第十一話 ゼノスの過去
「……さて、どこから話したものかね」
シルベは、ハーブ茶が注がれたコップを撫でながら、ゆっくりと口を開いた。アリシアは、彼女の正面に座り直し、膝の上で丸まったモフの白い背中をそっと撫でた。モフも、いつもより静かに耳を伏せている。
「アリシアちゃん。あんたは、今のこの土地が本来の姿だと思っているかい?」
「本来の……? どういうことでしょうか」
「……実はね、昔のコールドランドは今とは違ったんだ。もちろん、亜寒帯で雪は降ったが、今ほど絶望的な寒さじゃなかった。何より、魔獣なんてめったに出ない、静かで平和な土地だったんだよ」
シルベの瞳が、遠い過去を追うように細められた。
「すべてが変わっちまったのは、十年前……。ゼノス様の兄上であり、当時の領主だったイカロ様の過ちからだ」
イカロ。
初めて聞く名に、アリシアは息を呑んだ。
「イカロ様は、この地を深く愛していた。だが、それ以上に都会……王都への強い憧れに囚われてしまったんだ。きらびやかな街、冬でも枯れない花々。エルフレイムのような景色をコールドランドに再現したいと、あの方は願っておられた。強い願望は、時に人を禁忌へ向かわせる。イカロ様は闇市場を通じて、決して手を出してはならない魔道具を手に入れてしまったんだ。その名も——≪愚神の杖≫」
それを聞いた瞬間、アリシアの背筋に冷たいものが走った。図書館の禁書庫で、一度だけ読んだことがある。神々の感情を逆撫でし、因果を歪める呪いの道具だ。
「イカロ様は、その杖の力でコールドランドを温帯に変えようとした。だが、杖は神の怒りを買い、土地に祝福ではなく呪いを振りまいたんだ。温かくなるどころか、寒さは殺人的なものに変わり、大地からは数えきれないほどの魔獣が溢れ出した……。杖の力に惹き寄せられるようにね」
アリシアは絶句した。今のコールドランドの惨状は、自然の摂理ではなく、人為的な……それも領主の過ちが生んだものだったのだ。
「当然、イカロ様は責任を取ろうとされた。弟のゼノス様と、精鋭の騎士十二名を率いて、魔獣の発生源を叩きに向かったんだ。……だが」
シルベの声が、微かに震えた。
「戦いは凄惨を極めた。魔獣の群れは尽きることなく、騎士たちは一人、また一人と食い殺された。……結局、生き残って戻ってきたのは、ゼノス様ただ一人だったんだよ。あの方は、瀕死の兄を、そして仲間たちの遺体を連れ帰ることさえできなかった。……ただ一人、背中に深い魔獣の傷と、消えることのない呪いを刻まれて。あの方が『死神』と呼ばれるようになったのは、その時からだ」
「……そんな。一人だけ生き残ったから、死神だなんて……」
「残酷な話さ。死んだ十二人の騎士の家族たちは、やり場のない怒りをすべてゼノス様へぶつけた。『なぜ、お前だけが生き残った』とね。……ゼノス様は、その罵倒を黙って受け入れた。最愛の兄を亡くした悲しみを、誰にも打ち明けることなく。あの方は、それから変わってしまった。……誰にも優しくせず、冷徹な態度で領地を守り抜くことだけに執着するようになった。……そうしなければ、自分を許せなかったんだろうね。優しくなれば、あの日死んだ者たちへの罪悪感に押し潰されてしまうから……」
悲惨な過去の話が終わり、居間には外の風の音だけが響いていた。
「……でもね、アリシアちゃん」
シルベが、そっとアリシアの手を握った。
「あんたがここに来てから、ゼノス様は変わったよ。あの方は……あんなにいつも表情が険しかったあの方が、最近は時折、ふっと柔らかく笑うようになったんだ。セバスチャンや騎士たちも言っている。ゼノス様が変わったのは、あんたが来てからだってね」
「私が……?」
「そうだよ。あんたの太陽のような明るい笑顔。それが少しずつ、あの方の凍てついた心を解きほぐしている。私はね、この地で長く生きてきた。だから、わかるんだ。ゼノス様をあの深い闇から救い出せるのは、きっとあんただけだよ」
シルベは、いたずらっぽく、けれど慈しむような笑みを浮かべた。
「私はね、あんたとゼノス様が結ばれることを、心から願っているんだ。あんたたちが一緒にいれば、このコールドランドにも、いつか本当の春が来る気がするからね」
「っ、な、ななな……結ばれる!? そ、それは……!」
しんみりとした空気が一変した。アリシアの顔は、一瞬にして茹で上がったタコのように真っ赤に染まった。頭が真っ白になり、心臓が耳のすぐそばで鳴っているような錯覚に陥る。
「あ、あの! 私はただ、ゼノス様が心配で……! その、結ばれるなんて、そんな大層なこと、考えてもみなくて……」
慌てふためくアリシアを見て、シルベはくふふ、と楽しそうに笑った。
「あらあら、まあ。お顔が林檎よりも赤いわね。……でも、いいじゃないか。あんたのその真っ直ぐな気持ちが、あの方には何よりの癒しになる。頼んだよ、離れの女神様」
シルベは満足げに立ち上がり、今度こそ帰路につくため、戸口へと向かった。
残されたアリシアは、赤くなった顔を両手で押さえたまま、しばらく動けずにいた。
(ゼノス様に、あんなに辛い過去があったなんて……)
膝の上で、モフが心配そうに『キュゥ?』と鳴いて顔を覗き込んでいる。アリシアは震える手でモフを抱きしめた。今まではただ、この地の住人として力になりたいと思っていた。けれど、彼の孤独を知ってしまった今、胸の奥が締め付けられるように熱い。不器用で、誰よりも責任感の強いゼノスを、もっと心から笑わせてあげたい。アリシアの胸の中に芽生えた、自覚したばかりの熱い感情が、彼女をそっと温めていた。




