第18話「三度滅んだ世界の「書き替え」」
彼女の口角が、上がった。
上がっただけで、体育館の空気が軽くなる。重力が減ったわけじゃない。俺の肺が、勝手に膨らむ。息が深く入るのに、胸の奥が冷える。
紙が浮いた。
床に貼りついていた式札が、音もなく持ち上がる。白い紙の端が、ゆっくりとひらく。ひらいた瞬間、文字の滲みが止まった。墨が乾く速度まで変わった気がする。
ノイズが消えた。
さっきまで、どこかで薄く鳴っていた二重の音。足音の最後を欠かせる切断の気配。それが、すっと抜け落ちる。
抜け落ちた後に残るのは、静寂だった。
静寂が、重い。
耳が勝手に奥へ潜る。自分の血の音が聞こえるはずなのに、聞こえない。心臓の鼓動の輪郭がぼやける。自分の体が、体育館の床と同じ素材に変わっていくような感覚。
第四の終わり方。
白い終わり。
派手に壊れない終わり。
世界が、静かに薄くなっていく終わり。
右目が焼けた。
焼けた痛みの奥で、焦げの匂いが濃くなる。鉄と雨と埃が混じる匂い。喉の奥が熱いのに、舌が乾く。乾いた舌が上顎に貼りつき、言葉が出る場所を塞ぐ。
彼女は笑っている。
笑いを止めたら内圧で破裂する。
笑えば解除が進む。
どっちも、終わりへ向かう。
回収班が、その瞬間を待っている。
体育館の中央。黒い箱の周りに、黒いコートが残っている。姿勢が変わらない。呼吸をしているのか分からない。分からないのに、視線だけが刺さる。
中央の男が、手を上げた。
空を切る動作。
切られる前兆。
俺は膝をついたまま、床を掴む。冷たさが伝わらない。伝わらないのに、指先が痺れる。痺れが、裂け目の縁に触れている。
距離がある。
さっき、引き剥がされた距離。
あの距離のままなら、同期は成立しない。
成立しないなら、白が来る。
俺は立ち上がった。
立ち上がると、視界の端が欠けた。欠けた場所に、白が溜まっている。溜まった白が、体育館の天井を舐めている。
焦げの匂いの筋が見える。
右目が、匂いを線に変える。
線は細く、薄い。薄いのに、空間の輪郭を決めている。線が集まる場所がある。彼女の右手だ。
手袋の上から、赤が透けている。
円と割れ目。
刻印の形が、布越しでも分かる。
俺は走った。
走ると、床がずれる。ずれた床のせいで足首が取られる。取られそうになるたび、匂いの筋が跳ねる。跳ねた筋が、裂け目の位置を教える。
避ける。
避けながら、距離を詰める。
回収班が動いた。
黒いコートが、横に滑る。歩く動きじゃない。糸を切って、自分の位置をずらしている。体育館の角度が一瞬だけ変わる。壁が近づいた気がして、次の瞬間遠ざかる。
切断の刃が入る。
俺の足元の白線が、途中で消えた。
消えた線の上に、影が落ちない。
裂け目が広がっている。
彼女の笑いが、少し深くなる。
深くなるほど、空気が軽い。
軽いほど、静寂が重い。
俺は喉を鳴らさないまま息を吐き、最後の一歩で彼女に手を伸ばした。
手袋の上から、右手を包む。
両手で。
熱が刺さった。
刺さる熱の中に、細い痛みが混じる。火傷の痛みじゃない。紙で切ったような痛み。糸が指の腹を撫でている。
彼女の笑いが揺れた。
止まらない。
止まらない笑いの中で、彼女の肩がわずかに震える。震えが、熱を逃がしているのか、熱に耐えているのか分からない。分からないのに、指先が離せない。
俺は顔を近づけた。
額と額が触れる寸前で、彼女の呼吸の温度が分かる。熱い息。熱いのに、甘い匂いじゃない。焦げの匂いに近い。
俺は息を吸った。
吸う。
止める。
吐く。
彼女の呼吸が、俺の呼吸に引っ張られる。引っ張られた瞬間、体育館の静寂がわずかに割れる。割れた隙間から、遠いノイズが聞こえた。
ブツ、と短い音。
放送の復旧の前兆みたいに。
同期。
分担。
俺は、言葉を選ばない。
選ぶと遅れる。
遅れると切られる。
だから短く、合図を落とす。
「――ここから先は、二人で持つ」
言った瞬間、右目の奥が白く弾けた。
弾けた白の向こうで、糸が見える。
空間を縫っている糸。
放送室の箱から伸びていた糸と同じ種類。
糸は、切られている。
切られた糸の端が、空中でほどけている。ほどけた糸が、体育館の天井に散っていく。散っていく糸の先が、青じゃない空へ吸い込まれている。
俺は視界の白の中で、手を握り直した。
彼女の手袋越しに、刻印の円を感じる。
円は、脈打っている。
脈打ちが、笑いと繋がっている。
笑いを止めれば破裂する。
笑いを続ければ解除が進む。
だったら、笑いを流す。
溢れを、二人で流す。
彼女が笑った。
でも、さっきの笑いと違う。
口角が上がるだけの笑いじゃない。喉の奥で笑いが膨らみ、そこから外へ出ていく流れがある。
流れる先が、俺の右目に触れる。
痛みが増えた。
増えた痛みの中で、匂いの筋が一本にまとまる。まとまった筋が、切れた糸の端へ向かう。向かった筋が、その端に絡む。
縫う。
縫い直す感覚が、目の奥にくる。
針を刺す感覚じゃない。
皮膚を縫う感覚じゃない。
空間の裂け目の縁を、指で撫でて揃える感覚。
揃えた縁に、糸が自分から乗る。
糸が乗ると、静寂が少し軽くなる。
軽くなる代わりに、体育館に音が戻り始める。
紙が落ちる音。
自分の息の音。
遠い場所で誰かが靴底を擦る音。
戻った音の中で、黒いコートが一歩下がった。
中央の男が、笑わずに言う。
「鍵が動いたか」
言葉が、体育館の床を滑る。
滑る言葉は冷たい。
冷たいのに、俺の背中の汗は熱い。
男が続ける。
「器はまだ不完全だ。今ここで割らせるのは得策じゃない」
得策。
その単語の硬さが、逆に生々しい。
彼らは世界を道具として扱っている。
道具として扱えるから、ここで殺さない選択ができる。
中央の男が手を振った。
空が切れるはずの動作。
でも、切れない。
切れたはずの空間の刃が、途中で止まる。止まった場所に、糸が絡んでいる。絡んだ糸が、刃の形を鈍らせる。
男が一度だけ首を傾げる。
その仕草が小さいほど、苛立ちが見える。
「撤退する。次は外で回収する」
外。
体育館の裂け目の向こうに覗いていた、青じゃない空。
別の色。
別の圧。
別の世界線。
黒いコートが、紙のように薄くなった。
薄くなって、裂け目へ吸い込まれる。吸い込まれる音はない。音がない代わりに、空気の温度が一段下がる。温度が下がった場所に、焦げの匂いだけが残る。
敵が消えた。
消えたのに、終わりは消えない。
彼女の笑いが、弱くなる。
弱くなると、内圧が戻り始める。
戻る内圧を、俺の右目が引き受ける。
引き受ける量を、二人で分ける。
分けながら、糸を握る。
糸を握るほど、右目の白濁が広がる。
広がった白が、今度は視界の中心に落ちてくる。落ちてくる白の中に、静かな終わりの記憶が押し寄せる。
第四の終わり方の全て。
主人公が彼女を守る決断。
彼女が泣く。
世界が、白くなる。
白くなるのに、音が残る終わり。
残る音が、自分の名前を呼ぶ声だった。
呼ぶ声が、遠い。
遠い声は、届かない。
届かないまま、白が全てを覆う。
俺は歯を食いしばった。
歯が鳴りそうで鳴らない。鳴らない代わりに、顎の奥が痛い。
彼女の手袋の熱が、少し下がる。
刻印の脈動が落ちる。
光が、安定に変わる。
安定した光は派手じゃない。布の下で、呼吸みたいに淡く揺れるだけだ。
体育館の床の欠けが止まる。
止まった欠けの縁が、滑らかになる。滑らかになった縁に、影が落ちる。影が落ちた瞬間、現実が戻った感じがする。
戻った現実の中で、俺の右目が痛む。
痛みは焼ける痛みじゃない。
擦れる痛み。
何かが削れている痛み。
記憶を削って、上書きする摩擦。
会長が、体育館の入口に立っていた。
会長は俺たちを見て、短く息を吐く。
「ひとまず、勝った」
勝った、という単語が、口の中で重い。
勝利の形は残ったのに、勝利の代償がもう始まっている。
俺は彼女の手を離さないまま、立ち上がった。
立ち上がると、右目の白濁が少し引く。
引いた代わりに、別の空白が生まれる。
空白は、胸の奥にある。
そこにあったはずのものが、ない。
会長が俺を見る。
視線が一瞬だけ揺れる。揺れたのは、気のせいじゃない。揺れは認識の揺れだ。
「……お前」
会長が言いかけて止める。
止めた後、眉間に皺が寄る。寄った皺が、何かを探している。
俺は舌で唇を湿らせる。
湿らせたのに、乾きが戻る。
彼女が俺の手を引いた。
引いた力は弱い。弱いのに、確かだ。確かだから、俺の重心がそっちへ動く。
彼女の目が、俺を見上げる。
その目に、涙の膜がある。膜があるのに、涙は落ちない。落ちない代わりに、まつ毛が少し重い。
「ねえ」
彼女の声が小さい。
小さい声は、体育館の外へ漏れない。俺の耳にだけ落ちる。
「あなたの名前、もう一度教えて」
言われた瞬間、胸の奥の空白が広がる。
広がった空白に、息が落ちる。
落ちた息が、喉で止まる。
止まった喉が、言葉を塞ぐ。
俺は笑わない。
笑えないわけじゃない。笑う理由がない。
唇が乾く。乾いた唇が、名前の形を作れない。
彼女がもう一度、繰り返す。
「教えて」
右目が焼けた。
焼けた痛みの中で、放送が戻った。
校内放送のスピーカーが、ブツ、と一度だけ鳴る。二重にならない。遅れない。ノイズがない。
女の声が流れる。
「……本日は停電のため、各自教室へ戻り、教員の指示に従ってください」
普通の文章。
普通の声。
普通の音。
普通が戻ったせいで、俺の胸の空白が目立つ。
俺は口を開ける。
開けた口の中で、舌が名前を探す。
探して、触れない。
触れないまま、喉が熱くなる。
彼女が俺の手袋に触れる。
手袋じゃない。俺の手は素手だ。触れられた指先が、少しだけ震える。震えは寒さじゃない。存在が薄くなる怖さに近い。
怖い、とは言えない。
言えないから、息が浅くなる。
俺は短く息を吐き、短く答える。
「……今は、言いにくい」
言いにくい、という言葉が逃げだと分かる。
逃げだと分かっているのに、逃げるしかない。
彼女は眉を寄せない。
寄せる代わりに、唇を噛む。噛んだ唇が白くなる。
「忘れたの」
俺は頷けない。
頷けば、それが確定する。
確定すれば、俺が俺でなくなる。
でも、すでに一部が消えている。
俺は彼女の右手を、もう一度包んだ。
手袋越しの熱が、安定している。
安定している熱は、生きている熱だ。
俺はその熱を確かめるように握り、短く言う。
「ここから先は、二人で持つ」
同じ合図。
シリーズの合図。
彼女が、笑わずに頷く。
頷いた瞬間、体育館の窓の外が見えた。
夜の空の端に、別の色が残っている。
青じゃない。
黒でもない。
説明できない色。
説明できない色が、細い糸みたいに横たわっている。
俺の右目がきしむ。
焦げの匂いが、まだ消えない。
消えない匂いが、次の扉の位置を教えている。
【了】




