第十九話 王太子の妄執
王都エルフレイムの栄光は、今や見る影もなく瓦解していた。空からは血のような赤黒い雨が降り注ぎ、至る所で魔獣の咆哮と、逃げ場を失った民の断末魔が響き渡っていた。王宮の堅牢な外壁でさえ、巨大な魔獣たちの怪力によって次々と打ち砕かれていた。
「ミラ! 何をしている! さっさとその杖でこの状況をなんとかしろ!」
王宮の謁見の間。エドワードは、床にへたり込んで震えるミラを乱暴に蹴り飛ばした。ミラの手に握られた《愚神の杖》は、もはや深紅の光を放つことすらなく、不気味な黒い煤を吐き出している。
「ひっ……あああ……無理、無理ですわ……。魔力が、私の魔力が全部吸い取られて……」
ミラの美しいはずの肌は土色に変色し、その瞳には理性の欠片も残っていない。エドワードは、目の前の『真の聖女』が何の役にも立たない偽物であることを、この期に及んでようやく理解した。彼女を本物として担ぎ上げ、アリシアを追放した自分の判断が、王都を滅ぼしているという事実。それを認めることは、プライドの高い彼にとって受け入れがたい屈辱であった。
そこへ、全身血塗れの伝令が飛び込んできた。
「報告します! 第一から第三防衛線が突破されました! 魔獣の群れは既に第四居住区に侵入、王宮の正門が破られるのも時間の問題です……」
「黙れ! クソが!このまま魔獣に食われて死ねというのか? 王太子であるこの僕が?!」
エドワードは伝令を剣の柄で殴り飛ばし、外に広がる地獄絵図を凝視した。街は燃え、騎士団は壊滅し、民たちは魔獣に食い殺されている。もはや王都だけで解決できる段階はとうに過ぎていた。
(……そうだ。アリシアだ。あのアリシアさえいれば、こんなことにはならなかった。あいつの結界があれば、魔獣など一歩も踏み込めなかったはずだ)
エドワードの脳裏に、かつて自分に従順で、どんな無理難題も黙って引き受けていたアリシアの姿が浮かぶ。
「……そうだ。あいつを連れ戻せばいい。ビスクの帰りなど待っている暇はない! アリシアを奪還すれば、このエルフレイムは救われる。あいつに結界を張り直させ、癒しの魔法を使わせれば、すべては元通りになるのだ!」
それは、現実逃避が生んだ狂気じみた妄執であった。ビスクが連れ戻しに失敗したことなど、彼には関係なかった。自分が直接出向き、王太子の権威を見せつければ、アリシアはまた自分に跪くはずだと信じて疑わなかった。
* * *
「残っている兵を集めろ! 騎士団の生き残り、近衛兵、動ける者はすべてだ!」
エドワードは狂ったように咆哮した。王都を死守すべき残存戦力を、彼は自分の道具——アリシアを取り戻すためだけに注ぎ込もうとしていた。
「これより辺境コールドランドへ向かう! 真の聖女、アリシアを奪い返すのだ! 彼女こそがこの王都を救う鍵である! 奪還さえ成れば、この魔獣どもなど一掃できる!」
「しかし殿下、今ここで戦力を割けば、エルフレイムは完全に手薄になり……」
「黙れ! 僕に逆らう者は反逆罪だ! アリシアさえ手に入れば、すべては解決するのだと言っているだろう!」
間もなく、王宮の裏門から一団の軍勢が出陣した。燃え盛る王都を見捨て、王太子自らが率いる『アリシア奪還軍』。彼らは、魔獣が溢れかえる荒野を、辺境へと向かって突き進む。
「待っていろ、アリシア。お前は、僕を輝かせるための道具なんだから——」
エドワードは確信に満ちた笑みを浮かべた。彼にとって、コールドランドでアリシアがどのような生活を送り、誰に守られているかなど、考慮の対象ですらなかった。ただ、彼女を奪い返しさえすれば、再び自分が王太子として君臨できる。その妄執だけを糧に、壊滅寸前の軍勢は凍てつく北の地へと馬を走らせた。




