第十八話 もう二度と
応接室に立ち込めたのは、ただの冷気ではなかった。それは、長年『死神』と恐れられ、孤独の中で研ぎ澄まされてきたゼノスの殺意そのものだった。扉の残骸が床に転がる音さえ、凍りついた空気の中では鋭い悲鳴のように響く。
「……私の館で、随分と騒がしい真似をしてくれるな、王都の使者よ」
ゼノスの声は低く、地を這うような重圧を伴っていた。鑑定官ビスクは、アリシアの手首を掴んでいた自らの手が、激しい震えで制御できなくなっていることに気づいた。
「な……な、ゼノス辺境伯! 貴公、これは反逆だぞ! 私はエドワード殿下の命を受け、都の危機を救うためにこの女を連れ戻しに来たのだ! 離せ、この無礼者が!」
ビスクは必死に虚勢を張り、掴んでいたアリシアの腕をさらに強く引き寄せようとした。だが、その指先がアリシアの肌に食い込むよりも早く、彼の足元が真っ白な霜に覆われた。
「ひっ……!?」
氷の這う速度は、常人の理解を超えていた。ビスクの磨かれた革靴は瞬時に床に凍りつき、冷気は脛を伝って彼の体温を奪っていく。
「その汚れた手で、二度と彼女に触れるなと言ったはずだ」
ゼノスは、震えるビスクに冷たい視線を突き刺し、アリシアを自分のそばへと優しく引き寄せた。
「ゼノス……」
「案ずるな、アリシア。この男はこのまま帰らせる。——王都の使者よ。貴様らは、自分たちが何を切り捨てたのか、まだ理解していないようだな。このアリシアこそが、凍てついたこの地の呪いを解き、絶望に沈む私たちを救い出した『救世主』だ」
「っ救世主だと!? 笑わせるな、そんな役立たずの偽聖女が! 水晶の数値も満足に出せない無能が、この地の何を変えたというのだ!」
ビスクの叫びを、ゼノスは一喝して遮った。
「黙れ! 数値しか見られぬその腐った目ごと抉り取ってやろうか? アリシアを役立たずと罵り、追放した貴様ら愚か者どもに、彼女を返すわけがないだろう!」
その言葉は、アリシアの心を温かくした。ゼノスはアリシアという存在そのものを、自らの誇りとして肯定してくれたのだ。
「帰り、エドワード殿下に伝えろ。アリシア・ローウェルは、お前たちの所有物ではない。彼女はコールドランドの宝であり、私の……とても大切な人だ。彼女を奪おうとする者は、たとえ王族であろうとも、絶対に許しはしない、とな」
ビスクは恐怖のあまり失禁し、凍りついた足を引きちぎらんばかりの勢いで後退しようとした。
「あ、あああ……! 狂っている、お前、狂っているぞ!王太子殿下の命に背くなんて……!」
「消えろ。二度とこの地の土を踏むな。次に姿を見せれば、貴様の魂ごとこの雪原に埋めてやる」
ゼノスの威圧に耐えかね、ビスクは悲鳴を上げながら廊下へと転がり出た。彼は、倒れそうになりながらも外に待たせていた馬車へと這いずり、コールドランドの館から逃げ出していった。
* * *
静寂が戻った応接室。ゼノスはゆっくりとアリシアに向き直った。その瞳からは先ほどの苛烈な殺気は消え、代わりに壊れ物を扱うような深い慈しみが宿っていた。
「……怖がらせたか。すまない、少し加減を忘れた」
ゼノスはアリシアの手首に残った、わずかな赤みに目を留め、自責の念に顔を歪めた。だが、アリシアは手をそっと伸ばし、彼の大きな手に重ねた。
「いいえ……ありがとうございます、ゼノス。私、嬉しかったんです。あなたが、あんな風に怒ってくださるなんて」
アリシアの瞳からは、大粒の涙が溢れ出した。それは悲しみの涙ではない。自分という存在が、これほどまでに大切にされているのだという実感からくる、温かな涙だった。
(私は、誰かの道具じゃない……)
心の中で、自分自身に語りかけた。
「私、もう迷いません」
涙を拭い、アリシアは窓の外に広がる王都の方角——暗雲に覆われた空を真っ直ぐに見つめた。
「私は二度と、王都の都合のいい聖女には戻りません。私の魔法は、私を必要としてくれる、この温かな場所を守るために使います。エドワード殿下が何を言おうと……私は、あなたのそばにいます」
その言葉を聞いたゼノスの表情に、言葉にならないほどの熱い感情が去来した。彼は愛おしそうに、アリシアをその広い胸の中に抱き寄せた。
「ああ。一生そばにいてくれ。それだけで、私はとても幸せだ」




