第二十一話 断罪
極北の境界線。吹き荒れる強風が、王都軍が掲げるボロボロの軍旗を無情に揺らしていた。対峙する二つの軍勢の間には、刺すような沈黙が流れていた。コールドランドの領民たちが放つ、静かな闘志。そして、アリシアを捨てた報いを受けた王都軍の、深い絶望。そこに、一人の男の無様な慟哭が響いた。
「……アリシア……アリシアぁ…………ッ!」
王都軍の先頭に立っていたエドワードが、ガタガタと膝を震わせ、その場に崩れ落ちた。泥濘と化した雪の上に、王家の威光を象徴する豪華な金の鎧が音を立てて倒れ込む。彼はもはや、王太子としての体裁すら保てていなかった。脂汗にまみれた顔を歪ませ、縋るような目をアリシアへと向ける。
「頼む……戻ってきてくれ! 僕が悪かった、すべて僕が間違っていたんだ! だから……だからお願いだ、王都へ戻って、あの地獄を止めてくれ!」
地面に額を擦り付け、涙を流して懇願するエドワード。その姿に、コールドランドの領民からは失笑と、深い軽蔑の眼差しが向けられた。かつてアリシアを『偽聖女』と罵り追放した男が、自分たちの存亡が危うくなった途端、無様に泣きついている。その身勝手さは、あまりにも滑稽だった。
アリシアは、足元に這いつくばる男を静かに見下ろした。
「お立ちください、エドワード殿下」
彼女の声は、氷原を渡る風よりも清らかに、けれど断固とした冷たさを持って響いた。
「先程申し上げた通り、殿下にどれだけ懇願されようとも、絶対に王都には戻りません」
その言葉は、エドワードにとって死刑宣告に等しかった。彼は血走った瞳を剥き、必死に言葉を繋ごうとする。
「だが……だが、このままだと王都は滅亡してしまうんだぞ! 人々が魔獣に食い殺され、街が灰になろうとしている! ミラではダメなんだ……あの女は偽物だった! 我々には、本物の聖女が必要なんだ!」
エドワードの言葉は、自己中心的な救済の要求に過ぎない。アリシアは、その醜悪な叫びを聞くと、ふっと微かに微笑んだ。それはあまりの皮肉さにこぼれた、冷たく、そしてどこか哀れみを含んだ笑みであった。
「……本物の聖女、ですか。以前エドワード様は、私のことを偽聖女だと決めつけました。私は大した魔力もなく、何の価値もない役立たずだと……。いまになって都合よく戻ってこいなどと、よく言えますわね?」
アリシアの言葉が、エドワードの胸を鋭く刺し貫く。
エドワードが彼女に向けて放った無数の罵倒。それを、アリシアは一言も忘れてはいなかった。
「それは……それはその、あの時は状況が……!」
「状況が変われば、手のひらを返す。それがあなたの本質です。王都に戻っても、私はまたかつてのようにこき使われるだけでしょう。ですが、ここでは違います。私はここで、一人の人間として大切にされる喜びを知りました」
「…………っざけるなああああっ! このクソ女!」
離れの女神の断固たる言葉に、エドワードは正気を失い、彼女のドレスの裾を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間——
「——私の大切な人を傷つけようとするとは、いい度胸だな」
アリシアの隣に立つゼノスの全身から、物理的な衝撃を伴うほどの凄まじい魔力が解放された。大気が激しく震え、周囲の雪が一瞬にして蒸発し、かと思えば再びダイヤモンドダストとなって結晶化する。ゼノスの瞳は、獲物を屠る直前の獣のような鋭い光を宿していた。
「アリシアを王都に戻すことは、この——ゼノス・フォン・コールドランドが許さぬ!」
ゼノスの一歩ごとに、大地が激しく軋み、エドワードの周囲だけが急激に凍りついていく。
「アリシアはこのコールドランドの救世主であり、私の生きる希望だ。もしこれ以上執拗に彼女を引き戻そうとするならば、いまここで——死んでもらおうか」
ゼノスは腰の剣を抜くことさえしなかった。ただ、解放された魔力だけでエドワードを恐怖のどん底に突き落とした。王都軍の兵士たちは悲鳴を上げて武器を落とし、逃げ始める。
「ひ、ひぃぃ……っ!?」
エドワードは、目の前の男が『死神』の異名を持つことを思い出した。もっとも、今の彼は死神などではない。アリシアによって呪いは解かれたからだ。しかし、エドワードはそれを知らない。
「……あ、ああ……あああああああああ!! ……撤退だ……。引け! 全員引けぇ!!」
王太子はじめとする王都軍が一斉に撤退していく。コールドランド領民たちは、無様な彼らの背中に冷たい嘲笑の目を向けた。アリシアを連れ戻せば救われる、という最後の希望を完全に断たれた王都軍は、魔獣の蠢く地獄の王都へと、惨めな敗走を始めた。
軍勢が遠ざかり、再び静寂が戻った氷原で、アリシアは深く息を吐いた。
「……終わったな、アリシア」
「はい、ゼノス。……全て、終わりました」
彼女は心からの、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。王都との関係は、完全に断ち切られた。彼女を縛るものはもう何もない。
「帰りましょう、私たちの館へ」
ゼノスはアリシアを愛おしそうに抱き寄せる。
そしてふたりは白銀の世界へと歩き出した。




