第十六話 神の怒り
王宮の地下儀礼室から放たれた深紅の光柱は、夜空を覆う暗雲を焼き払い、王都の全域を禍々しく照らし出した。
ミラが手にした《愚神の杖》は、救済の道具などではない。それは人の身で神の領域に触れ、因果を歪めようとした者に与えられる罰そのものを引き出すものであった。杖から溢れ出した魔力は、大地の底に眠る負の感情を増幅させ、世界に刻まれた魔獣の発生源へ、強烈な刺激となって突き刺さった。
直後、王都を襲ったのは、生物的な本能を逆撫でするような巨大な震動であった。
「な……何、この音は……?」
地下室で勝ち誇っていたミラの顔から、血気が引いていく。足元の巨大な魔法陣が鮮血のような光を放ち、地底から響く無数の咆哮を伝えてきたからだ。それは、かつてコールドランドを地獄に変えた、あの忌まわしき音であった——
* * *
アリシアが五年間、寝る間も惜しんで注ぎ込み続けてきた広域守護結界。目に見えず、けれども女神のような慈しみで魔獣を遠ざけ、大地の穢れを浄化していたその盾は、既に彼女自身の手によって消滅していた。
何にも守られていない、剥き出しの都。そこへ、神の怒りに呼応して狂暴化した魔獣の群れが、雪崩のごとく押し寄せた。
「魔獣だ! 城門のすぐそばに、見たこともない数の魔獣が——!」
見張りの騎士が叫び終える前に、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼が、城壁を軽々と跳び越えた。アリシアがいれば、結界に触れた瞬間に浄化され霧散していたはずの魔獣が、今は生身のまま、無防備な市街地へと着地する。
深夜の市場通りは、一瞬にして絶叫の渦へと叩き落とされた。家々から這い出した人々が目にしたのは、かつてお伽話の中でしか聞いたことのない、おぞましい異形たちの姿だった。結界という最大の防御を失った王都近郊の森からは、千を超える魔獣が溢れ出していた。それらは民家の屋根を食い破り、逃げ惑う人々をその鋭い爪で引き裂いていく。
「お母様! お母様、どこ!?」
泣き叫ぶ少女の背後に、三つの頭を持つ大蛇が迫る。少女を庇おうと飛び出した母親は、魔獣の顎によって一瞬でその命を散らし、辺りには鮮血が花のように散った。
病院では、再発した古傷に苦しむ負傷兵たちが、逃げることさえ叶わずに食い殺されていった。慈悲など微塵もない。そこにあるのは、禁忌に触れた人類に対する、自然界……あるいは神そのものからの容赦ない粛清だけであった。
* * *
王宮のバルコニーに駆け上がったエドワードは、目の前の光景に言葉を失った。美しかった都は、赤黒い炎と、魔獣の咆哮、そして人々の断末魔が響き渡る地獄絵図と化していた。
「…………何だ、これは。なぜ、魔獣が都の中にいる?! ミラ!! ミラはどうした!」
彼の背後からよろよろと姿を現したのは、先ほどまでの傲慢さを失い、真っ青な顔で震えるミラであった。
「わ、分かりません……! 私はただ、奇跡を起こそうと……。呪いを払おうとしただけですわ!」
「これがお前の言う奇跡か! 都が滅びようとしているではないか! ふざけるのも大概にしろ!」
エドワードの罵倒も、もはや虚しく響くだけだった。《愚神の杖》を使い、神の怒りを買ったことで、王都の上空には絶え間なく赤黒い落雷が降り注いでいる。その雷が直撃するたび、歴史ある建物が崩壊し、逃げ惑う人々が灰へと変わっていく。女子供が容赦なく蹂躙され、誇り高き騎士団も圧倒的な魔獣の物量の前に次々と食い殺されていく。
「嘘よ……こんなの、こんなの私が望んだ未来じゃないわ……」
ミラは地面にへたり込み、狂ったように頭を振った。
夜が明ける気配は、まだない。赤黒い雲が天を覆い、降り注ぐ雨は血のように紅く、生臭い。民の首が魔獣の怪力によってへし折られる音が響き渡る。
五年間、アリシアはたった独りで王都を支えてきた。彼女を追放し、さらには禁忌の力で神を愚弄した者たちに、もはや救いの手は差し伸べられない。阿鼻叫喚の叫びが都を埋め尽くす中、神の怒りは冷酷に、そして確実に、すべてを無へと帰そうとしていた。




