第17話「最終侵入(回収班・本隊)」
校門が鳴った。
金属が噛み合う音が、遅れて二度目に来る。最初の音より、二度目のほうが少し低い。遅れはほんのわずかで、周りの連中は気づかない。
俺だけが足を止める。
停電の非常灯はまだ点いている。赤い点が廊下の奥まで続いている。その赤が、急に鈍くなった。光が減ったんじゃない。光の届き方が変わった。
次の瞬間、放送が途切れた。
ブツ、と短い音。
その後がない。
無音が、校舎に貼りついた。
無音の中で、焦げの匂いが濃くなる。鉄の匂いも。雨の前の埃も。鼻の奥が熱くなるのに、背中が冷える。
右目がきしんだ。
白濁の縁が広がる。広がった白の中に、薄い筋がいくつも走っている。匂いの筋。裂け目へ繋がる道。
筋が、校門のほうに集まっている。
封鎖。
回収班が、学園全体を閉じた。
俺は走り出そうとして、前に立つ影に気づく。生徒会長だ。いつもと同じ制服。同じ顔。でも、立ち方が違う。視線が校舎全体を測っている。
「来たな」
会長の声は静かだった。静かすぎて、逆に耳に残る。
俺は喉が乾いて、返事が遅れた。
「本隊か」
「回収班の本隊。装置の外から縫い目に触れる連中だ」
会長は言い切らない。最後の一語を落とす癖がある。その癖が、今日に限って助かる。説明が長くなると、意識が裂け目に引っ張られる。
背後で、手袋の擦れる音がした。
彼女が来ている。
彼女は笑わない。笑えない。笑えば解除が進むと分かっているから。分かっているから、口角が硬い。その硬さが、内圧を上げる。
上がった内圧は、熱になる。
手袋の下で、刻印が熱を持っている。赤が透ける気配がする。透ける赤は、焦げの匂いと同じ方向へ向かう。
会長が俺の右目を見る。
「匂いが見えるか」
「筋なら」
「なら、お前が先に動け。器を裂け目から遠ざけろ」
器。
会長は彼女を名前で呼ばない。呼べば情が混じる。情が混じれば判断が遅れる。遅れれば、殺す選択が近づく。
俺はそこを切り捨てられない。
右目の痛みが増える。
校舎の一部が、ずれた。
ずれた、というより、位置が合わなくなった。廊下の角が、角じゃなくなる。壁の線が一瞬だけ歪んで、戻る。戻るとき、戻り切らない部分が残る。
残った部分が、黒い。
黒い部分には、影が落ちない。
裂け目だ。
会長が舌打ちをしないまま言う。
「切ってる。糸を」
糸。
世界線を縫い止める糸を、刃で切る。刃は見えない。見えるのは結果だけだ。結果が一番恐い。理由が追いつかないから。
体育館の方向から、人の気配が増えた。
足音があるのに、最後が消える。消えた足音の空白に、紙の擦れる音が入る。式札の音。
回収班。
俺は彼女のほうを見る。
彼女は真っすぐ立っている。真っすぐ立っているのに、呼吸が浅い。肩が少しだけ上下している。右手首を手袋の上から押さえる指が、白い。
熱を押さえ込んでいる。
押さえ込むほど、熱が増える。
熱が増えるほど、笑いが逃げ道になる。
逃げ道を塞ぐなら、別の出口を作る。
俺の右目だ。
でも、全部引き受けるのは無理だ。白濁が広がっていく。視界の端が欠けている。欠けた部分に、終わった世界の残像が入り込む。
だから、分担。
会長が言った。第三の案だと。
俺は彼女に近づきすぎない距離で言う。
「行くぞ」
彼女が頷く。
頷きは小さい。小さいほど、熱が溢れないようにしているのが分かる。
その瞬間、廊下の先の空気が裂けた。
裂けた空気の向こうから、青じゃない空が覗く。色じゃない。圧だ。圧が廊下を押しつぶすように迫る。
俺の喉が熱くなる。
彼女の呼吸がさらに浅くなる。
会長が動いた。
会長は戦わない。戦うための動きをしない。代わりに、校舎の壁に掌を当てる。掌が触れた瞬間、非常灯の赤が少しだけ戻る。
縫い目を固定している。
でも、固定には限界がある。
「行け」
会長の声が短い。
俺は走り出す。
彼女も走る。
走ると、焦げの匂いが濃くなる。濃い場所がある。濃い場所へ行けば裂け目がある。裂け目へ近づけば危険だ。でも、回収班は裂け目の近くにいる。裂け目を切っているのだから。
司令塔。
俺の役目は、見つけること。避けること。誘導すること。
右目の白濁が広がる。
筋が見える。
筋は床に沿って走っている。一本じゃない。複数。複数の筋が、体育館へ向かっている。体育館は広い。広い場所ほど裂けやすい。
俺は曲がり角で足を止め、指を伸ばす。
「そっちじゃない。左」
彼女が迷わず左へ行く。
彼女は俺の言葉を信じている。信じるというより、言葉が手順になっている。手順は、余計な感情を排除する。排除しないと、笑いが近づく。
体育館の扉が見えた。
扉の前の床が、少しだけ黒い。黒いのに、汚れていない。汚れではない。欠けだ。欠けの始まり。
扉の向こうから、紙の擦れる音がする。
複数。
回収班の本隊が、体育館に入っている。
俺は扉を押し開けた。
体育館の中は暗い。非常灯の赤が、天井の梁を舐める。コートの白線が、赤に染まっている。
その白線が、途中で途切れている。
線の途中が消えているのに、誰も驚かない。驚く余裕がない。というより、驚きが遅れる。遅れている間に、次が来る。
体育館の中央に、黒い箱があった。
放送室の箱と同じ形。表面に円と割れ目。彼女の刻印と同じ図形。
箱の周りに、人影が五つ。
制服じゃない。黒いコート。顔は見えない。見えないのに、見られている感じがする。視線が皮膚に刺さる。
真ん中の一人が、ゆっくりと手を上げた。
手には何もない。
何もない手が、空を切る。
その瞬間、体育館の壁がずれた。
ずれた壁の向こうに、廊下が見える。本来なら見えない角度だ。見えないはずのものが見える。見えた廊下には人影がない。なのに、足音の最後だけが聞こえる。
世界が、切られている。
糸が切られている。
中央の男が言う。
「回収する。核が目覚める前に」
核。
その言葉が、体育館の空気を冷やす。
彼女の右手が、手袋の上から強く押さえられる。押さえ込む指が震える。震えは恐怖じゃない。熱を抑えるための震えだ。熱が強い。
彼女が前へ出る。
笑わないまま。
笑わないのに、強い。強いのに、荒い。
彼女の踏み込みが床を震わせる。床の震えが、俺の膝に来る前に消える。振動の最後が欠ける。欠けたところに焦げの匂いが入り込む。
彼女は一人目の男に近づいた。
近づくのに、距離が縮まらない。縮まらないのは、糸が切られているからだ。空間が引き伸ばされている。
男が手を振る。
空が切れる。
彼女の足元の床が、半歩ずれる。ずれた床のせいで、踏み込みが狂う。
狂った踏み込みを、彼女は力で押し切る。
押し切ると、手袋の下の赤が透けた。
赤い光が、布越しに漏れる。
観客がいない体育館で、それは演出に見えない。生の光だ。生の光は、焦げの匂いを連れてくる。
俺の右目が焼ける。
焼ける痛みの中で、匂いの筋が一気に増える。裂け目が増えている。体育館の四隅。入口付近。天井の梁のあたり。複数。
俺は叫ばない。
叫ぶと喉が締まる。締まると彼女の呼吸に伝染する。伝染すると笑いが近づく。
だから、短く言う。
「後ろ、二メートル。床がずれる」
彼女が一瞬だけ足を引いた。
引いた足の先の床が、黒く欠けた。小石が転がる。転がる音が途中で途切れる。
途切れた音の空白に、紙の擦れる音が入る。
式札が飛ぶ。
紙が彼女の頬を掠めた。掠めた紙が、そのまま空中に貼りつく。貼りついた紙の文字が、赤く滲む。
彼女の動きが荒くなる。
荒くなるのは、笑えないからだ。笑いで内圧を逃がせない。逃がせない内圧が筋肉を突き上げる。
このまま戦わせたら、暴走する。
暴走すれば、裂け目が開く。
開けば、回収班が勝つ。
俺は前に出た。
出るのは彼女の邪魔をするためじゃない。手順を始めるためだ。
同期手順。
俺は彼女の右手に手を伸ばす。
手袋越し。
触れる。
触れた瞬間、熱が刺さる。刺さる熱の中で、焦げの匂いが少し薄くなる。薄くなるのは、流れが変わったからだ。
俺の右目が痛む。
彼女の内圧の一部が、俺の右目へ流れ込む。流れ込むと視界が白く弾ける。弾けた白の中に、終わり方の断片が混じる。
白い空。
静かな終わり。
彼女の涙。
俺は瞬きを我慢する。
手順はここからだ。
俺は彼女の手を両手で包む。
「息、合わせろ」
短い指示。
彼女が鼻から息を吸う。
吸う音が小さい。小さい音でも、俺の耳には分かる。
「止める」
俺が言う。
彼女が止める。
止めた瞬間、体育館の空気が一瞬だけ静まる。紙の擦れる音が遠のく。遠のいた分だけ、無音が戻る。
「吐く」
俺が言う。
彼女が吐く。
吐いた息が、熱い。熱い息が俺の指先に当たる。指先が熱で痺れる。
次。
同じ言葉。
短い合図。
俺は言う。
「一緒に」
彼女が一拍遅れて言う。
「一緒に」
遅れがある。遅れがあると糸が合わない。合わないと流れが跳ねる。
俺はもう一度、言葉を短くする。
「今」
彼女が同時に言った。
「今」
揃った。
揃った瞬間、右目の痛みが一段増す。増した痛みの中で、匂いの筋が一本にまとまる。まとまった筋が、俺の右目へ流れ込む。
溢れが、流れている。
流れている間、彼女の手袋の赤が薄くなる。薄くなると、彼女の肩が少しだけ落ちる。落ちる肩は、内圧が下がった証拠だ。
成功。
一瞬だけ。
体育館の中央の男が、手を振った。
空が切れる。
切れた空が、俺たちの間に刃を入れる。刃は見えない。見えないのに、腕が引かれる。引かれる力が、俺の指をほどく。
ほどける。
彼女の手が遠ざかる。
遠ざかると、匂いが戻る。焦げが濃くなる。鉄が刺さる。喉が熱くなる。
俺の右目の白濁が一気に広がる。
視界が白く弾けた。
弾けた白の中で、体育館の床が欠ける。欠けた床の向こうに、青じゃない空が見える。
俺は膝をついた。
膝をついた瞬間、床の冷たさが伝わらない。冷たさが欠けている。欠けている感覚は、現実が薄い証拠だ。
回収班の声が近い。
「切り離せ。鍵と器を」
別の声が言う。
「器は笑えない。なら、割れる」
彼女が息を吸う音がした。
浅い。
浅い息は、笑いが近い。
俺は顔を上げる。
彼女が立っている。
立っているのに、足元の影が遅れている。遅れた影が、先に笑っているように見える。
彼女の右手袋が、赤く透けている。透けた赤が脈打っている。脈打つたびに、焦げの匂いが濃くなる。
彼女の口角が、わずかに上がった。
笑いじゃない。
笑いの直前の形だ。
その形を見た瞬間、俺の背中に冷たい汗が出る。汗が出るのに、皮膚が熱い。熱い皮膚の下で、心臓が早くなる。
早くなると同期が崩れる。
崩れたら終わる。
俺は立ち上がろうとして、右目がまた焼けた。
焼けた痛みの中で、彼女が小さく息を吐く。
そして、囁く。
「……私、笑えばいいんでしょ」
その言葉の後ろで、体育館の空気がきしんだ。
糸が、切れる音がした気がした。
彼女の表情が、笑いに寄っていく。
解除の直前の顔だ。
俺は声を出そうとして、喉が鳴らなかった。




