第二十二話 終焉
王都エルフレイムが魔獣の爪牙にかけられ、朱に染まっていくその時。王宮の最上階にある豪華な私室で、ミラは鏡の前に立ち尽くしていた。外から響く民の断末魔も、建物を揺らす地響きも、今の彼女の耳には届いていない。ミラの指先が、まるでもろくなった土壁のようにボロボロと崩れ始めている。爪は黒ずんで剥がれ落ち、そこから覗く肉は瑞々しさを失い、どぶ川のような悪臭を放ちながら萎んでいく。
「な……何ですの、これは……。私の、私の美しい手が……!」
ミラがこれまで振るってきた魔法は、周囲の生命力や自分自身の寿命を前借りすることで、辛うじて聖女の奇跡を模倣していたに過ぎなかった。地下室で《愚神の杖》を使い、神の逆鱗に触れたことで、その代償は一気に膨れ上がった。奪い、奪い、奪い尽くした果てに待っていたのは——
身体の芯から、耐え難い熱と痒みが這い上がってくる。皮膚の下で何かが蠢き、膨れ上がり、内側から彼女を食い破ろうとしていた。
鏡の中に映るミラの顔が、じりじりと音を立てて歪み始めた。かつて何人もの男たちを惑わせた美貌が、今や呪われた仮面のように剥がれ落ちようとしていた。
「いや、いやあああ! 私の顔が、私の顔がぁ!」
悲鳴と共に、彼女の白い頬に亀裂が走った。陶器のように滑らかな肌がパリパリと音を立てて砕け、破片となって床に散る。その下から現れたのは、瑞々しい若さとは対極にある、醜悪な現実であった。
脂ぎった深い皺。土気色を通り越して、死人のように黒ずんだ皮膚。歯茎は剥き出しになり、かつての澄んだ瞳は、濁った黄色の白目の中に落ち窪んでいる。
それは、彼女が本来辿るはずだった数十年後の姿であり、同時に他者の命を啜って肥え太った化け物の真実の相であった。鏡の中にいるのは、美しい聖女などではない。怨嗟と強欲を煮詰めたような、おぞましい老婆であった。
「嘘よ……嘘、嘘! こんなの私じゃない! 私は聖女ミラ! 皆に愛され、崇められる王太子妃よ……!」
ミラは狂ったように、床に落ちた自分の皮膚の破片を拾い上げ、顔に貼り付けようとした。だが、崩壊は止まらない。
変わり果てた自分の姿。そして、己が招いた魔獣によって滅びゆく王都の惨状。ミラの精神は、そのあまりの落差と恐怖に耐えきれず、完全に崩壊した。
「あは、あはははははは! 綺麗、とっても綺麗だわ! ほら、皆見て! これが新しい聖女の姿よ! どう? 美しいでしょう?」
裏返った声で笑いながら、ミラはよろよろとベランダへと歩み出た。吹き荒れる風が、彼女の白髪混じりの乱れ髪を弄ぶ。眼下には、魔獣に喰い殺される民たちの地獄絵図が広がっている。
「見てなさいアリシア! 私は、あなたより美しい! 真の聖女は——このミラよ」
彼女は、自分がどこへ行こうとしているのかも理解せぬまま、手すりの上に足をかけた。ミラの脳裏には、最後まで自分が世界の中心であるという、歪んだ幻想だけが走馬灯のように駆け巡っていた。
次の瞬間、ミラの身体は宙に舞い、石畳の地面へと墜落していった。
* * *
王宮の地下会議室。そこには、かろうじて魔獣の襲撃を免れた重鎮たちと、ひどく老いた国王の姿があった。エドワードが部屋に入るなり、国王は言葉を発することなく、一枚の書状を彼の足元に投げ捨てた。
「……父上、これは?」
「廃嫡だ。エドワード、お前はもはや我が子でも、王太子でもない」
国王の声には、怒りすら通り越した深い絶望が宿っていた。本物の聖女であったアリシアを追放し、国を未曾有の危機に陥れた。挙句の果てに、王国の防衛を放置してアリシア奪還のために軍を動かし、失敗。その罪は、一言で言い表せるものではなかった。
「な、何を仰るのですか! 私はこのエルフレイムのために! ミラが、ミラが自分を真の聖女だと言ったから!」
「そのミラの醜態、既に報告を受けている。お前が選んだのは、聖女ではなく、国の命を啜る寄生虫だったのだ。お前の愚行により、エルフレイムは終わった。国王である私も、魔獣に食われるのを待つだけだ……」
護衛の騎士たちに左右から腕を掴まれ、彼は無様に引きずられていく。
「離せ! 僕は王太子だぞ! アリシアを……アリシアを連れ戻せば、まだやり直せるんだ!」
最後まで自分を棚に上げ、他者に責任を転嫁し続ける男の叫び。それに応える者は誰もいなかった。
その後、ベランダから飛び降りたミラは、奇跡か呪いか、死ぬことさえ許されなかった。地面に叩きつけられた衝撃で四肢は砕け、精神は完全に壊れた。変わり果てた老婆の姿のまま、彼女は崩壊寸前の王立病院の隔離病棟に収容された。
そして、自分が誰であるかも分からぬまま、虚空を見つめては『私は聖女、私は聖女』と、よだれを垂らしながら呟き続けているという。かつての美貌も、権力も、何もかも。すべては幻のように消え去り、そこにはただ、自らの欲望に焼き尽くされた哀れな老婆の残骸があるだけだった。
かつて神に愛された都と謳われたエルフレイムは、真の聖女アリシアを失ったことにより、その352年の歴史に幕を閉じた。
魔獣によって蹂躙され、炎に包まれた王都が、その後どうなったのかを知る者はいない。




