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追放された聖女は辺境でスローライフを送ることにした。 ~領主様に溺愛されているので、今さら戻れと言われても困ります!~  作者: 葦ノ冬夏


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第三話 ボロボロの新居


 離れの小屋は、冷え切った湿った空気が充満していた。カビと埃の匂いが鼻を突く。天井の隅には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、窓ガラスは汚れで曇り、外の景色など見る影もない。至るところに隙間風が吹き込み、床板は歩くたびにギィ……と悲鳴のような音を上げた。


「……なるほど。これが私の新居……」


 アリシアは一人、ぽつりと呟いた。

 普通の女性なら絶望して泣き崩れるような光景だ。きらびやかな王宮と比べると、あまりにも無残。だが、アリシアの瞳には、かつてないほどの輝きが宿っていた。


(素晴らしいわ。誰の目も届かない、私だけの場所。ここをどう綺麗にしようかと考えただけで、胸が高鳴るわね)


 アリシアはまず、外套を脱いで傍らに置くと、袖を大きくまくり上げた。

 王宮にいた頃、彼女は一日に二十時間近くも王都全体の広域結界に魔力を供給し続けていた。その重圧から解き放たれた今の彼女の体内では、強大な魔力が出口を求めて渦巻いているのだ。


「このボロボロの建物も、私の魔力ですぐに直してみせるわ」


 アリシアは床に膝をつき、祈るように両手を合わせた。

 彼女が静かに瞳を閉じると、その掌から柔らかな黄金の粒子が溢れ出した。それはまるで、冬の午後の陽だまりを凝縮したような、温かく優しい光だ。


「——清浄、そして活性」


 光の波紋が床を伝わり、壁を駆け上がっていく。それが触れた場所から、驚くべき変化が起きた。長年こびりついていた黒ずんだ埃が、まるで雪が溶けるように霧散していく。湿気で腐りかけていた木材は、みるみるうちに瑞々しい色を取り戻し、切り出されたばかりのような芳醇な木の香りを放ち始めた。埃にまみれていたカーテンも光に触れ、元の鮮やかな深紅色が蘇る。窓ガラスは、まるで透明な水そのものになったかのように磨き上げられ、外の銀世界を美しく映し出した。


「ふう……。やっぱり、自分のために魔力を使うのって、こんなに気持ちがいいのね」


 アリシアは額の汗を拭い、満足そうに微笑んだ。

 王太子エドワードは、アリシアを何もできない役立たずと嘲笑った。彼はミラが披露するような、派手な光と共に花が開く手品めいた魔法を好んだ。アリシアの魔法はそれとは違う。彼女の癒しの魔力はあらゆる生物や物の奥深くまで浸透し、どれだけ傷ついたり壊れたりしていても元の姿に戻すものだ。


 部屋を綺麗にすると、次にアリシアは生活の質を向上させるための素材を探した。

 棚を漁ると、おそらくコールドランドの特産品である「魔綿まめん」の束を見つけた。寒冷地でしか育たないこの植物の綿は、繊維が鋼のように硬く、ゴワゴワとしていて肌触りが最悪なため、普段は荷物の緩衝材や、使い捨ての敷物にしか使われないものだ。


「この子たちも、きっと何かに使えるわ……。大丈夫よ、役に立たないものなんて一つもないんだから」


 アリシアは魔綿を膝に乗せ、慈しむように魔力を注ぎ込んだ。一本一本の強固な繊維を解きほぐし、そこに癒しの魔法を編み込んでいく。アリシアの指先が動くたび、硬かった魔綿は、まるで雲のようにふわふわとした質感に変貌していった。

 二時間後。触れた瞬間に吸い込まれるような柔らかさを持ちながら、頭を乗せれば最適の高さで受け止めてくれる、特製の『安眠枕』が完成した。


* * *


 コールドランドの夜は寒く、そして静かだった。

 アリシアは、魔力で癒した土から芽吹いたカモミールの香りを楽しみながら、離れの庭を散策している。

 すると背後から重苦しい足音が近づいてきた。


「……何をしている。こんな夜更けに」


 冷徹な声。

 振り返ると、そこにはゼノスが立っていた。

 月光に照らされた彼の顔は、昼間よりもさらに青白く見えた。鋭い瞳の奥に、絶え間ない激痛に耐えている者特有の焦燥が浮かんでいる。


(ああ、やっぱり……。この人、内側の魔力が暴走しているわ)


 アリシアは彼の纏う空気を見ただけで悟った。

 ゼノスはこの荒れ果てた土地を守るために、限界を超えて力を使い続けてきたのだろう。その魔力は正しく循環せず、体内を傷つけ、精神を削り、彼から眠りという安らぎを奪っている。


「ゼノス様こそ、どうされましたか」

「……貴様の生存確認だ。この寒さだ、朝になれば凍死しているかと思ったが……」


 ゼノスは言葉を切った。

 彼の目の前にある離れが、昨日までの廃屋とはまるで別物の、温かな光を放つものになっていたからだ。


「見てください、これを。……今のゼノス様に、一番必要なものです」


 アリシアは、抱えていた自作の安眠枕を彼の胸元にぐいと押し付けた。

 ゼノスは、あまりの無作法さに驚き、眉を跳ね上げた。


「……枕だと? 貴様、私を愚弄しているのか」

「いいえ、大真面目です。ゼノス様、最後にぐっすり眠れたのはいつですか?」

「そんなことは覚えていない。辺境伯の職務に、安眠など不要だ」

「嘘ですね。その隈が、あなたの悲鳴を代弁しています」


 アリシアは一歩踏み出し、ゼノスの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 至近距離で、彼女の甘い香りがゼノスの鼻先をかすめる。それだけで、彼の頭を締め付けていた頭痛が、一瞬だけ和らいだ。


「お願いします。今夜だけ、これを使ってみてください。明日の朝、何も効果がなかったら、どんな罰でも受けます!」


 アリシアは、確信していた。——必ずこの安眠枕が冷徹な辺境伯を癒すと。

 ゼノスは毒気を抜かれたように、その雲のような枕を受け取った。

 指先から伝わる異様なまでの温かさと柔らかさに、彼の凍てついた心が、ほんのわずかに動揺していた。


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