第十四話 月下の誓い
呪いの傷が完全に癒えた翌晩、コールドランドの空は驚くほど澄み渡っていた。
アリシアは外に出て、その静寂の中に身を置いていた。昨夜の、命を削るような治療の余韻がまだ体に残っている。けれど、心地よい疲れだ。何より、指先から伝わってきたゼノスの肌の温もり、そして呪いが解けた瞬間の彼の安らかな吐息が、今もアリシアの心の中で熱く燻り続けていた。
(……ゼノス様。いいえ、ゼノス)
ついに許された、敬称を外した呼び名。心の中でその名を呼ぶたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような、むず痒いような不思議な感覚に陥る。
その時、背後から重厚な足音がした。振り返らなくても、それが誰であるかはすぐにわかった。
「……こんな夜更けに、何を一人で考え込んでいる。昨夜の疲れが残っているのではないのか」
優しく心地よい声。振り返ると、そこには漆黒の外套を羽織ったゼノスが立っていた。月の光を浴びた彼の容貌は、呪いという枷から解き放たれたことで、とても美しく見えた。
「ゼノス……。お部屋で休まれていなくて、よかったのですか?」
「体が軽すぎてな。……あまりに静かな夜なので、少し歩きたくなっただけだ」
ゼノスはアリシアの隣まで歩み寄る。以前のような、周囲を凍りつかせるような冷徹さはもうない。代わりに、彼からは焚き火のそばにいるような、穏やかで力強い温かさが伝わってくる。
「……アリシア。君に、聞きたいことがある」
ふと、ゼノスが真剣な声音で切り出した。
「はい、何でしょうか?」
「君は……もう自由だ。もう呪いに蝕まれる私を救う必要もない。……いつか、追放命令が解ける日が来れば、君はあそこへ——王都へ戻るつもりなのか?」
その問いに、アリシアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。王都エルフレイム。きらびやかで、花が咲き乱れ、誰もが憧れる都。だが、彼女の脳裏に浮かんだのは、毎日のようにこき使われ、誰にも感謝されず利用されているだけの日々だった。
「王都に、私の居場所はありません。私が疲れていても、傷ついていても、誰も見向きもしなかった。みんな、私の力を当たり前のように享受しているくせに、労いの言葉一つかけなかった。——ですが、ここでは違いました。騎士さんたちが、私の作った石鹸を喜んでくれた。メイドさんたちが、床暖房に感激してくれた。みんな、私の手を取って『ありがとう』って言うんです。そして、あなたが、私の名前を呼んでくれた。あなただけが、初めて私自身を見てくれた」
アリシアが見上げると、ゼノスもまた、吸い込まれるような深い瞳で彼女をじっと見つめ返していた。
「……アリシア。私には、君をこの呪われた地に縛り付ける権利などないと思っている」
ゼノスが、ゆっくりとアリシアの方へ一歩、踏み出す。
「だが、権利などなくとも、言わずにはいられない。……私には、君が必要だ。君が、そばにいてくれないと困るのだ」
彼の手が、迷うように空中で止まり、それから意を決したようにアリシアの肩に置かれた。外套越しでも、ゼノスの掌の大きさと、そこから伝わる微かな震えが感じられる。
「私は不器用だ。甘い言葉の一つも言えない、これまで誰かに心を開いたこともない。だが、君がいない世界を、私は想像できない」
「ゼノス……。それって、私を——」
「……今はまだ、いい。時が来たら、私の口からきちんと伝える。それまで待っていてくれ、アリシア」
「ずるいですよ、ゼノス。そんなこと言われたら、どこにも行けなくなっちゃいます」
アリシアは潤んだ瞳で笑いながら、ゼノスの胸にそっと額を預けた。
どくん、どくん、と。彼の広い胸板から響いてくる、力強い鼓動。それが、自分の胸のざわつきと重なり合っていく。
「私も、ここにいたいです。明日も、明後日も、一年後も、ずっと、あなたと一緒にこの景色を見ていたい」
ゼノスは、アリシアの頭をそっと撫でた。
「……アリシア。君を、誰にも渡したくない。たとえ王太子が、君を無理に連れ戻そうとしても、私はすべてを賭けて守り抜く」
それは、一人の男としての強い誓いだった。
しばらくの間、二人は月明かりの下で、ただお互いの存在を感じ合っていた。まだ唇を交わすことも、愛の言葉を囁き合うこともない。だが二人の心は、どんな熱い抱擁よりも深く、確かな温度で通じ合っていた。




