若き日の郷愁
蒼ざめた空の下で温泉街に逼る山腹は白々しく肥っている。あそこの少し禿げた黒い肌は、ちょうど昨夕、雪崩れたらしい。麓のはだかな枯野には不香の花が紊れて咲く。
川底は凍っている。水面に浮かぶ白い太陽には、川魚が鱗を閃かせ、きらきらと群がっていた。
近頃舗装されたばかりの狭い川端の往来を、川の流れに負けじと逆らって走るのは、それがちょうど一台通えるオート三輪だった。
黒い羽織袴を拵え、それに不似合いの薄桃色のストールを肩に垂らした小さな背の清原勝利は、路傍に避けた。ちょうど馴染みの饅頭屋の庇を被り、しかし朝日は真横から射していた。あけすけの店内を覗くと、饅頭の並んだショウウィンドウの向こうに年増の店主が立っている。
ふっと顔が合うと、店主は唇の横に深い皺を作り、うやうやしく頭を下げた。勝利もつられて微笑み、会釈した。それまで結ばれたように閉ざされていた唇が解け、白い歯並びの隙に漏れ出た仄白い吐息が、店のガラスの肌を曇らせた。
濃やかな霧が互いの顔をひた隠しにする。
勝利がガラスを素手ですべり悪く拭うと、垢の擦れたガラスの向こうに大きな口を開けて下品に失笑する店主の姿があった。何がそんなに可笑しいのかしら。
オート三輪が独特の匂いをだけ残して背を通りすぎた。勝利はもう一度会釈をすると、また歩き出した。
歩きながら、川の向こうに見える雪山のさらに遥か向こうにあるはずの海を偲ぶ。今まで『春の海』を聴き、御来光の滲む朱い太平洋を眺めて過ごした元旦が遠い昔のようだ。まだほんの子供の勝利が郷愁に沈むはずがないが、しかしこの郷愁は、たとえば昨夜の夢が遠い記憶のような、いわば若い郷愁だった。
二階建ての黄色い宿を目印に往来半ばで右に曲がると、雪代水に洗われた黒い石畳が温泉街の底に沈んでいた。黄色い肌を舐めるように岩造りの囲いを巡ると、その入り口に当たる。
軒を仰げば石畳の往来に梁を突き出して桁を担ぎ、垂木が架かっている。そこには重苦しい闇が澱む。縹色の庇の陰に這入這入ると、玄関先の四角い燈りの下に毳毳しい門松が照れている。赤樫の
表札には蒼勁な字で「松井や」とあった。
玄関の引き戸を引くと、正面に帳場がある。
薄紅色のビオラが花瓶に挿さって可愛らしい。
人の姿はなく、闃として寂しい。
勝利はひょいと慣れた調子で仄暗い宿に這入り、帳場に置かれた呼び鈴を鳴らした。キンと冴えた鈴の音が無垢な静寂に爪を立て、たちまち宿の隅々から白熱電球の乳色の燈が浮かび上がった。柾目の縁甲板が延びる廊下の奥部から、やわらかい跫音がこちらへと近づいた。
足袋の擦れる音がして止まった。廊下の角から頬紅のしるく年増の女将が顔を覗かせた。
「あら、勝利さん。なんとまあ立派な格好で」
「あけましておめでとう、小母さん」
女将は思い出したように体を現し、急いて勝利の前で鞠躬如とした。それから少し体勢が障ったのか、膝の居場所を探るように、ますます少年の膝下へと躄った。
「この度は謹んで新春のお慶びを申し上げます」
眼下、紺飛白の山袴を着、足袋の裏は若干黒ずんでいる。髪は後ろで一つに簡単に結われ、白髪が数本混じっている。ひとつひとつの挙措が始終齷齪としているものだから、冬場だのに汗ばんだ体の縮こまった姿は土左衛門にさえ見えた。宿において、それは女将というよりは仲居のようで、あるいは女中のような、果ては按摩のようである。
夢見がちな少年の幻想というものは、化粧のしていない女のしらふでさえ簡単に崩れ去るものだというのに。
女将はぐっと顎を持ち上げた。頸から胸もとにかけて延びた瓜実の顎の影が熟れた谷間の闇がりに紛れた。
「昨年はご贔屓いただき、厚く御礼申し上げます。本年もどうぞ、よろしくおたの申します」
「はは、止してよ」
都会でよく山出しの気取り屋の好んでする、いやに物々しい上品言葉が思い出されてぞっとしない。昨年都会から越して来たというだけで、浅薄な謙譲を受けることが、勝利には居心地が悪かった。あまつさえそれは肩の怒ったスーツを召す当世紳士でも灰殻の厚化粧の娘でもない。鄙俗の陋屋で襤褸のまとった年増が言っているのだ。
「小母さん、真智子ちゃんは?」
女将は腰をくゆらし立ち上がり、「あれはもうすぐですよ」と、帳場裏の茣蓙の敷かれた部屋に立ち入った。勝利もつられて、帳場のビオラの向こうで閑かな部屋を盗み見ると、神棚には冬の太陽らしい橙をのせた鏡餅が供えられていた。かたわらの階段箪笥まで歩いて、下から見上げて、
「ほら、勝利さんが待っていますよ」
「はあい」
そのたった一声に耳を欹て、睫毛にしつこく蜘蛛の糸の垂れるような目覚めもそこそこに曖昧な視界がたちどころに霽れ切った。
柔らかい足音。
階段を下る。
雪のように白い足袋がまず見え、だんだらの階段ひとつひとつに見せる彼女の姿は二度と同じものはない。
勝利は目前に逼る真智子の野暮ったくも窈窕たる姿をまともに見た。
「どうかしら」
薄水色の唐桟の小紋をしつらえ、胴を絞る乳色の西陣織の名古屋帯が重たげに胸の下に据えてある。沛然たる雨のように黒く丈夫な髪の窮屈な流れにひそむ、色鮮やかな玉のかんざしが可愛らしい。
勝利は瞿然とした。
いったい真智子の姿は訪ねれば毎日見えるし、小紋ばかりであればここで働く制服と見ても、さして珍しいものでない。それが正月の晴姿と見るだけで、なんと別誂えな、格別なことだろうか。
夢見がちな少年の目には、それが将来のお嫁さんのウェディングドレスにさえ見えてならない。
「ああ。とてもいいよ」
と、普段べらが回る勝利は、吶吶と簡単に言った。それがいかにもにべもない。
「あら、存外薄情なのね。悲しいわ」と、真智子は餅のように白い頬を膨らまして、外方を向いた。
勝利は困ったように凛々しい眉を落として
「いいや、そうじゃないんだ。あんまり美しいものだから、君に似合う言葉を探していたんだよ」
と、体裁悪く申訳を並べた。
真智子はふふっと微笑んで、
「ええ、わかっているわ。一寸からかってみただけよ。ごめんなさい」
早熟の二人のロマンスを忖度したらしい女将の姿はもうすっかり見えなかった。
ふっと、真智子は勝利の可笑しい身なりを改めて瞥見すると、しかし都会の知らない田舎者が都会の流行だか御洒落だかを嗤うのは、かえって恥ずかしいことのように思われて黙った。
勝利には勝利で、真智子のそうしたやさしい苦慮がありありと知れた。というのも真智子は勝利の肩に垂れた薄桃色のストールを見るたびに眉をつり上げて目を逸らし、それからマスチフのように頬の肉を重く垂らすものだから、真智子がその可笑しな恰好を笑うまいと必死なのは知れていた。
「ああ、これかい。これはプレゼントだよ」
勝利はストールを自身の肩から大仰な手振りで滑り落とし、それを満目広げた。天井の白熱電球を透かして見ても、一顆の真珠が、薄桃の生地の心許無く踊るばかりだが、勝利にとってはそれこそが頼もしかった。
「プレゼント?」
勝利は未だ温もるストールを真智子の豊富な髪の上に優しく被せ、右肩に垂れたストールの端を持ち上げて彼女の柔らかそうな左頬にかすめて首に回した。
薄桃のストールに包まれた真智子の白い顔は、赤らむ貝殻の中で生まれた真珠のように黝い光沢を帯びた白玉だった。
「真智子ちゃんだからね。きっと似合うだろうと思ってね。真智子ちゃんだから」
映画俳優に明るくない真智子は、勝利のまざまざと知れる昂奮の意味を単純に自らの美貌のためだと自惚れた。しかし本来ならば小恥ずかしい思い違いは、互いの不必要の礼節を取り払うだけの助けとなった。
「あら。これが都会の流行り?」と、真智子はいたずらに笑った。
「そうだね。流行り物は嫌いかい」
「みいはあは厭よ」
と、冷たく吐いてから二三秒の間をつくり、
「でも、あなたが好いというなら別だわ」
「うん。とっても似合っているよ」
合わせる二つの顔は間に鏡を置いたようで、同じ時に笑い、同じ時に黙り、同じ時に冗談を言った。一歩前に出るだけで、そして目を瞑るだけで、きっと接吻のひとつも簡単にできたはずだ。
しかし、こんなにもひねこびた二人きりの男女は、やっぱり子供だった。
「しかしこれじゃあせっかくの髪が台無しかい」
「ううん。このままがいいわ」
しかし、こんなにもひねこびた二人きりの男女は、やっぱり子供だった。
「しかしこれじゃあせっかくの髪が台無しかい」
「ううん。このままがいいわ」
二人は見つめ合い、それから殊勝そうに手を取り合うと、あたかも世界が微笑むような日本晴れのもとを歩いて、初詣に出掛けた。
今はその手が、ただひたすらに心地よかった。




