第九話 ふわふわのユキモフ
『離れの女神様』がコールドランドに住み始めてから、三週間が経とうとしていたある日のこと。
アリシアが離れの窓辺でハーブティーを飲みながら読書をしていると、庭のほうから奇妙な音が聞こえてきた。
——……キュゥ、キュゥ……
か細い、小動物の鳴き声のような音だ。アリシアは本を置き、そっと窓の外を覗いた。雪に埋もれた庭木の陰で、何かがうごめいている。
「なにがいるの?」
アリシアは外套を羽織り、外へと出てみた。近づいてみると、それは雪の塊のように真っ白で、ふわふわとした毛並みを持つ小さな生き物だった。一見すると子犬のようだが、その体躯に比べて耳が大きく、尻尾は体と同じくらい長くふさふさとしている。
「あなた、迷子かしら?」
しゃがみ込んで声をかけると、その生き物は驚いたようにビクリと体を震わせた。そして、アリシアのほうへ顔を向けた。
(……かわいい!)
それは、まるでぬいぐるみのようだった。つぶらな瞳は深いブルーサファイアの色をしており、鼻先は桜貝のようにピンク色。全身を覆う真っ白な毛並みは、触れずともその柔らかさが伝わってくるほどだ。しかし、アリシアはすぐに異変に気づいた。その生き物の後ろ足が、不自然な方向に曲がっていたのだ。何かの罠にかかったか、あるいは肉食動物に襲われたのかもしれない。白い毛並みには、痛々しい血痕が滲んでいた。
「かわいそうに。痛かったわね」
彼女が手を伸ばすと、子犬のような生き物は警戒して小さく唸り声を上げた。だが、怪我の痛みで逃げることもできないようだ。アリシアは刺激しないようにゆっくりと手を近づけ、傷ついた足に触れた。
「——『癒し』。そして『再生』」
彼女の指先から、温かく柔らかな黄金の光が溢れ出した。光が足を包み込むと、骨が砕け、肉が裂けていた傷口が、みるみるうちに塞がっていった。痛みも和らいだのだろう。唸り声は、すぐに『キュゥ……』と甘い声に変わった。
「よし、これで大丈夫ね!」
アリシアはそっと体を抱き上げた。想像通り、その毛並みは極上だった。最上級に柔らかく、そして温かい。彼女の胸の中で、安心して目を細めるふわふわの生き物。
「あなた、一体何かしら? 犬でもなさそうだし……」
アリシアは、この地に生息する生き物についての知識を総動員した。真っ白な毛並み、とても大きな耳、長い尻尾。そしてこの尋常ではない愛らしさ。
「まさか……あなた、『ユキモフ』なの?」
ユキモフ。それは、コールドランドに古くから住む伝説の神獣だ。普段は人前に姿を現すことはなく、雪深い山奥にひっそりと暮らしているという。その毛皮は保温性が抜群で、どんな寒さでも防げる。また、ユキモフの魔力は周囲の環境を浄化する力を持つと言われている。
コールドランドの守護獣とも呼ばれる存在だ。
「でも伝説の神獣にしては、ちょっと小さすぎないかしら?」
アリシアは腕の中で眠そうにするユキモフを見つめた。確かに見た目はユキモフの特徴と一致しているが、魔力は微弱で、とても守護獣と呼べるような強さは感じられない。
「ひょっとしたら、まだ子供かもしれないわね。まあどちらにしても、こんな小さな動物を雪の中に放り出すわけにはいかないわ」
ユキモフを抱え、アリシアは小屋へと戻った。室内の暖かさに、ユキモフはさらに心地よさそうに目を細め、アリシアの胸元に顔を擦り寄せてくる。
「ふふっ、くすぐったいわ」
アリシアが温かいミルクを用意すると、ユキモフは夢中で飲み干した。そして満足げに『キュゥ!』と鳴き、再び彼女の膝の上に飛び乗ってきた。どうやら、アリシアの膝元が定位置になってしまったようだ。
「温かくて湯たんぽ代わりになるし、とってもふわふわしていて可愛い。これからよろしくね!」
膝の上で丸くなるユキモフの温もりと、柔らかな毛並みの感触。それは、アリシアの新たな癒やしとなった。
* * *
翌日。アリシアが小屋の掃除をしていると、ゼノスがやってきた。
「……何か拾ったそうだな」
ゼノスの声はいつものように低かったが、その瞳には隠しきれない興味の色が浮かんでいた。アリシアは作業の手を止め、ソファの上で眠っているユキモフの頭を撫でた。
「ええ、この子です。庭で怪我をしていたのを保護したんです」
「……これは」
「ユキモフ、だと思います。でもまだ子供みたいで、魔力も弱いんです」
ゼノスは信じられないといった様子でユキモフを見つめていた。彼もまた、その伝説を知っていた。コールドランドの守護獣であり、人前に姿を現すことは稀な存在。それが、まさかこんなにあっさりとアリシアに懐いているとは。
「……君は、本当にすごいな」
ゼノスの言葉に、アリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます! この子、本当に人懐っこいんですよ! ほら、ゼノス様も撫でてあげてください!」
かつて『死神』と呼ばれた男の目に映るのは、雪の世界で温かな光を放つ、アリシアの明るい笑顔。彼は無意識のうちに、それを守りたいと強く願っていたのだった。




