最終話 永遠に
氷土に閉ざされていたコールドランド。しかし今、この地に吹く風に、肌を刺すような鋭さはもうない。代わりに、解け出した雪が大地を潤し、眠っていた種たちが一斉に芽吹く、生命の躍動を感じさせる甘い香りが満ちていた。王都を襲った未曾有の災厄、そして執着と傲慢に塗れたエドワードやミラの末路。それらすべての喧騒は、遠い異国の御伽話であるかのように、今のこの地には静寂と安寧が流れている。
その夜、コールドランドの館を照らしていたのは、空に掲げられた見事な満月であった。雲ひとつない紺碧の天から降り注ぐ光は、庭園に咲き始めたばかりの花々を淡く縁取り、世界を幻想的な輝きで包み込んでいる。
「……アリシア、少し歩かないか」
夕食の後、館のテラスで夜風に当たっていたアリシアに、ゼノスが声をかける。
「はい、ゼノス。喜んで」
彼は、アリシアの華奢な肩を冷やさぬよう、羽織っていた自らの外套を掛けてやる。身体を包み込む、ゼノスの温もりと、微かな花の香り。それだけで、胸の奥は温かな幸福感で満たされていく。
二人は並んで、月明かりの下の庭園を歩き出した。かつては呪いによって凍てついていたこの土地も、今はアリシアの慈愛に満ちた魔力によって完全に浄化された。
「信じられません。少し前までは、すべてが雪に埋もれていたのに」
「……そうだな。君が、この大地の呪いを解いてくれた。私の閉ざされた心を開いてくれた。ぜんぶ、君のおかげだ」
ゼノスの低く心地よい声が、夜の静寂に溶けていく。
彼は立ち止まり、アリシアへと向き直った。銀の月光が、二人の端正な横顔を彫刻のように美しく照らし出した。
ゼノスはアリシアの両手を包み込むように握り、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
アリシアの瞳——澄み渡った宝石のようなそれに映っているのは、ありのままの自分を愛してくれた、一人の男の姿だった。
「……アリシア。君がこの地に来たとき、私は警戒していた。王都を追放された偽聖女が、コールドランドに害を及ぼすのではないかと。けれど、君は過酷な環境に文句ひとつ言わず、私や領民のために尽くしてくれた」
「あなたがいてくれたから、私は自分の力を誇りに思えるようになったのです。コールドランドという温かい場所を、私にくれてありがとう。ゼノス」
二人の間に、言葉はもう必要ないはずだった。だが、ゼノスには伝えなければならないことがあった。一人の男として、目の前の女性を一生をかけて守り通すための誓いを。
ゼノスはゆっくりと、アリシアの前に跪いた。
広大な辺境を統べる誇り高き領主が、一人の女性にすべてを捧げる求婚の礼を取る。その光景は、まるで絵画のように美しかった。
「アリシア。
君がいない世界など、私には想像できない——」
ゼノスは深呼吸をし、震えるほどの愛を込めた。
「——心から愛している。アリシア・ローウェル。君のその太陽のような笑顔を、一生守りたい。……私の妻になってくれ。この私の魂を賭けて、君を永遠に愛することを誓おう」
アリシアの瞳から真珠のような涙がひとしずく、零れ落ちた。悲しみの涙ではない。あまりにも大きな幸福に心が震え、溢れ出した喜びの雫だった。
「……はい。はい、ゼノス。」
彼女は溢れる涙を拭いもせず、満開の向日葵のような、最高に可愛らしい笑顔をゼノスに向けた。
「私も、あなたを愛しています。聖女としてではなく、あなたの妻として……一生、そばにいさせてください」
アリシアの快諾の言葉を聞くと、ゼノスは安堵したように表情を緩め、立ち上がった。そして、彼女の腰を抱き寄せ、力強く、けれど限りなく慈しむように引き寄せた。
かつて死神と呼ばれた辺境伯は、一生を添い遂げると決めた真の聖女の、震える桃色の唇にゆっくりと己の唇を重ねた。触れるだけの、けれど魂を分かち合うような深く長い接吻。
月明かりの下、二人の呼吸が重なり、混ざり合う。
かつての孤独も、受けた呪い傷も、すべてはこの瞬間のためにあったのだ。
やがて唇が離れると、ゼノスはアリシアの額を自分の額にそっと押し当てた。
「もう、この世の誰にも、君を傷つけさせはしない。私が生涯をかけて、君を守り抜く」
「……ありがとう、ゼノス」
二人は手を取り合い、再び歩き出した。
魔獣に滅ぼされた王都の残照は、もう届かない。自分たちをないがしろにした者たちの結末も、アリシアたちは知る由もない。
月明かりに照らされた二人の背中は、どこまでも真っ直ぐに、輝かしい未来へと続いていた。
この物語はこれで完結となります。最後まで読んでくださってありがとうございました!良ければ、下のボタンから評価をしてくださると、とっても嬉しいです!




