第六話 王都の異変
王都エルフレイム。
そこはかつて、一年中色とりどりの花が咲き乱れ、清らかな空気が満ちていた。五年前から始まったその平穏は、たった一人の女性——役立たずと蔑まれ追放されたアリシアの魔力によって支えられていた。その事実に気づいている者はまだ誰もいない。
彼女が追放されてから二週間。
目に見えぬ綻びは、確実に、そして残酷に王都を蝕み始めていた。
「……おい、これはどういうことだ。説明しろ、ミラ」
王宮の庭園で、エドワードは苛立った声を荒らげた。彼の指差す先には、茶色く変色し、無残に首を垂れた白バラの群生があった。昨日まではミラの魔力によって、不自然なほど鮮やかに咲き誇っていたはずの花々だ。
「昨日の晩餐会では、あんなに美しく咲いていたではないか。隣国の使節団に『これこそが真の聖女の力だ』と自慢したばかりなのだぞ! なぜ一晩でこうなる!」
エドワードの傍らで、ミラは真っ青な顔をして立ち尽くしていた。彼女は震える指先をバラに触れ、必死に魔力を込める。ミラの周囲に、派手な黄金色の光が渦巻いた。一見すれば、それはアリシアの穏やかな光よりもずっと強大で、神々しいものに見えた。
「さあ……咲きなさい! 私の魔力を与えてあげますわ!」
ミラの叫びに応えるように、枯れかけていたバラが一時的にシャキッと茎を伸ばし、無理やり花弁を広げた。だが、その変化はあまりに異様だった。花は本来の色を失い、どす黒い赤へと変色していく。さらに、周囲の芝生までもが急速に枯れ果て、砂のように崩れていった。
「あ……」
ミラが魔力を止めると同時に、バラはボロボロと崩れ落ち、泥のような塊に変わった。当然の結果だった。彼女の魔法の本質は、アリシアのような癒しの力ではない。周囲の植物や生物の寿命を強制的に前借りさせ、一点に集中させて『一瞬だけ豪華に見せる』だけのものだ。そしてアリシアが五年間かけて土壌に蓄えてきた生命の貯金も、ミラはこの一週間で使い果たしてしまったのである。
「どうした、ミラ! もっと魔力を注げばいいだろう!」
「そ、それは……エドワード様、どうか落ち着いてくださいませ……」
ミラは冷や汗を拭い、脳をフル回転させた。本当のことは言えない。自分にそんな持続的な力がないこと、そして以前、隣国の使節団を歓待するために植物の寿命を数年分前借りして強制的に成長させてしまったため、もうこの土壌には吸い上げる命が残っていないことなど。
ミラの脳裏に、憎たらしいアリシアの顔が浮かんだ。
(……そうだ、ぜんぶあの女のせいにすればいいのよ! 私はまったく悪くないんだから)
「……分かりましたわ、エドワード様。原因は私ではありません。……これは、アリシアの仕業です」
「何だと? あの偽聖女が?」
エドワードが眉を吊り上げる。ミラはここぞとばかりに、目に涙を溜めて彼の腕にしがみついた。
「アリシアは、自分が追放されると分かって、この王宮の植物たちに恐ろしい呪いをかけていったのですわ。自分がいなくなった後、私たちが困るように……。なんて恐ろしい人。私がいくら魔力を注いでも、あの女の執念深い呪いが邪魔をして、植物たちの命を吸い取ってしまうのです……!」
ミラの嘘は、あまりにも支離滅裂で無根拠だ。
だが、プライドが高く、自分の正当性を信じて疑わないエドワードにとって、その言葉は真実そのものだった。
「……なるほど。あの役立たず、そんな小細工をしていったのか! 恩着せがましく五年間も居座っておきながら、去り際に呪いをかけるとは……。どこまで根性が腐っているのだ、あの女は!」
エドワードは拳を固め、地面の泥を忌々しげに踏みつけた。
「安心しろ、ミラ。呪いなど、お前の真の力があればいつか解けるはずだ。あんな女の陰湿な術に負けるな」
「はい……エドワード様。私、頑張りますわ……」
ミラはエドワードの胸に顔を埋め、内心で舌を出した。とりあえずの時間は稼げた。あとは何か適当な魔道具でも手に入れて、誤魔化し続ければいい。エドワードが自分を信じている限り、王太子妃の地位は安泰だ。だが、二人はまだ気づいていなかった。異変は庭園だけではないことを。王都を流れる川の水は少しずつ濁り始め、あれほど澄んでいた空気には、どことなく重苦しい澱みが混じり始めていた。
* * *
一方、その頃。
辺境コールドランドでは、王都の不穏な空気とは正反対の、穏やかで活気に満ちた時間が流れていた。
「——ふふ、いい香り。これも成功ね」
アリシアは離れの庭に作った小さな温室の中で、満足げに声を上げた。彼女の目の前には、コールドランドの厳しい寒さの中でも元気に葉を広げる、鮮やかなグリーンのハーブたちが並んでいる。王都では呪いのせいにされている枯死現象だが、アリシアの周囲では、石鹸の材料にするための植物たちが、彼女の溢れ出す癒しの魔力を浴びて、瑞々しく育っていた。
そこへ、一人の男がやってきた。ゼノスだ。彼は相変わらず無愛想な表情だったが、その手にはアリシアのために用意したという、最高級のハーブの種の袋が握られていた。
「……アリシア。騎士団から報告があった。例の石鹸、あまりに好評で、訓練の質まで上がったらしい」
「まあ! それは良かったです」
「あいつら、今では貴様……いやお前のことを『離れの女神』などと呼んでいる。……全く、浮かれすぎだ」
ゼノスは呆れたように溜息をついたが、その瞳は優しくアリシアを見守っていた。彼にはわかる。王都で何が起きたのかは知らないが、アリシアがもたらす癒しこそが、本物の奇跡なのだと。
「女神だなんて、大げさですよ。私はただ、みんなが気持ちよく過ごせるお手伝いをしているだけですから」
アリシアは楽しそうに笑い、ゼノスが持ってきた種を受け取った。
二人の間に流れる空気は、王都の澱んだそれとは正反対の、透き通った希望に満ちていた。




