第十五話 禁忌
深夜の王宮は、冷たい静寂に支配されていた。窓の外では、季節外れの冷たい雨が石造りの壁を叩き続けている。溜まり続ける澱んだ魔力により、天候は狂い始めていた。
そんな中、地下儀礼室へ一人の女性が降りていく。王太子妃の座を射止めたはずの聖女、ミラである。
彼女の足取りは、かつての優雅なものとは程遠い。ドレスの裾が汚れ、引きずるような音を立てている。ミラの顔には、もはや隠しようのない焦燥が刻まれていた。周囲からの『新聖女への疑念』は膨らみ続けている。ミラにとって、王太子妃という地位は、自身の価値を証明する唯一の盾であり、何としても守り抜かなければならない絶対的な栄誉であった。
(……あんな無能な女に、負けるわけにはいかない。私は選ばれたの。私こそが、このエルフレイムの頂点に立つのに相応しい聖女なのだから)
ミラの胸には、アリシアに対するどす黒い嫉妬心と、自分の地位を脅かされることへの恐怖が渦巻いていた。彼女が震える手で握りしめているのは、粗末な布に包まれた棒状の——闇市場の伝手を辿って巨額の裏金で買い戻した、禁忌の遺物。かつて辺境コールドランドの領主イカロが、己の野心のために使い、その地を魔獣と酷寒の地へと変えたとされる《愚神の杖》であった。イカロの死後、その杖は何者かによって売却され、各地の闇市場の奥底で幾度も主を変えてきた。そして今、ミラの虚栄心に呼び寄せられるようにして、王都へと戻ってきたのである。
地下儀礼室の中央に辿り着くと、ミラは乱暴に布を剥ぎ取った。現れたのは、黒ずんだ木の枝が苦悶する蛇のように捻じ曲がり、その先端に、凝固した血のような不気味な赤黒い宝石が埋め込まれた杖だった。それを手にした瞬間、ミラの指先を凍りつくような冷気が突き抜けた。それは歴代の持ち主が神の怒りに触れた時の残滓であり、人々の理性を削り取る呪いの拍動だった。だが、魔力の枯渇に怯えるミラには、その禍々しい冷たささえも、強大な力の証拠であるかのように感じられた。
「……これよ。これさえあれば、私は聖女であり続けられる!」
ミラは杖を床に突き立てた。彼女はアリシアのように祈りは捧げない。ただ、己の欲求のままに、杖の中に眠る力を強引に引き出そうとした。
「——目覚めなさい。私の魔力を捧げる代わりに、この都を覆う不浄を焼き払い、私の望むままに奇跡を見せなさい!」
ミラの魔力が杖に吸い込まれた瞬間、室内の空気が爆発したかのように跳ねた。石畳の床には、これまで見たこともないほど巨大で複雑な魔法陣が、網膜を焼くような深紅の光を放って浮かび上がった。その幾何学模様は、まるで生きた血管のように脈動し、儀礼室の壁を、天井を、そして王都の大地そのものを侵食していく。
「ああ……ああああああ! 凄いわ、この魔力量……体中に力が漲ってくる!」
地下室を凄まじい震動が襲う。魔法陣から溢れ出した赤黒い光の粒子が、ミラの周囲を渦巻き、彼女の瞳を邪悪な深紅に染め上げた。それは救済の光ではない。神の怒りを招き寄せる破滅の予兆であった。だが、己の力を認めさせることに取り憑かれたミラには、その異変を察知する冷静さは残っていなかった。
「ふふ……ははははははは!」
魔法陣の中心で、ミラは高らかに笑い声を上げた。その声は地下室の壁に反響し、不気味な合唱となって闇に溶けていく。
「これで全て元通りになる! あの偽聖女アリシアに、この私の素晴らしい力を見せてやるわ! 結界を維持するだけで精一杯だったあの女とは違う、世界そのものを書き換える力をね!」
ミラは狂気じみた愉悦に浸りながら、杖をさらに強く握りしめた。彼女の脳裏には、驚愕に目を見開くアリシアの顔と、ひざまずいて自分を称える群衆の姿が浮かんでいた。その空虚な幻想を満たすために、ミラは王都の運命を禁忌の炎にくべようとしていた。
「見なさい、アリシア! あなたが追放された理由を、今この瞬間に証明してあげるわ。あなたは辺境で野垂れ死になさい。私は、このエルフレイムの聖女ミラ——神に愛されし女よ!」
魔法陣から放たれる光は、ついに地下室の天井を突き抜け、夜空へと達した。
王都を覆っていた鈍色の雲が、赤黒い雷光によって真一文字に引き裂かれる。
その光が放たれた瞬間。
王都の至る所で、異変が起きた。周囲の深い森の中で長らく眠っていた魔獣たちが、杖が放つ力に呼応し、飢えた牙を剥きながら目を覚ました。
救済を騙った、破滅への扉。
かつてコールドランドで起こった惨劇が、今度は神に愛された都——エルフレイムで再演されようとしていた。
ミラが暴走し始めましたね....もし少しでも面白い!と思っていただけましたら、ぜひ評価やブックマークなどしてくださるとめちゃくちゃ喜びます!




