしれないし」

「そう、だな……事情を知らない以上、今のところ私たちに出来ることはなさそうだ」

「うん。ウチらはミヤが準備してくれたライブに向けて、練習しよう」


 顔をあげて、みんなが頷いた。

 うん、そうだよね。まずは一ヶ月後の合同ライブを成功させよう。

 それに、わたしは美弥ちゃんがもう一度ギターを弾きたくなったときのために、もっともっと上手くなっておかないと!


「よっしゃ、そしたら頭から通しでやってみよか。それと、ライブで演奏する曲も選ばんとな」


 梨々香ちゃんの号令で、練習が再開される。

 流れ始めたメロディーに合わせ、ピンク色のおもちゃのマイクを握ったわたしは、大きく息を吸い込んだ。




 そんないつも通りの日常に、綻びは突如として姿を現した。


 九月の最終日。秋の気配がより一層深まった、ある日のこと。



 ――――美弥ちゃんは、退部届を出した。




       ◆




 ――そこは清潔な場所だった。

 クリーム色の壁と、綺麗に磨かれたマロンブラウンの床板。中学校の教室くらいのホールには、三十人前後の人々が集まっていた。今日のお客は全員女性。年齢層は随分と幅広い。並べられた椅子に腰を下ろした彼女たちは、揃ってこちらを眺めている。

 ……ふいに、違和感を覚えた。

 けれど気になるというほどでもない。いつものようにギターを抱え、深く息を吐いて、演奏を始める。滑り出しは順調。今日は相棒の機嫌も良いらしい。

 そうしてつつがなくプログラムを終えた瞬間――違和感の『正体』に気付いた。


 じわ、と冷たい汗が滲む。心臓が嫌な音を立てた。

 さっきまで弦の上を滑るように踊っていた指先は、知らない内に震えていた。



 いつもと変わらない日常のはずだった。


 ――その日から、あれほど愛したギターのこえが、まるで聴こえなくなった。




       ◇




「……これ、どういうことや」


 机に白い紙が叩きつけられた。

 その封筒の中心には、彼女の性格を表すような丁寧な筆致で――『退部届』と書かれていた。


「見ての通り、普通の退部届だと思いますが」

「そんな話とちゃう! ウチはお前がなんでこんなことしたんか聞いてんねん!」


 座ったままの美弥ちゃんを、梨々香ちゃんは荒々しい口調で怒鳴りつけた。

 休み時間の教室がピタッと静まりかえる。そのまま、波が引くように周りから人が遠ざかっていった。


「ちょ、ちょっと梨々香ちゃん、怒っちゃダメだよ」

「くっ……」

「美弥ちゃん、急に押しかけてごめんなさい。でもね、梨々香は心配してるのよ。ここには『一身上の都合』としか書かれていないし……ひょっとして、部活が嫌になっちゃったの?」

「別に、嫌になったわけではありません」

「だったら、どうして……」


 困惑する詩織ちゃんの声に、美弥ちゃんはなにも答えない。

 その頑なな横顔は、全ての言葉を拒んでしまいそうに感じられた。


「美弥……余計なこといって、ごめん。もうギターを弾けなんていわないから、だから……」

「違います。その話は関係ありませんし、気にしてもいません。私がやめるべきだと判断した時期に、たまたま重なっていただけのことです」

「なんや、それ……お前、自分からバンドしたいっていうたクセに」

「約束を破ったことは謝ります。ですが、それを叶えるのはもう不可能です。これ以上は貴女たちに迷惑をかける。……もう、私のことは忘れてください」

「迷惑とか、そんなん話してみな分らんやろ」

「駄目です。私が話したくありません」


 その答えを聞いた梨々香ちゃんは、俯いたまま、深い溜め息をついた。

 彼女の顔には薄い笑みが貼りついている。それはもう全てを諦めてしまったような、力のない表情だった。


「……ミヤはいっつもそれや。なんでも一人で決めて、ウチらには相談もせえへん。……なあ、そんなにウチらは頼りないか?」

「そんなことはありません」

「嘘つけ。やったらなんで話さんねん…………どうせウチらのことも、ホンマは別に友達と思って……」

「――思っていますっ!」


 突き刺さるような叫びが響いた。

 美弥ちゃんが声を荒げるところなんて、はじめて見た。思わず息をのんで固まってしまう。

 椅子を倒して立ち上がった彼女の眼光は鋭い。……でも、それはすぐに悔やむような、いまにも泣き出してしまいそうな、弱々しい視線へと変わった。


「…………想っているから、話したくないんです」


 ぽつりとこぼして、彼女は席を立った。いつもより遥かに頼りなく感じる背中が、足早に廊下へと遠ざかる。

 やがて、教室のあちこちから、微かなざわめきが聞こえはじめた。

 こちらの様子を窺うようなその声が、あまりにも遠い。


「ごめん、私のせいだ……私、なんであんなこと……っ」

「違うよ、蒼子ちゃんのせいじゃない。美弥ちゃんもそういってたでしょ」


 俯いてしまった幼なじみを慌ててフォローする。

 蒼子ちゃんはあの部室での一件をずっと気にしていた。生真面目なぶん、すごく責任感の強い性格だから。このままだと、蒼子ちゃんまで塞いでしまいそうで、心配になる。

 美弥ちゃんが退部届を提出したと聞いたのは、朝のSHRが始まる前のこと。昨日までの彼女はいたって普通だった。

 だから余計に状況が理解できなくて、頭の中は散らかったまま。

 きっと、みんなもそうなんだと思う。

 ちゃんと回ってると思い込んでいた歯車は、知らないうちに、少しずつ歪んでしまっていた。


「ねえ、さっき気付いたんだけど……」


 おずおずと戸惑う声で、詩織ちゃんがいう。

 いつも穏やかなその瞳は、いまは不安そうに揺れている。




「――――美弥ちゃん、ちょっとやつれてなかった? ……なんだか入学してから、だんだん細くなってる気がするのよ」


 その言葉は、まるで夕暮れに迫る薄闇のように、じわりと鼓膜の内側へ染み込んだ。




       ◆




 ――肉付きの薄くなった指を、ぼんやりと眺める。

 普段はさして意識しない。けれど、注意して見ればその差は歴然としていた。

 ギターに触れなくなって、どれ程の時が過ぎただろう。

 かつては一日たりともレッスンを欠かさなかったというのに、いまとなっては、その音色を聴くことに恐怖を感じてさえいる。

 すっかり柔らかくなってしまった左の指先――いや、変化したのはこの身体そのものか。

 痩せ細った手足、落ちきった体力。意識しなくても伝わる、きりりと刺すような痛み。

 かつて、あの部屋で見た女性の姿を思い出す。

 彼女達はみんな、室内でも帽子を脱がなかった。その事情は理解しているつもりだ。……そして、間もなく自分もそうなるのだろう。

 予兆も実感もある。この身体のことは、誰よりも自分が分かってる。

 ――終わりは近い。


 失敗などしないと思っていた。音楽は偉大だと。それだけの力が、自分にはあるのだと。

 そんな傲慢な心は見事に打ち砕かれたまま、ついにここまで来てしまった。


 ギターは弾けない。

 そんな気持ちには、とてもなれそうにない。




       ◇




 九月最後の夕空を、数匹の蜻蛉とんぼが泳いでいる。ここら辺でも近頃はめっきり姿を見なくなったって、おじいちゃんが嘆いてたっけ。

 昔は自然がたくさんあってよかったと、懐かしむようなその声を、なんとなく思い出した。

 あんまり何度も同じ話をするもんだから、申し訳ないながらもちょっとうっとうしく感じていたんだけど……いまならその気持ちが、少しだけわかる。

 普通に過ごせた昨日は、嫌なことがあった今日より眩しく感じる。

 そうして悪い記憶だけが削り落とされて、美化され続ける過去を、わたしたちはいつか宝物のように崇めることになるのだろう。

 ……なんて、ちょっとセンチメンタルな気分になるのは、夕方になって冷えだした風のせいかな。センチメンタルな気分。人生で一度は使ってみたい言葉のトップ10だ。なんか繊細な女の子っぽくて、いいよね。

 寒いという程じゃないけど、秋の訪れをはっきりと感じられる。

 そんな夕暮れの中、わたしは学校や自宅から六駅も離れた見知らぬ公園のベンチで、人を待っていた。

 ぼんやり空の茜色を眺めていると、誰かの驚いたような声が聴こえる。


九都ここのつ、さん……?」


 視線を下げれば、そこにはまん丸に目を見開いた、古塔美弥ちゃんの姿がある。

 立ちすくむわがガーバン部の大切なメンバーに向け、わたしは語尾のハートを強調するように、とっておきの可愛らしい表情を貼りつけて、いった。


「来ちゃった」




 予想通り、美弥ちゃんは抵抗した。だけどわたしは引き下がらなかった。

 強引に腕を引っ張って、隣まで来てもらう。どうせこのままじゃお別れになっちゃうんだ。遠慮なんてしてられない。

 渋々といった様子で腰を下ろした美弥ちゃんに、買っておいたミルクティーを渡す。

 彼女は無言のまま動こうとしない。わたしは勝手にプルタブを開けて、缶をムリヤリ押しつけた。食べ物を粗末にしちゃダメなんだからね!


「……貴女がこんなに強引な人だとは思いませんでした」


 深々と溜め息を吐いて、美弥ちゃんはようやくミルクティーを受け取ってくれた。

 強引といわれれば、そうかもしれない。

 なぜならここは美弥ちゃんのお家のすぐ近くの公園だ。住所は梨々香ちゃんに教えてもらった。これもうストーカー認定されても文句いえないよね。

 でも、どうしても諦められなかったんだよ。


「だって、こうでもしないと話を聞いてくれないでしょ? ――わたし嫌だよ。このままさよならなんて」


 美弥ちゃんが少しだけ反応した。

 動揺したようにも、ただ身動ぎしただけのようにも感じられる。

 畳み掛けて、わたしはいう。


「ねえ。美弥ちゃんはさ、本当は、ギター弾きたいんじゃないの?」


 弾かれたように顔が上がる。

 今度こそ驚いたみたい。いつも冷静な美弥ちゃんが、今日はどうしたんだろう。ひょっとして、こっちが彼女の素顔なのだろうか。


「……この状況で、その話題を持ち出しますか」

「うん。だって、もうなりふり構ってられないもん」


 どこか苦しそうな表情が浮かぶ。でも、もう躊躇はしない。

 朝の出来事から、ずっと考えていた。ずっとずっと考えて、出てきた答えは……結局、わたしたちは美弥ちゃんのことをなにも知らないのだという、あまりにも寂しい事実だった。

 人と接するとき、ある程度の距離は必要だと思う。

 いつも誰かの近くにいたい人もいれば、他人と触れ合うのは苦手だという人だっているだろう。

 わたしたちはそれを無意識の内に選別する。そして、お互いが一番心地よいと感じられる距離で、適切な関係を築き上げていく。

 美弥ちゃんは、たぶん、深く踏み込まれるのが好きじゃない。

 ……でも、わたしは美弥ちゃんのことを、もっと知りたいと願った。

 嫌われたっていい。それでも、わたしは大切な仲間が苦しそうなのを黙って見過ごしたくない。――――美弥ちゃんと、本当の友達になりたい。

 お節介だと思われたって構うもんか。今日はぶつかっていこうって、そう決めたんだ。


「美弥ちゃん、ギターを『弾けないんです』っていってたでしょ? ただ嫌になってやめたのなら、そんないい方しないよね」

「憶えていません。九都さんの記憶違いでは」

「残念でしたぁー、わたしは憶えてますー。記憶力には自信があるんですぅー」

「く……」


 いつもクールな美弥ちゃんがイラッとした顔をする。しまった、ちょっと調子に乗りすぎたかな。ぶつかるって、そういうことじゃないですよね。

 こほん、と咳払いをひとつ。

 わたしは話を元に戻した。


「ねえ、どうしてもだめかな? ギターを弾けない理由、美弥ちゃんは、わたしたちにどうしても話したくない?」

「駄目です……これ以上は、貴女たちに迷惑をかけます。私がそれを許せません」

「そっか」


 そうして、お互い無言になる。

 ざあと風の吹く音がした。空が燃えるような夕焼けには、薄らと夜の色が混ざりはじめていた。

 美弥ちゃんは、わたしたちをキライになったわけじゃない。

 朝もいってたけど、それをちゃんと確認できたことが、こんな状況なのに嬉しかった。

 ここで「そんなことはないよ」といってしまうのは簡単だ。

 でも、彼女はきっと信じきれないだろう。

 だってわたしたちは、お互いのことをまだよく知らないんだから。


「……あのさ。わたしが部活に誘われたとき、美弥ちゃんがいってくれたこと、憶えてる?」


 伏せられていた視線が上がる。その表情は、軽く困惑しているように見えた。

 憶えてないかもね。あのときは、新規クラブ設立の申し込み期限が締め切りギリギリで、みんなすごく焦ってたし。

 ……でもね、わたしはちゃんと憶えてるよ。


「『貴女の声には魅力があります。どうか私たちの仲間になってください』って、美弥ちゃんはいってくれたんだよ? ……誰かに必要とされるのなんて、生まれてはじめてだったからさ。お世辞だとしても、すごく嬉しかった」

「お世辞なんかじゃありません! 九都さんの歌声には、他の誰にもない魅力があります!」


 焦ったように美弥ちゃんがいう。聞いたことのない大きな声だったから、少しびっくりした。遅れてその内容を理解して、思わず頬が熱くなる。

 まさか、こんなに褒めてもらえるとは……。

 常日頃から褒めて伸ばして欲しいと願っていたけれど、真っ向からの称賛は、予想以上にくすぐったいものだった。


「は、恥ずかしいね…………でも、うん。やっぱり嬉しいよ。わたしね、これまでやりたいことなんてなかったんだ。夢も目標もなくて、毎日だらだらしてるだけで。……そのくせ、いつも吹奏楽部で一生懸命に頑張ってる蒼子ちゃんが羨ましかった。わたしにも、あんな風に夢中になれるものがあったらいいのに、って」


 中学の行事や発表会の舞台で演奏する蒼子ちゃんは、とても楽しそうだった。

 毎日の練習は大変そうだったけど、眩しいステージの上で堂々とサックスを奏でる幼なじみの姿は、まるで満天の星空みたいにキラキラと輝いて見えた。

 それに比べて、わたしはどうだろう。このままでいいのかな。自分で選んだ心安らかな毎日が、なんだか急に色を失くしたように感じられて、ひどく不安になったりもした。

 自分から探そうともせず、頑張らなかった自業自得のくせに、今さら「仲間に入れて欲しい」なんて、飛び込む勇気もなくて。


「わたし、今はすっごく楽しいよ。色んなことを覚えて、たくさん練習して……なかなか上手にはできないけど、美弥ちゃんたちと一緒に部活するのが、すごく楽しい」


 でもね。区切って、わたしは隣に顔を向ける。


「それは、美弥ちゃんたちが『仲間になろう』って誘ってくれたからだよ。みんなが手を差し伸べてくれたから、今のわたしはここにいられる――だから、今度はわたしの番だ」


 沈黙したままの仲間に向けて、掌を差し出した。

 膝の上で固く握られた手を取って、そっと包み込む。

 この声よ、どうか届けと……そんな願いを込めて。


「――迷惑だなんて、寂しいこといわないで。苦しいときやつらいときに支え合えるのが仲間じゃない。……わたしは、美弥ちゃんと本当の友達になりたいよ」


 ……綺麗な顔がくしゃりと歪んだ。

 一緒にいたい。もっと楽しい時間をみんなで探したい。

 立ち止まる臆病者の手を引いてくれた大切な人たちに、今度はわたしが返さなきゃ。

 わたしは、もう弱虫をやめたんだ。

 少しくらい苦しくたって、笑って受け止めてみせる。


「――――十月九日」


 ぽつりと、俯く美弥ちゃんが呟いた。

 それは、わたしたちガーバン部にお誘いがあった、合同ライブの行われる日だった。


「……その日、どうしても行かなければならない場所があります。……でも、そこに行けば私は今のままでいられなくなるかもしれない。ひょっとしたら、変わってしまった私を、貴女たちは避けるようになるかもしれない…………それが、怖いんです……」


 伝えられた言葉はあやふやで、意味をうまく理解できなかった。

 でも、それでもいい。

 ――ようやく、美弥ちゃんが心を開いてくれた。


「行かなきゃいけない場所って、どこにあるの?」

「それを聞いて、どう……」

「お願い、教えて」


 強く頼み込むと、しばらく迷った美弥ちゃんが、おずおずと口を開いた。

 そこは隣の県にある街だった。日帰りで行けない距離じゃないけど、遠い。移動時間で半日は潰れてしまいそうだ。


「美弥ちゃんは、そこに……」


 一人で行くつもりなの? と聞きかけて――やめた。

 美弥ちゃんは両親と折り合いが悪くて一人暮らしをしているのだと、梨々香ちゃんから聞いていた。詳しい事情は知らないけれど、めったに連絡も取らないくらい仲が悪いらしい。

 今までわたしたちにも隠そうとしていたことを考えると、彼女は間違いなく一人で向かうつもりなのだろう。

 だったら――


「……もう、私のことは放っておいてください。これ以上は」


 全ていい切る前に、後ろの茂みがガサッと揺れた。

 吊り気味の眼が大きく見開かれる。……うん、そうだよ。美弥ちゃんの想像した通り。


「こんのアホぉ……そんなしょうもないことで、部活やめるとかいいだしたんか」


 地を這うような、不機嫌そうな声。だけど、本当に怒ってるわけじゃないのは、もうわかってる。

 振り返ると、そこには眦を吊り上げる梨々香ちゃんを先頭に――ガーバン部のメンバーが立っていた。


「あ……ど、どうして……?」

「どうして? ……なあ美弥、お前は少し私たちのことを見くびりすぎじゃないか?」

「友達の様子がおかしいのに、放っておくわけないじゃないの」


 憮然とした顔で二人がいう。蒼子ちゃんはまだしも、詩織ちゃんがこういう表情をするのは珍しい。それだけ納得いかなかったんだろう。

 美弥ちゃんの心をわずかなりとも知れた今、きっと、全員が同じことを考えてる。


「さっきの場所、ちょっと遠いから電車のダイヤも調べておかないといけないわね」

「かおりんにはウチから連絡しとくわ。やー、でも急やし怒られそうやな……なんて謝ろ?」

「交通費はちゃんと準備できるのか? 主に、なつめのことだが……」


 当日の予定について、口々に意見が交わされる。やっぱりついていくことは満場一致で決定してるみたい。

 そして蒼子ちゃん、失礼にも程があるよ。お母さんにお小遣いの前借りを頼むんだから、大丈夫に決まってるでしょ。


「ちょ、ちょっと待ってください! なぜ貴女たちがついてくることに……ご、合同ライブはどうするつもりですか!」

「はあ? ……お前はまだそんな寝惚けたこというとんのか、この石頭」


 梨々香ちゃんが盛大に溜め息を吐いた。ゆっくり右腕が上がって、低い位置にある頭をガシッと掴む。大丈夫かな。それもう完全に不良がいちゃもんつけてる構図だよ。

 何事かと怯える美弥ちゃんに向けて、半眼の彼女は呆れたようにいう。



「ウチらガーバン部はな、古塔美弥も入れて全員や。……バンドのメンバー揃ってへんのに、ライブは始まらんやろ」




       ◆




 ――開いた電車のドアが、大勢の乗客を吐き出した。

 その大半は仕事を終えた会社員、次いで部活帰りの学生、後はちらほらとお年寄りや、塾のものらしいカバンを背負った子供の姿も見受けられる。

 どこか疲れた雰囲気を背負う人々は、朝のラッシュ時よりは比較的穏やかなペースで、改札へと向かう。

 駅舎を抜ければ、そこには見なれた景色が広がっている。

 バスのロータリー、コンビニや街灯のぼんやりとした明かり、ほとんど当たらない天気予報付きの時計塔。

 暮れかけた空は、橙色から濃紫の美しいグラデーションに彩られている。

 何度も通り過ぎてきた場所。なんだか久しぶりに見た気がする風景。

 ――それも、今日で最後だ。


 郷愁に似た思いが胸の奥をよぎる。掌には、まだ少しだけ期限の残った定期券。

 記憶の中へ焼きつけるように、もう二度と目にすることもないだろう空を見上げた。



 そこで




       ◇




 バスと電車を乗り継いで、目的の駅にようやく辿り着いた。

 はじめて訪れたそこは、思ったより綺麗な所だった。土曜の夕方だというのに、行き交う人の数は多い。

 見慣れない場所への興味は少なからずあるけど、今のわたしはそれどころじゃなかった。


「なつめ! もっとはやく走れ!」


 前を行く蒼子ちゃんが、振り返りながら急かしてくる。


「な、なんでっ、駅に着くなり、全力疾走、なのっ!?」

「知らないよ! 美弥に訊いてくれ!」


 焦れたのだろう。気の短い幼なじみが、わたしの手を掴んでスピードを速めた。他の三人はとっくに改札の外へ出ている。

 真っ先に走り出したのは美弥ちゃんだった。電車が急な車両点検で足止めされてから、少しずつ焦りはじめていたように思う。

 彼女からは、ここに来た理由をまだ教えてもらっていない。尋ねてみても「まだ確証がないので」とはぐらかされるだけだった。

 息を切らせて駅舎を抜けると、美弥ちゃんはキョロキョロと周囲を見回していた。

 その不安そうな背中は、まるで迷子の子供みたいに見えた。


「ねえ、ひょっとして美弥ちゃんは、人を探してるのかな?」

「わからん……アイツ、電車降りてすぐ走りだしたから」


 困惑した梨々香ちゃんが首を振る。他のみんなも似たような顔だった。

 美弥ちゃんは、いったいなにを探してるんだろう? せめて特徴だけでも教えてくれれば、一緒に探せるんだけど……。


 ――そう思った時、美弥ちゃんが急に動きを止めた。


 彼女の視線の先には、真新しいモニュメントがあった。わたしたちの地元にはない、デジタル仕様の大きな時計台。親切なことに、その文字盤には今日が何年の何月何日なのかと、天気予報も合わせて表示されている。曇りのち雨って出てるけど……雲、ないよね? 夕暮れの空は、それはもう見事な晴天だった。

 探し物はその時計台なのかと思った――けど、違う。

 見開かれた美弥ちゃんの視線は、文字盤を見上げる人物に向けられていた。

 流れ行く人たちの中で、ただ一人、ぽつんと動かないおじさんに。

 白髪混じりの髪を後ろに梳きつけた、少しくたびれたスーツ姿の男の人を見て、わたしはそこはかとない違和感を覚えた。

 その正体を探る間もなく、美弥ちゃんは駆け出していた。


「あ、あれ、美弥ちゃん?」

「おおおおい!? なんやアイツいきなり突撃モードか!」


 慌てるものの、どうすればいいのかもわからない。

 そのおじさんの顔にはまるで見覚えがなかった。美弥ちゃんが呼んだ名前も、はじめて耳にする。間違いなく初対面のはずだ。

 振り向いたおじさんが目を丸くする。けど、その反応はわたしたちと同じ。知ってる子に偶然会ったんじゃなく、まったく面識のない女子高生にいきなり声をかけられたというような、どちらかといえば困惑の色濃い表情が浮かんでいた。

 ……ど、どうする? どうすればいい?

 これは、ご乱心と判断して止めに行った方がいいの?

 硬直したまま動けないわたしたちから少し離れた場所で、どうやら会話は進んでいるようだった。

 とはいっても、一方的に美弥ちゃんが話しかけて、おじさんは呆然とした顔で頷いてるって感じだったけど。

 どうしたものかと立ち尽すわたしは……弾かれたように、駆け出した。


 ――――唐突に、糸が切れたかのように、美弥ちゃんの身体が揺らいだのだ。


「美弥ちゃん!」


 よろめく身体を、間一髪で支える。

 駆け寄ったわたしたちに、おじさんはさらに驚いていた。

 間近で見たその人は、全体的に細い印象を受けるけど、とても上品な顔立ちで、初老の紳士という言葉が自然と頭の中に浮かんだ。

 うん、やっぱり知らない。

 わたしは腕の中で固まっている美弥ちゃんに視線を向けた。


「ね、ねえ、美弥ちゃん、大丈夫? ……このおじさんは、誰?」


 その問いに、涼やかな瞳がさっと翳った。

 ――だけど今回は、もうはぐらかされることはなかった。


「……たぶん、信じてもらえないと思います」


 声は微かに震えていた。頼りなく揺れる瞳に、しっかりと頷いて返す。

 どんな事実だって受け止める。そんな意思を込めて。


 だけど、聞こえたのは想像の遥か上を行く、あまりにも突拍子のない告白だった。


「――私には、自分以外にもう一つ、他人の記憶があるんです」


 最初はその意味がわからなかった。

 少しずつ理解が追いついて、そのことで余計に混乱したまま、わたしは続く言葉を耳にする。



「私は、そちらの方の記憶を持っています」




       ◆




 そこで――――僕は、背後から誰かに呼び止められた。



 ――振り向いて見えたのは、まるで知らない女の子の、いまにも泣き出してしまいそうな顔だった。




       ◇




 駅前で衆目を集めてしまったわたしたちは、近場の喫茶店に場所を移していた。

 カフェではなく、広めの喫茶店。古びたお店の風貌は、そう呼んだほうが、なんとなくしっくりくる。

 少し時間がたったけれど、みんなの動揺はまだ治まっていなかった。もちろん、わたしも同じ。

 ただ向かいに座るおじさんだけは、大人の余裕なのか、すでに落ち着きを取り戻していた。ひょっとしたら開き直ったのかもしれない。

 見ず知らずの小娘たちに気を遣って、注文をすべて済ませてくれた姿はまさに紳士。うちのお父さんが同じ状況に放り込まれたら、たぶんおまわりさんに囲まれた万引き犯みたいになってると思う。


 マスターの奥さんらしき店員さんが行ってしまうと、テーブルの周りは急に静かになった。

 気まずい沈黙が横たわる中、最初に口を開いたのは、騒動の中心人物である美弥ちゃんだった。


「お騒がせして、すみませんでした。……もう覚悟も決まったので、すべてお話しします」


 冷静になろうとしていることが伝わる声で、美弥ちゃんがいう。


「きっかけは、中学に入ってすぐ、クラシックギターを弾き始めた時のことでした。夜、眠りに就くと、私は奇妙な夢を見るようになったのです」

「夢?」

「はい。知らない場所で、見たこともない人たちに囲まれている夢です。目覚めてから思い返してみても、その光景に全く憶えがありません。とはいってもそれは夢の話です。最初は不思議に思う程度ですぐに忘れてしまったのですが……一週間後に同じ夢を見てから、私はひどい違和感を覚えるようになりました」


 声が途切れる。

 一拍おいて、言葉が絞り出された。


「――――その夢は、続いていたんです」


 カラン、と音が鳴った。

 汗をかいたグラスの氷が沈んだ音だった。

 少しだけそれた視線は、すぐに俯いた美弥ちゃんへと集中する。


「まるで、誰かの記憶を無理に押しつけられているような状況でした。いつどこで起きた出来事なのかも分からないのに、映像だけはやけに鮮明で……時には、何かに触れた感触や、口にした料理の味まで憶えていることもありました。

 ……私は混乱しました。でも、こんな微塵も現実味のない話を、誰に相談すればいいのかもわかりませんでした」


 その言葉で、わたしはようやく、美弥ちゃんと家族の仲がよくなかったことを実感した。

 気づかなかったのだ。誰よりも近くにいながら、実の娘の様子がおかしことに。

 美弥ちゃんが周りに甘えられない原因は、そこにあるような気がした。


「少しでも気をまぎらわせようと、楽器の練習にのめり込むようになりました。それなりに器用な方だという自覚はありましたが、ギターだけは自分でも驚くほどのスピードで上達したのです。

 それと同時にだんだんと演奏も楽しくなりました。先生に褒められて、少し嬉しかった記憶もあります。きっと集中して練習したおかげだろうと思っていましたが――違いました。

 夢の中で、その知らない『誰か』もクラッシックギターを弾き始めたのです。演奏のクセも、好んで選ぶ楽曲も、私とまるで同じでした。夢が進むごとに一足飛びで成長していく『誰か』は、気がつけばコンサートホールで公演する程の奏者になって、その進行から反比例するように、私はギターに触れることを躊躇うようになりました。

 それが、中学三年生の終わり頃の話です」

「あ……」


 黙っていた梨々香ちゃんが、思い出したように口を開く。

 同じタイミングで詩織ちゃんが尋ねた。


「……だから、美弥ちゃんはエレキギターを弾きたいって、わたしたちにいったの?」

「はい。同じギターでも、演奏方法やジャンルが違えば、まだ弾き続けられるのではないかと思って……きっとその頃には私は、どうにか手放さずに済む方法を探すくらい、音楽が好きになっていたんですね」


 ひどく客観的なその言葉を聞いて、わたしはせつなくなった。

 それはたぶん、美弥ちゃんが自分の気持ちに無理やり折り合いをつけた傷あと。

 力尽くで抑え込まれた彼女の感情が、暗闇の中で悲鳴をあげているように感じられた。


「で、でも……だったら、どうして美弥はギターをやめたんだ? それも夢が原因なのか?」

「そのことは、とても説明しづらいのですが……ある日の夢で、その『誰か』は公演の仕事をしていました。いつもと比べると小さな場所で、お客は全員、女の人で……」

「あの、ちょっといいかな」


 掠れた声がした。

 視線を向けると、少しだけ身を乗り出したおじさんが、小さく手をあげていた。


「君は、その場所がどこだったか、憶えているのかい?」


 尋ねる声には、どこか焦っているような、あるいは何かに怯えているような音色が滲んでいた。

 そんな姿を見て、美弥ちゃんは戸惑いながら頷いた。


「……あれは『病院』です。それも――おそらく、治療が難しい患者さん達のための」

「ああ……なんという……」


 上品な顔が驚愕に染まる。

 その反応で、美弥ちゃんの推測が正しいことを思い知らされた。

 彼女は本当に夢を見たんだ。


 他人の半生を辿るという、容易には信じられないような夢を。


「目が覚めた時、私は『貴方』が抱いた感情を、はっきりと憶えていました。…………自分の価値を見失った深い絶望が、いまも頭にこびりついて離れません」


 深く息を吐き出すように告げる声は、かすかに震えていた。

 その時のことを思い出したのかもしれない。

 俯いたまま、引き攣る喉を押さえて、美弥ちゃんはいう。


「……誰か、教えてください……これは、何なのでしょうか? ひょっとしたら前世の記憶なのかもしれないなんて、そんな非現実的なことまで考えて、いくら逃げても追いかけてくる夢のせいで、好きになれたことも、大切な人たちのことも、全部諦めて…………なのに、この記憶はまだ生きている人のもので、絶望も、ずっと消えないまま……」


 ――くきゅ、と、おかしな音が聴こえた。

 視線は向けない。見なくたってわかった。

 喉を震わせた美弥ちゃんが、必死に悲鳴を飲み下した音だった。


「誰も悪くないことは、理解しています。でも――――だったら、私はどうすればいいのでしょう? いくら努力しても誰かの物真似になってしまう生き方を、もう自分のものとは思えない人生を、私はこの先、どうやって生きていけば……っ」


 それは静かな絶叫だった。

 ずっと力尽くで押さえ込まれてきた感情が、ついに抑えきれなくなった傷だらけの心が、いまにも細く消えてしまいそうな声になって、人のいない喫茶店の空気を震わせた。


「ごめん…………ごめんな、気づいてやれんくて……」


 俯く美弥ちゃんの肩を、梨々香ちゃんがそっと抱き寄せる。

 はじめての弱音だった。私は、こんなに弱々しい美弥ちゃんの姿をはじめて見た。

 ようやく頼ってくれた、と安心することも出来ない。

 きっと、限界だった。他人に自分の人生を乗っ取られるかもしれないなんて不安は、その恐怖に独りで耐え続けた数年間は、どれだけの苦痛を美弥ちゃんに押しつけてきたんだろう。

 たぶん、わたしは耐えられない。それを想像することさえ、難しい。

 ボロボロになるまで追い詰められた彼女の心を、わたしたちはちゃんと支えてあげられるのだろうか?

 そんなたやすく不安になってしまう自分が、あまりにも情けない。


「過去からは逃げられない、か……まさか、こんな形で向き合うことになるとはね」


 ふいに、ずっと黙ったままだったおじさんが、ぽつりと呟いた。

 動揺してるというなら、おじさんだってそうだろう。なにしろ今日はじめて会った女子高生に囲まれて、こんな突拍子もない話を突きつけられてるんだから。

 でも、向かいの席に座るおじさんは落ち着いていた。

 まるですべてを諦めたみたいに。……あるいは、現実のすべてに疲れきってしまったかのように。

 わたしの中で、さっきの違和感がさらに膨らんだ。

 初老の紳士という印象は変わらない。その仕草は些細な身じろぎさえ洗練されていた。

 だったら、何が。

 もやもやとした気持ちは、まだ晴れてくれなかった。


「……古塔さん、だったかな? すまなかった。なぜ君がそんな夢を見たのかは分からないが、僕が逃げ出したせいで、君に随分と迷惑をかけてしまったようだ。……本当に、申し訳ない」

「あの、まだよく理解できないんですけど……絶望って、どういう意味なんでしょうか?」


 おずおずと詩織ちゃんが尋ねると、おじさんは困ったように苦笑を浮かべた。


「さっきの説明にあった通り、簡単な話さ。たまたまギターの才能があって、これといった挫折もなく成長して天狗になっていた男が、見下していた小さな演奏会で心を砕かれて逃げ出したという、くだらない失敗談だよ」


 自分自身を嘲笑うような口振りで、おじさんがいう。

 身にまとう雰囲気が上品なだけに、そのやさぐれた態度は、あまり似合っているとは思えなかった。


「当時、懇意にしていた事務所からの依頼でね。内容は難病と闘う患者への慰問公演。無意味なプライドでがちがちに身を固めていたその頃の僕は、面倒くさいと思いつつも仕事を引き受けた。その後に控えていた大きな公演の練習くらいの気持ちでいたんだ。過去に戻れるなら、横っ面を張り飛ばしてやりたくなるほど愚かなことにね。

 普段通り何曲か演奏して丁寧に頭を下げてみせれば、惜しみない拍手と称賛を贈られるものだと思っていた。自分の生み出す音楽には、それだけの力があるのだと。

 ――結果は惨敗だった。もちろん、拍手はあった。けれど、彼女たちの反応は、とてもじゃないけど感銘を受けたなんて類のものではなかった。無機質に、ただプログラムが終わったから拍手していると、そんな無感動なものだったんだ。

 いま考えれば、それは当然の反応だったと思う。一日一日を懸命に過ごしていた彼女たちの心に、練習だなんてふざけた心持ちで挑んだ演奏が響くはずがない。……きっと、そういう浅はかな僕の心も見透かされていたんだろう。

 そのことに気付いた途端、ようやく自分が犯してきた罪の重さを思い知ったんだ。ひょっとしたら、これまでの観客たちも同じ顔をしていたんじゃないかと考えるだけで、疑心暗鬼になった僕はギターを弾けなくなった。

 ……小手先のテクニックで一流を気取っていたギタリストにとって、それは致命傷に等しい絶望だった」


 独白を終えたおじさんは、大きく息を吐き出した。張り詰めていた空気がゆるやかに解ける。

 滔々と語られた一連の言葉は、まるで懺悔のように響いていた。誰に許しを求めているのかはわからない。だけど、大人のそんな姿を見るのははじめてだったから、どうしても戸惑ってしまう。

 みんなが言葉を失って黙り込む中、静かに顔を上げたおじさんは、強張った表情をゆっくりとほぐして柔和な微笑を浮かべた。


「……これで、僕の話は終わりだ。そちらのお嬢さんは前世の記憶かもしれないといったけど、僕は違うと思う。これは、そうだな……神様の悪戯いたずら、といったところかな」

「神さまの、いたずら……?」

「ああ。――『すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない』という文句を知っているかい? ある作家の残した言葉なんだけど、まさしく今回の出来事はそうだ。人生なんて、神の思いつき次第でたやすく書き換えられてしまう。もし、作家が悪辣な神だったなら、描かれる人間はより酷い目に遭うこともあるだろう。

 ……いい方は悪いが、この過酷な経験はどうか運がなかったと諦めて、これからはじまる君だけの人生を見つけて欲しい」


 それに、と穏やかな眼差しで続ける。


「絶望が続いているというなら、それはもう間もなく終わるだろう」


 水面にさざ波をたてるような静けさで、その声は空気に染み込んだ。

 よく意味がわからなかった。美弥ちゃんたちも、訝しむような表情を貼りつけている。


 だけど、続く言葉を耳にして……わたしは、ようやく違和感の正体に気がついた。


「――僕もね、病気なんだ。おそらく、そんなに長くはもたないよ」




       ◇




 午後の七時を過ぎた空は、もうすっかり暗くなっていた。

 駅前の人影もまばら。あまりゆっくりしていると、乗り継ぎの電車に間に合わなくなるだろう。

 喫茶店を出たわたしたちは、ずっと無言だった。おじさんに無理をいったことを何度も謝り、無難なあいさつを交わして別れてから、ひたすら黙々と足を動かしている。

 誰も口を開かず、視線を下げてのろのろと歩く背中には、知らされた事実の重みが、ずしりとのしかかっているかのように思えた。


 おじさんから病状について詳しい説明はなかったけれど、話を聞いた限りでは、すでに危ないところまで進行しているようだった。

 ギターを弾けなくなって三十年以上勤めた会社を辞めたのが、まさに今日の午後のこと。病気が発覚して、反対する家族を押し切って、薬で痛みをごまかしながら、引き継ぎの業務をようやく終えたのだという。

 おじさんは「ギター以外、何も出来ない僕を雇ってくれたところだからね」と、穏やかに笑っていた。明日から県立の大学病院に入院するらしく、会社まで迎えに来てくれた奥さんに荷物を任せ、最後のワガママをいって一人で慣れ親しんだ通勤路を帰ってきたのだそうだ。

 ――違和感の正体は、それだった。

 他のサラリーマンの人たちと違い、おじさんは手ぶらだったのだ。いかにもベテランの会社員といったスーツ姿だったから、余計にちぐはぐな印象が際立った。

 別れ際になっても、おじさんはずっと美弥ちゃんやわたしたちのことを気遣ってくれていた。

「気をつけて帰りなさい」といってくれた声は、とても重い病気を抱えているとは思えないほど、柔らかかった。

 冷たい秋風に頬を撫でられながら、夜闇を照らす駅の明かりを目指す。

 わたしは、言葉を探していた。

 美弥ちゃんを慰めてあげたかった。これまでの苦闘の日々を労って、励ましてあげたかった。

 ……だけど、浮かぶ言葉はどれも安っぽいものばかりで。

 自分の語彙の少なさに深く落ち込みながら、ずっと途方に暮れている。

 誰かの蹴とばした小石が、アスファルトの上を跳ねる。

 そのとても小さな音をきっかけにして、低くかすれた声があがった。


「あの……すみません、でした……お騒がせして…………皆さんまで、巻き込んでしまって……」


 聴こえたのは、謝罪だった。

 疲れ切った声で。こらえた涙の跡を残した声色で。

 思わず、わたしは隣を見た。俯いて歩く美弥ちゃんの顔には、自分のことを嘲るような表情が貼りついていた。

 そのいまにも壊れてしまいそうな横顔を見て――わたしは、耐えられなくなった。


「美弥ちゃん」


 名前を呼んで、反応を返す時間も与えず、力いっぱい抱きしめた。

 細い身体が腕の中で硬直する。

 何をいえばいい。何があれば、この不器用な友達は救われるのだろう。

 わからない。どれだけ考えても、正解なんて見つからない。


 空回りする思考を放棄して、わたしは、ただ心に浮かぶ言葉だけを口にした。


「……いっしょに、バンドやろうよ」


 ――気配が強張るのを感じた。

 冷静に考えれば、あまりにも空気を読まない発言だ。

 蒼子ちゃんが怒るかもと思ったけど、時間が経っても声はあがらなかった。ひょっとしたら梨々香ちゃんが止めてるのかもしれない。

 もう手遅れとも感じられるほど拗れてしまった問題を前に、なんの力もないわたしに出来ることは……ただあきらめないという、たったそれだけの行動だった。


「……わたしはさ、あんまり頭よくないから、美弥ちゃんがどれくらい苦しかったのか……つらかったのか、わかってあげられない。気の利いた言葉も、ぜんぜん思い浮かばない。でも」


 拘束を解いて、身体の横にはりついたままの手を握る。

 少しだけ硬さを残した左手の指先。

 ギターを弾く人は、必ずここの皮膚が厚くなる。初心者のわたしも、ようやくその感触に慣れてきたところだった。


 大好きな楽器から離れて半年余り。

 それでも消えなかった指先の硬さ。


 ――――彼女が、どうしても手放せなかった、想いの欠片。


「この手がさ、いってるよ? ギターを弾きたいって。音楽から、離れたくないって…………わたしも、おなじだよ。美弥ちゃんともっと一緒にいたいって――いっしょに、バンドやりたいって! 誰にも負けないくらいっ、想ってるよ……っ!」


 ……声が震える。目の奥が熱くなって、滲む視界がぼやけた。

 だって、こんなのあんまりだ。神様のイタズラなんて言葉で、納得できるわけがない。

 この理不尽な仕打ちに、美弥ちゃんは怒れない。起きてしまった出来事があまりにも現実離れしすぎて、責任を求める相手はいなかった。

 自分の前世が男の人かもしれないって、その記憶が自分の中にあるなんて現実に耐える日々は、どれほど恐ろしいだろう。それを友達に知られたらと思うだけで、わたしはきっと足がすくんで動けなくなる。


 ――美弥ちゃんは、どれだけ遠慮してきたのだろう。

 ――どんな気持ちで、わたしたちのことを見つめてきたんだろう。


 想像すると、涙が止まらなくなった。


 つらかったね、苦しかったね。

 だから、もういいんだよ。

 ……もう、独りで頑張らなくたって、いいんだ。


「だいすき、だよ……美弥ちゃんに、どんな過去があったってっ、わたしは、大好きだからっ」

「ここのつ、さ……」


 ぎゅっと、頼りなく揺れる身体を抱きしめる。

 かすれた細い吐息が、首筋をくすぐった。

 支えあうように立ち止まったわたしたちの身体は、ふわりと、もう一つの温もりに包まれた。


「このあほぉ、ひとりでええとこ取ってってから……ほんま、この天然娘は……っ!」

「私だって、大好きだぞ! だから、もう辞めるなんていわないでくれ……友達がいなくなるのは、さびしいよ……」

「ずっと一緒よ、美弥ちゃん……あなたが何をいったって、離してなんかあげないんだから」


 一つ、また一つと、優しい温度が重なっていく。

 みんなずびずびと鼻を鳴らしていて、寄せ合った顔はくしゃくしゃで、きっと事情を知らない人から見たら、すごい光景になっているのだろう。


 その中心にいる美弥ちゃんは、顔を真っ赤に染めていた。

 難しい表情で、形のいい眉をぎゅっと寄せて――必死に涙をこらえようとしていたけれど、ついに、その努力が報われることはなかった。

 潤んだ眦から、ぽろぽろと大粒の雫がすべり落ちる。


「――――わだ、じもっ……みんなといっしょに、いだい、でず……っ! ……みんなといっじょに……バンドっ、したい……っ!」


 嗚咽混じりの声が震える喉からあふれた。

 そこからは、もう言葉にならなかった。みんなでわんわんと声をあげて、ぎゅうぎゅうと身体を押しつけあって。

 誰も離れようとせず、互いを抱き締め合う内に、冷たい秋風は止んでいた。

 いつも遠慮して近寄れなかった空白は、とても優しくて、温かかった。



 一度バラバラになりかけた繋がりは、不思議な出来事を乗り越えて、前よりもっと強く結びついた。

 この糸が途切れることは、きっともうない。


 ――わたしたちは本当の友達になれた。


 なんとなくだけど。

 そう、思うんだ。




       ◆




 瞼を開けると、薄暗い天井が見えた。

 いつの間にか眠っていたらしい。眩暈がする。あと、薬による重い胃のむかつきも。

 いまは何時頃だろうか。寝たきりの生活というのは、時間感覚が曖昧になっていけない。

 身体を起こそうとして、イヤホンをかけたままだったことに気づいた。

 ……そういえば、寝る前に音楽を聴いていたんだった。

 少しだけ首を傾けて、とっくに再生の終わったCDプレーヤーを見る。

 中に入っているのは、これまで手を出したことのないジャンルの曲。ポップスというべきだろうか。曲によってはジャズやブルースの要素が散見されるので、分類が難しいところだ。あまりこの方面の音楽に明るくない年寄りの身としては、呼び方に非常に悩む。

 入院生活を始めて一ヶ月。このCDが届けられたのは、つい先日のことだった。

 担当のナースから差出人の名前を聞いて驚いた。

 なんとあの不思議な女の子達のうちの一人が、これを持って来たようなのだ。

 感情表現の豊かな子で、特徴的な声だったため、記憶には割としっかり残っている。

 基本的に身内以外は病室に入れないので、学生証を提示して「ご家族の方の許可が出たら渡してください」と言伝を残して帰ったようだ。話に聞く限り、随分と緊張して恐縮しきりだったらしい。なんだか申し訳ないことをした気分になった。

 プレーヤーは家内に頼んで持ってきてもらった。言伝の通り、先に内容を確認した家内は、「こういう曲も聴くようになったの?」と不思議そうな顔をしていた。


 CDには、彼女達のバンドによるオリジナルソングが数曲収録されていた。


 誤解だった。この手の曲をちゃんと聴いたのは、これがはじめてである。

 内容に関しては……はっきりいえば、稚拙だ。

 個々の技術も曲の構成も、甘めに見積もったところで『上手』とはとてもいい難い。


 ――けれど、奇妙な力がある曲だ。


 少なくとも一生懸命さは伝わってくる。

 ちぐはぐな個性を持つ楽器が、それぞれ同じ一つの目標に向かって、必死に全力疾走しているような演奏だ。

 走りがちなドラムスと、振り回されやすいベース。失敗しまいと硬くなるソプラノサックスに、まだ不慣れであることが伝わるギター。その音色を抱え込むように、歌声が自由奔放に飛び跳ねながら、力強く、がむしゃらにゴールへと背中を押していく。

 そこには、不思議なエネルギーがあった。

 決して上手くはないのに、気がつけば何度も聴き直してしまう。

 そこに原因があるかのように手の中のイヤホンを眺めていると、病室の扉が開いた。


「あら、起きてたのね」


 入ってきたのは荷物を手にした家内だった。

 窓の外はもう暗かったが、そこまで遅い時間ではなかったらしい。

 ベッド脇の椅子に腰かけた彼女は、僕の手元に視線を向けて、さもおかしそうに笑った。


「また聴いてたの?」

「ん? ……ああ、なんとなくね」


 やや気恥ずかしさを覚えて、視線も合わせずにそう返す。

 こういったジャンルの曲を純粋に楽しむには、少し歳をとり過ぎだと思う。


「不思議な歌よね。私も、ずっとメロディーが耳に残ってるのよ。……ふとした瞬間に思い出して、なんだか元気になっちゃう、って感じかしら」


 その感想を聞いて、僕はようやく気がついた。

 ああ、そうか。――この曲で、彼女達は手を差し伸べているのだ。

 失敗してしまった人に。疲れて立ち止まってしまった人に。恐れて前に進めなくなった全ての人に向けて、彼女達は音楽でエールを送っている。

 その対象には、きっと彼女達自身も含まれているのだろう。

『大丈夫だよ』『失敗したっていいじゃない』『疲れたら少し休もう』『肩の力を抜いて』『元気になったら、ゆっくり立ち上がろう』『ゆっくりでいいよ』『また、楽しいことを探そうよ』

 飾りけのない言葉で、彼女は歌う。

 マイペースに、決して相手を焦らせない速度で。

 そうして『一緒に行こう』と、力強く手を握り返す。

 ――これまで多くの人から差し伸べられてきた手を、彼女達は知っているのだ。

 その事実に気付くことは、簡単そうで、難しい。

 それを誰かに返すのはもっと難しいだろう。

 かつての僕には、決して出来なかったことだ。


「……なあ」

「どうしたの?」


 妻が軽く首を傾げる。その小さな癖は、付き合いだした頃から変わらない。

 ……こんなことをいって、笑われないだろうか。

 これまで努めて冷静であろうとしてきたが、いまさらになって、僕の中にはある欲が芽生えていた。


「この病気が治ったら……もう一度、ギターを弾いてみようと思うんだけど、君はどう思う?」


 顔も向けずに尋ねた。

 答えは、ない。

 沈黙に耐えかねて、ちらりと様子を窺うと――――妻は両手で口元を覆って、その眼に涙を湛えていた。

 びっくりして向き直る。身体の節々が痛んだ。

 ただ、それ以上の衝撃があった。

 ――ああ。僕は、このひとを傷つけていたのか。

 自身の終わりを容易く受け入れて、さっさと死に支度を始めてしまうような人間を傍で見続けるのは、どれほどの苦痛だったろう。

 愚かな僕は、そんな単純なことにすら気付いていなかった。

 挫折を経験したはずのあの日から、僕は何ひとつ成長していなかったのだ。


「すまない……すまなかった。君には、本当に苦労をかける」

「ほんと、よ……まったく、手がかかるんだから。あなたは……本当に、子供みたい」


 呆れたようなその言葉に、何もいい返せなかった。

 だけど、もう間違えない。

 数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの失敗を、これから、生きて取り返さなくては。


「すまない。また迷惑をかけるけど、よろしく頼む」

「ホント、いまさらね。もう慣れたわ」


 そういって、彼女は笑った。

 妻のこんな笑顔を、久しぶりに見たような気がする。

 それだけでも、この先を生きたいと願う理由には、充分過ぎた。



 僕は生きることにした。

 逃げるだけの日々はもう終わりだ。


 叶うなら、理不尽な絶望に付きあわせてしまったあの女の子に何かしてあげたいけれど、いまの僕に出来ることはあまりに少ない。

 だから、せめて言葉を贈ろう。

 彼女はこれから新しい人生を歩き始める。

 その行先に多くの祝福があるように。

 古い呪縛を打ち砕いて、力強く前へと進んで行けるように。


 素晴らしい仲間達と過ごす未来が、眩い希望の光で輝くようにと、願いを込めて。




       ◇




 ――一瞬の静寂のあと、大きな音が鳴り響いた。


 爽やかな疲労でふらふらの足元を揺るがすような、たくさんの歓声と拍手。

 地元の小さなライブハウスは、大勢のお客さんと、肌を炙るような熱気に埋め尽くされていた。


「わたしたちの演奏を最後まで楽しんでくれて、ありがとうございましたーっ!」


 マイクに向かって大声で叫ぶ。みんなで頭を下げると、再び割れんばかりの拍手とアンコールの声。

 えぇー、応えてあげたいんだけどぉー、今日は対バンだから、まだ他の人の出番もあるんだよねぇー……なんて、ちょっとスターになった気分。えへへ。

 ――うん、わかってる。みんなアンコールっていわれてたもんね。ライブの儀式みたいなもんだ。今日のお客さんはノリのいい人たちばっかりで本当によかった。

 すれ違う次のバンドのメンバーたちと軽く挨拶を交わして、眩い照明の光が注ぐステージから遠ざかる。

 あのライトがまた暑いんだ。もう外はすっかり冬だというのに、わたしたちのお揃いのTシャツは汗でびしょびしょだった。


「ね! ね! 今日、どうだった? なかなか良かったんじゃないかな!」

「おう、なっつんはホンマ本番に強いなー。初の対バンでこれやったらたいしたもんや!」

「失敗してもすぐ立て直すものね。ステージのなつめちゃんは見てて安心できるわ」

「わーい! ほめられたー!」


 もっと、もっと褒めて! わたしは貪欲に求むるよ。

 実際、今日は頑張ったと思うんだ。歌詞も二回しか間違えなかったし。


「こらなつめ、通路で騒ぐんじゃない。みっともないだろ」


 などと調子に乗っていたら、蒼子ちゃんに怒られました。

 ですよねー。すみません。次からは気をつけます。

 ……だけどね、わたしは知ってるんだよ?

 蒼子ちゃんが、久しぶりにサックスで舞台に立ててご機嫌なことを。


「いやー、でも蒼子ちゃんのサックスはさすがだったよね。こう、なんていうの? 音色が心に響くっていうかさー」

「ふ、ふん! 当たり前だ! 何年もってるんだからな!」


 偉そうにプイッと顔をそらすけど、その耳は真っ赤で、口の端がひくひく動いてる。

 ふふ、蒼子ちゃんてばホントにチョロいんだから。

 ……いつか余計な壺を買わされないかって、わたしは幼なじみとして真剣に心配です。


「――で? 美弥はどうやった? はじめてのライブは」


 梨々香ちゃんが尋ねて、わたしたちは同時に振り向いた。

 ギターを抱いて最後尾を歩いていた美弥ちゃんが、全員に見られてたじろいだ。

 あちこちに視線をさまよわせ、何度もギターを持ち直し、頬を林檎みたいに染めて俯いた美弥ちゃんは、


「た…………たのしかった、です……」


 ――うわあ、なんだこの可愛い生き物!


「くっ……あの無愛想女がここまでミラクル進化するとは……」

「美弥ちゃんったら、すっかり可愛くなっちゃって…………持って帰りたいわ」

「なあ詩織、知ってるか? 拉致監禁って犯罪なんだ」

「望むところよ。検挙までに本懐を遂げてみせる」

「本懐ってなんだよ。どうしてお前はそうギリギリの生き方しか選べないんだ」

「よし、そういうことならウチが連れて帰ろう。逃がさんで」

「あ、あ……こ、九都さん、たすけて……」

「えー? ……美弥ちゃんが名前で呼んでくれたら、考えてもいいけどなー」


 ピキッ、と美弥ちゃんが硬化する。

 ……だって、ねえ?

 あれからもう一ヶ月だよ? そろそろいいんじゃないかな。いつまでも苗字しか呼んでくれないのは寂しいです。……さあ、ほら。恥じらいなんて捨ててしまうがいいよ! かもんかもん。

 ニヤニヤしながら待っていると、散々迷っていた美弥ちゃんが小さく口を開いた。


「……な、なつめ…………さん」

「――よーし! 美弥ちゃんはわたしがもらったーっ!」

「ぅ、ひっ!?」

「あーっ?! ずるいぞなっつん! ミヤ、ウチも名前っ! ていうかウチら何年の付き合いや思てんねん! 苗字呼びってお前のポリシーじゃなかったん!?」

「美弥ちゃん、わたしは別に『お姉ちゃん』でもいいわよ?」

「味方が、いなくなりました……っ」

「お、おい、美弥? 私は一応、お前を助けようとしたぞ……?」


 口々に好き勝手なことをいいながら、みんなで美弥ちゃんを揉みくちゃにする。

 わたしたちの関係を変えた出来事から一ヶ月、今では当たり前になった距離。

 すべてを打ち明けた日から、美弥ちゃんはもうあの夢をみていないという。

 まだ完全に安心は出来ないけど、たぶんもう大丈夫なんじゃないかな。仮にまた夢をみたとしても、今度はわたしたちがいる。

 美弥ちゃんはもう独りじゃない。

 誰かに頼ることが出来る。ちゃんと甘えられる。

 困ったら躊躇わず踏み込んで行ける距離に、わたしたちはいるんだ。

 ――うん、なんだかまたテンションあがってきた。

 これはみんなと喜びを分かち合うべきだよね!


「――じゃあさ、ぱぱっと後片付け済まして、打ち上げ行こう! 打ち上げ!」


 さあ盛り上がってまいりました! なにを食べようかなー?




 ……その後、控え室から飛び出してきた薫里ちゃんに「他のグループの演奏中に騒ぐな!」と叱られたのは、いうまでもないことであった。




       ◇




 ライブハウスを出ると、ふいに美弥ちゃんが立ち止まった。

 彼女の瞳は、街灯に照らされた後ろの道に向けられていた。


「どうしたの?」

「あ、いえ……」


 尋ねても、ちゃんとした答えは返ってこなかった。

 その代わりというように、彼女は視線を断ちきって、ふわりと優しい笑みを唇に乗せる。


「――なんでもありません。さあ、行きましょう」


 わたしは頷いて、歩きだした美弥ちゃんの横に並ぶ。

 こっちの道では、随分と先に進んだみんなが振り返って、遅れたわたしたちを呼んでいた。

 ねえ、ちょっとくらい待つ気はないの?

 どうやらわがガーバン部のメンバーたちはよっぽどお腹が空いているらしい。

 少しだけ足を速めて、わたしたちはせっつくみんなの元へと急いだ――



 ――ごめんね、美弥ちゃん。わたし、ちょっと嘘ついた。

 ほんとは見えてたんだ。でも、見たものは内緒にしておこうと思う。


 それは美弥ちゃんにとっての決意表明だった。

 彼女が未来まえへ進むための、魔法の呪文。

 たぶん、あんまり知られたくはないだろう。

 だからわたしは見えなかったことにする。



 振り向いた彼女の唇は、こういっていた。






    “さようなら、―――――”






       きのうの私/あしたの僕  了








とても短いお話(長編と比べたら)

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