母の日は青い空
瞬くと、見慣れたシーツが目に飛び込んできた。
大きな長いアクビをすると、その模様がジンワリと滲んだ。
溜め息を吐き、洟をすする。
でも、涙はそれきり出てこなかった。
乾いてる。
私はぼんやりとそう思う。
昨日、フラれたばかりだというのに、ちっとも涙が出ないのだ。
悲しくなかったわけじゃない。
悔しくなかったわけじゃない。
ショックで、はじめ状況が飲み込めなかったくらいだ。
高校に入って、初めてできた彼氏だった。
休みの日は必ず一緒にいたし、下校だって極力一緒にした。
お互い口数は少ないほうだけど、途切れ途切れに色々な話もした。
それなのに、突然、好きな人ができたって。
私は徐々に状況を把握するにつれ、そんな在り来たりな理由で本当に振られてしまうものなのだな、と他人事のように思ったことを覚えている。
それで、きちんとお別れした。
私は止めなかった。
というより、言うべき言葉が見つからなかったのが本当だ。
―――――好きな人ができた。
―――――うん。
―――――だから、別れよう。
―――――うん。
―――――ごめんな。
―――――うん。
―――――今までありがとう。
―――――うん。
そんな感じで、私はフラれた。
締められたカーテンの隙間から、日差しが漏れている。
今日も日差しが強いらしい。
と、ベランダを移動するサンダルの音が聞こえてきた。
ごそごそとなにやら動いている。
「今頃、洗濯物干し?」
カーテンを開けると、母が忙しなく動いていた。
「あら珍しい、まだ寝てたの」
一切興味がなさそうな声で彼女は言う。
私は返事をせず、再び毛布に包まり、感傷に浸ろうとした。
付き合っているときは、土日は必ずどこかにデートに行ったから、母が始動する前には家を出ていた。
今日はだいぶ遅く起きた。
目覚まし時計をセットしていないとこんな時間まで寝ていられるのかと少し感心したりした。
「朝ごはん、一応テーブルの上にあるからね」
そういい残すと、母は無遠慮に階段を降りていってしまった。
結局、私の気持ちが足らなかったからなのだろうか。
それにしても、あんなに一緒にいたのに、どこで好きな人を見つけてきたのだろう。
そんなことを思いつつ、リヴィングへ降りた。
「なにがいけなかったんだろう・・・」
私がテーブルに顎を載せ、そう呟くと、
「なにが?」
と母が訊いて来たので、驚いて飛びのいた。
彼女は私のその姿を見てカラカラと笑った。
そして、暖かいココアを差し出した。
「あー、あたし、人生で一番掃除がキライ」
私と同じ格好をして母が突然そう言った。
顔を見ると、ひどく間の抜けた表情をしている。
「布団は畳んだ?」
私の問いに、母は顎をくっつけたまま肯いてみせる。
「洗濯物は?」
「さっき干してたでしょ」
「洗い物は?」
「終わってる」
「じゃあ、後は掃除だけじゃない」
私の尤もな意見にも、彼女ははっきりしない言葉を発しただけでその場にとどまった。
ココアは私の喉を通り、胸からお腹までを温めてくれた。
「しかし、久しぶりに出かけないわね」
母は珍しいものを見るような目で私を見る。
「別に、たまにはいいじゃない、こういうのも」
そう言うと、そうね、とだけ彼女は返した。
リヴィングのソファでゴロゴロしていると、母もゴロゴロしながら傍で読書をした。
テレビをつけてみると、お笑い番組をみて一緒に笑った。
お菓子は親戚のおじさんが持ってきたうなぎパイだった。
それと一緒に、濃いお茶を啜る。
口の中いっぱいに広がる香りを鼻で吸い、また吐くを繰り返す。
「ねえ」
不意に母が声をかけてきた。
視線は文庫本に落とされている。
「なに」
私はうなぎパイを齧りながら答える。
「お昼、何にしよっか」
そういえばもういい時間だ。
時計を見ながらそう思う。
「せっかくだから、外にいこっか」
「せっかくって何よ」
「べつに、深い意味なんてないけど」
言った傍から母は行動を起こした。
私の身だしなみを整えさせ、自分も外に出られる格好に着替えた。
「ほら、もう行くよ」
などと言って私を急かすのだが、言い方でちっとも急いでいないのがわかる。
玄関を出ると、住宅街を歩いた。
春が、いつの間にか夏に変わろうとしていた。
私は、恋愛に夢中で見落としていたものを、そこで次々と見つけていった。
もう、緑が濃く色づいていたし、日差しは強く私の肌を焼いた。
小さい頃よく遊んだ公園は、遊具の一部が使用禁止になって少し寂れた印象だったが、やはり幼稚園児や小学生が各々自由に走りまわっていた。
彼氏とも、この公園をよく利用した。
初めてキスしたのもこの公園だった。
まだ子供達が遊んでいた余韻が残っている夕暮れ時だった。
そういえば、あの時は夏だった。
あの頃からもう、一年が経つ。
結局、一年続かなかった。
一生、一緒にいるって本気で思ってたのに。
「角のスーパーに行くよ」
遊具の傍に突っ立っている私を置いてきぼりにして、母はズンズンと前へ進んだ。
スーパーではカツオのたたきとそれに付ける練り生姜を買った。
それに、菓子パンとみりんとレトルトカレーを。
私は気分の赴くまま、商品をかごに入れていった。
なんとも自由な買い物だった。
「ねえ、花、買おうよ」
スーパーの中の花屋に、カーネーションが飾られていた。
母の日用、と書かれているものまであった。
そうだ、今日は母の日。
「いいよ、花なんて」
でも母はそんなことを言って断った。
「花なんて食べられないじゃない」
「食べられないからいいんでしょ」
私はわけがわからない理由を並べ、”母の日用”カーネーションを一輪取り、母に贈った。
もちろん、気まぐれだった。
きっと昨日フラれていなければ、こんなことを思いつくはずもなかった。
でも私はいいことをしたという気分になった。
母は喜んでいたかわからないが、なんだかとてもいいことをした気になったのだ。
「うわ、ますます晴れですね」
店外へ出ると、私はふざけた調子でそんなことを言った。
確かに外は、晴天そのものだった。
雲が視界に入らない、空の丸さがわかるくらいの晴天。
昼間の、健康的な青い空。
「よし、早くお家かえってお昼にしましょ」
そう言って母は私の三歩前を歩いていく。
買い物袋に、他の商品と一緒にカーネーションが刺さっていた。
それがとっても母らしい行為に見えて、私は吹き出してしまった。
目の前に広がる青い空に向かって、伸びがしたくなった。
私は存分に伸びをした。
さあ、帰ろう。
かえってカツオのたたきをお腹一杯食べるのだ。