第十二話 呪いの傷
シルベから真実を聞かされた夜、アリシアは一睡もできなかった。目を閉じれば、雪山で兄と仲間を失い、呪いを背負って帰還する若き日のゼノスの姿が浮かんでくる。これまで彼がアリシアに向けてきた冷たい言葉や、人を寄せ付けない雰囲気は、誰かを愛して、また失うことへの恐怖によるものだったのだ。
(私が助けなくちゃ。こんなに温かい場所を私にくれた人だもの)
アリシアは離れを飛び出し、館へと向かった。
執務室の前に立つと、扉の隙間から漏れ出す魔力が、かつてないほど激しく波打っているのがわかった。それは怒りでも敵意でもない。主の精神を内側から削り取るような、暗く冷たい波動だ。
「……ゼノス様。失礼いたします」
返事を待たずに扉を開けると、そこには机に伏し、荒い息をつくゼノスの姿があった。
彼は上着を脱ぎ捨てていたが、その背中、シャツ越しに浮かび上がるのは、どす黒い血管のような紋様——《愚神の杖》がもたらした、神の怒りの残滓だ。
「……アリシアか。いまは私のそばに来るな……。今夜は、抑えが効かない……」
ゼノスの声は掠れ、苦痛に歪んでいた。アリシアが歩み寄ると、彼の周囲の空気が凍りつき、霜が降りる。呪いの傷が彼の魔力を暴走させ、周囲の熱を奪っているのだ。
「いいえ、来ました。シルベさんから、すべて聞きましたから」
アリシアは彼の背後に回り、その広い背中に躊躇なく両手を触れた。
「……っ! 離れろ! その傷に触れれば、君の清らかな魔力まで汚染されるぞ!」
ゼノスは突き放そうとするが、アリシアは力を込めて彼を抱きしめるように固定した。
「汚染されるなんて、私の力を馬鹿にしないでください。私は王都のすべての汚れを五年間も一人で引き受けてきたんですよ。……これくらいの呪い、私が全部消し去ってあげます!」
アリシアは深く息を吸い込み、体内の魔力を一点に集中させた。これまでの石鹸作りや庭園開拓とは、次元が違う。これは『生命』と『因果』の書き換えだ。
「——与えよ、命の源流。そして解けよ、氷の戒め——!」
掌から、爆発的な黄金の光が溢れ出した。だが、次の瞬間。ゼノスの背中の黒い紋様が、生き物のようにのたうち回り、アリシアの光を拒絶した。バチバチと火花が散り、指先を鋭い痛みが襲う。
(重い……。なんて、深くて冷たい呪いなの……!)
それは簡単に解ける呪いではなかった。十年もの間、ゼノス自身が『自分は罰せられるべきだ』と思い続けてきた、強固な罪悪感が呪いの核となっているのだ。彼が自分を許さない限り、どんな癒やしの魔法も弾き返されてしまう。
「ゼノス様、抵抗しないで! あなたは、もう十分に苦しみました。誰も、あなたを責めてなんかいません!」
アリシアは歯を食いしばり、さらに魔力を注ぎ込む。視界が白く点滅し、意識が遠のきそうになる。全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、膝がガクガクと震える。王都の結界を維持していた時以上の疲労が、一気に彼女を襲った。
「アリシア、もういい……! やめろ! このままだと君が壊れてしまう!」
ゼノスが叫ぶ。彼の魔力がアリシアを弾き飛ばそうと膨れ上がる。しかし、アリシアは一歩も引かなかった。彼女は自分の生命力そのものを削り、光の鎖に変えて、黒い呪いを強引に包み込んでいった。
「壊れません! 私は……私は、あなたに笑っていてほしいんです。あなたの、素敵な笑顔を見たいんです!」
アリシアの叫び。それは、執務室の壁を震わせるほどだった。
「お願い……届いて! ——ゼノス!」
初めて、その名を呼び捨てにした。
辺境伯という肩書きではなく、一人の男としての彼に、アリシアの魂が直接触れた。
その瞬間。
ゼノスの背中で、パリン、と何かが割れるような音がした。
十年間、彼の背中と心を縛り付けていた黒い紋様が、アリシアの黄金の光に飲み込まれ、粒子となって霧散していく。
「あ……あああああああっ…………!」
ゼノスの口から、長く、苦しげな吐息が漏れた。いまこの時、彼の中に澱んでいた十年分の罪の意識と呪いが、ようやく体外へ排出されたのだ。
* * *
光が収まると、部屋には静寂が戻っていた。アリシアは力尽きたように、ゼノスの背中に頭を預けた。彼女の呼吸は荒く、疲れ切っている。だが、その手はまだ、温かさを取り戻したゼノスの肌にしっかりと触れていた。
「……治り……ましたね……」
アリシアが弱々しく呟く。ゼノスはゆっくりと振り返り、崩れ落ちそうになった彼女の体を、その大きな腕でしっかりと抱きとめた。
彼の背中にあった呪いの傷は、もうない。黒い痣も消え失せ、そこにはアリシアの魔法が残した、微かな光の余韻だけがある。
「……アリシア。君は、なんて無茶なことを……」
ゼノスの声は震えていた。彼はアリシアの温もりを感じながら、溢れそうになる何かを必死に堪えていた。
「……あの、私、さっき。ゼノス様のことを、呼び捨てに……。その、必死だったので、お許しください」
気まずそうに目を逸らすと、ゼノスは抱きしめる手の力を強め、真っ直ぐにアリシアの瞳を見つめた。
「……様はつけなくていい。これからは、ゼノスと呼べ」
その言葉は、命令ではなく、心からの懇願のようだった。アリシアは驚いて目を見開いたが、ゼノスの瞳の奥にある、氷が溶けた後のような透き通った熱に気づき、ポッと顔を赤らめた。
「……はい、ゼノス」
アリシアが、その名をもう慈しむように呼ぶ。
「……ああ。君が我が名を呼んでくれるなら、私はもう、死神になど戻らずに済む」
ゼノスは、アリシアの額に、自分の額をそっと合わせた。至近距離で見つめ合う二人の瞳に、もはや身分の壁はない。窓の外では、吹雪が止んでいた。雲の切れ間から差し込む月光が、呪いから解放された辺境伯と、彼を救い出した本物の聖女を、優しく照らし出していた。




