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三度滅んだ世界で、俺だけがバッドエンドを覚えている  作者: 妙原奇天


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第16話「幻臭=世界崩壊の残滓(右眼が嗅ぐ)」

 停電の闇は、黒ではなかった。

 非常灯の赤が、廊下の角と角をつないでいる。赤い点と点の間に、薄い灰色が沈んでいる。壁紙の白さも、床のワックスの光も、全部が鈍い。

 鈍い光の中で、匂いだけが先に届く。

 焦げ。

 鉄。

 雨の前の埃。

 鼻の奥が熱くなる匂いだった。喉の奥が乾いて、舌の裏がひりつく。口を開けても、空気が入ってこない感じがする。入ってこないわけじゃない。入ってきた空気が、途中で薄くなる。

 音も薄い。

 遠くで誰かが走っているはずなのに、足音の最後が消える。非常灯のブザーが鳴っているはずなのに、鳴り始めの一瞬だけが残って、後が欠ける。

 欠けたところに、匂いが流れ込む。

 俺は足を止めた。

 止めると、匂いが濃くなる。走っているときは風に散る。止まると、空気が貼りつく。貼りついた空気の中に、焦げが溜まっている。

 俺の右目がきしんだ。

 白濁の縁が、視界の端で揺れる。揺れは痛みと一緒に来る。痛みは鋭くない。摩擦だ。目の裏を紙やすりで擦られるみたいな、乾いた痛み。

 痛みが増えると、見える。

 見えるものが増えるのは、いつも代償がある。

 会長は先に行った。校医も。彼女は俺の少し後ろだ。右手を胸の前で押さえて、笑わないようにしている。笑わない努力の分だけ、呼吸が浅い。浅い呼吸は、内圧が上がっている証拠だ。

 今夜は、分担する。

 それでも、今はまだ同期していない。同期していない状態で彼女に触れれば、解除が跳ねる。跳ねた瞬間に裂け目が開く。

 裂け目。

 その言葉が、今は匂いの形で存在していた。

 俺は鼻から息を吸った。

 焦げが舌に乗る。

 舌に乗る焦げは、火の匂いじゃない。焼けた紙の匂いに近い。紙が焼けるときの、甘さと苦さが混じる匂い。机の上でプリントを焦がしたときの匂い。

 でも、ここには火はない。

 火がないのに焦げる。焦げているのは、世界の縫い目だ。

 右目がまたきしんだ。

 俺は瞬きを我慢した。瞬きをすると白い終わり方の映像が挟まることがある。挟まると足が止まる。止まると匂いが濃くなる。濃くなると吐き気が来る。吐き気が来ると、今夜の手順が崩れる。

 崩さない。

 だから、目を開けたまま嗅ぐ。

 焦げの匂いの中に、鉄がある。鉄は血の匂いに似ている。似ているだけで血じゃない。錆びた鉄を触った後の指先の匂い。

 その鉄が、鼻の奥を冷やす。

 冷えるのに熱い。熱いのに冷える。温度差が、現実の輪郭を曖昧にする。

 右目の縁が白く滲む。

 滲みの中に、線が見えた。

 空気に、薄い筋が走っている。

 筋は光じゃない。色でもない。見えるというより、輪郭が分かる。煙のように揺れているのに、揺れ方が規則的だ。

 筋は、匂いの道だった。

 焦げの匂いが薄い筋になって、廊下の奥へ伸びている。筋の周りだけ、空気が少し重い。重い空気が、紙を貼りつけるみたいに床に押しつける。

 俺はその筋に目を合わせた。

 合わせた瞬間、右目の裏が痛んだ。痛みが増すと、筋の先が見える。

 筋の先で、壁がわずかに裂けている。

 裂けている、というより、壁の中身が薄くなっている。薄くなっている部分だけ、影が落ちない。非常灯の赤い光がそこだけ反射しない。光が吸われているのではなく、届いていない。

 届いていない場所。

 そこが、継ぎ目の裂け目だ。

 俺は息を吐いた。

 吐く息が白くならないのに、喉が冷える。冷える喉の奥で、焦げの匂いがまた強くなる。

 裂け目は一つじゃない。

 右目を少し動かすと、別の筋が見えた。さらに別の筋。筋が分岐している。分岐している匂いの道が、校舎のいろんな場所に向かっている。

 複数。

 つまり、敵は一箇所を裂いているんじゃない。複数の継ぎ目を同時に裂ける。放送室の黒い箱を通さずに。

 会長が言っていた。停電の瞬間、制御が乱れる、と。

 乱れた瞬間を狙って、裂け目を増やす。

 増やせば縫合は追いつかない。縫合が追いつかなければ、管理側は器を殺す選択に傾く。

 それが敵の狙いだ。

 器を回収して、好きな世界線を選ぶ。そのために、縫い目を裂く。

 俺の右目が痛むのは、裂け目の増殖を見てしまっているからだ。

 見てしまっているということは、使える。

 右目は、戦うためじゃない。

 異常を認識するためにある。

 俺は筋の中で一番濃いものを探した。濃い筋ほど、裂け目が大きい。大きい裂け目ほど、器の内圧が引っ張られる。引っ張られれば、彼女の刻印が熱くなる。熱くなれば、笑いが近づく。

 笑いが近づけば、解除が進む。

 解除が進めば、欠ける。

 欠けさせないために、濃い筋へ行く。

 俺は走り出した。

 走ると足音が欠ける。欠けた足音の空白に、焦げが入る。焦げの匂いが、口の中にまで入ってくる。口の中で焦げが甘くなる。甘い焦げは吐き気を呼ぶ。

 吐き気が来る前に、呼吸を短くする。

 短く吸って、短く吐く。

 廊下の角を曲がると、非常灯の赤が増えた。増えた赤が、床のワックスに滲む。その滲み方がおかしい。赤の滲みが、床から少し浮いている。浮いている滲みは、影が遅れている証拠だ。

 影が遅れる。

 遅れる影の先に、筋が伸びている。

 筋の先は、階段の踊り場だった。

 踊り場の壁の一部が、薄い。薄い部分だけ、貼り紙の文字が読めない。読めないというより、文字の輪郭がズレている。ズレた輪郭が、二重になって見える。

 俺はそこで止まった。

 止まると匂いが濃くなる。

 焦げと鉄と埃。

 混ざった匂いの奥に、別の匂いがある。

 青くない空の匂いだ。

 空の匂いと言っても、風の匂いじゃない。無臭に近い。無臭に近いのに、鼻の奥が痛い。鼻の奥が痛い無臭は、空気が違う証拠だ。

 裂け目の向こうの空気が、こっちに漏れている。

 漏れている空気は、喉を熱くする。熱くするのに、体温は上がらない。熱いのは内側だけだ。

 俺の右目が、またきしんだ。

 白濁の縁が広がる。広がる白の中で、裂け目の形が見える。

 裂け目は線じゃない。

 円に近い。

 円の縁が、少しだけ割れている。

 彼女の刻印と同じ形だ。

 円と割れ目。

 器の刻印と、世界の裂け目が同じ形をしている。

 つまり、器は世界線の継ぎ目に直結している。器が暴走すれば、裂け目が開く。裂け目が開けば、器の内圧がさらに上がる。

 悪循環だ。

 俺は背後を振り返った。

 彼女が階段を上がってくる。右手を押さえたまま、呼吸が浅い。浅い呼吸は限界のサインだ。限界のサインが、彼女の首筋の筋を浮かせている。

 彼女の足音も欠ける。

 欠ける足音は、敵の近さを示す。敵の糸が、すでにこの辺りを縫っている。

 会長と校医の姿はまだ見えない。

 俺は彼女に言った。

「止まるな。こっち」

 短い言葉。

 彼女は頷かない。頷かないまま、俺の方へ来る。来ると、裂け目の匂いが彼女にも届くはずだ。

 届いてほしくない。

 匂いが届くと、笑いが逃げ道になる。笑いは楽になる。楽になるほど解除が進む。解除が進めば裂け目が広がる。広がれば彼女はもっと楽になる。楽になるほど終わる。

 だから、ここから遠ざける。

 遠ざけるために、まず裂け目を特定して塞ぐ方法を探す。

 塞ぐ方法は、今夜の分担だ。

 分担の前に、裂け目の場所を全部知る必要がある。知るために、俺の右目のもう一つの機能が要る。

 匂い。

 幻臭。

 校医が言っていた。右目は残像を保持する。残像は映像だけじゃない。終わった世界の残滓は、感覚として残る。

 匂いは、残る。

 焦げの匂いは、崩壊の残滓だ。

 俺は裂け目から目を逸らした。

 逸らすだけで、右目の痛みが少し引く。痛みが引くと、白濁の縁が戻る。戻る白の縁が、また筋を拾う。

 筋は裂け目へ繋がる道だ。

 道を辿れば、裂け目を回避しながら移動できる。裂け目に近づかなければ、匂いは薄くなる。匂いが薄くなれば、吐き気は減る。

 吐き気が減れば、今夜の同期ができる。

 俺は彼女の肩を掴まない。

 掴むと彼女の刻印が弱まる。それは良い兆候でもある。触れると匂いが薄くなることがある。前兆だ。同期の前兆。

 でも、今は触れない。触れた瞬間に、裂け目が反応するかもしれない。裂け目は器の刻印と同じ形だ。形が同じなら、共鳴する可能性がある。

 共鳴は危険だ。

 俺は言葉で誘導する。

「匂いの濃い方を見るな」

 彼女が小さく息を吐く。

「分かるの」

「分かる」

 それだけ言って、俺は走り出した。

 彼女がついてくる気配がする。足音が欠ける。欠けた足音の向こうで、紙が擦れる音がする。

 式札。

 回収班の本隊が近い。

 走りながら、俺は匂いの筋を追った。筋が濃い場所は避ける。薄い場所を繋ぐ。薄い場所は安全じゃない。安全じゃないけど、裂け目からは遠い。

 階段を下りる。下りる途中で、非常灯の赤が一瞬だけ揺れた。

 揺れは電気の揺れじゃない。揺れ方が規則的だ。揺れ方が、放送のノイズと同じ間隔だ。0.2秒遅れの揺れ。

 装置がまだ生きている。

 停電でも、黒い箱は動いている。電気じゃなく、糸で。

 糸で動くものは、糸で止めるしかない。

 止めるんじゃない。

 流す。

 分担して流す。

 俺の右目が、廊下の途中で別の裂け目を見つけた。裂け目は教室の扉の隙間にあった。隙間の奥に、青じゃない空が覗いている。

 青じゃない。

 色が言語化できない。色というより、圧だ。圧がこちらを押してくる。押してくる圧が、喉を熱くする。熱くする圧が、肺の奥を押す。

 息が浅くなる。

 息が浅くなると、彼女の息も浅くなる。彼女の息が浅くなると、内圧が上がる。内圧が上がると刻印が熱くなる。熱くなると笑いが近づく。

 近づかせない。

 俺は裂け目から目を逸らして走る。

 走ると右目の痛みが増す。増す痛みを、歯を食いしばって耐える。耐えると顎が疲れる。顎が疲れると、声が出しにくい。声が出しにくいと、彼女に指示できない。

 指示は短く。

 短い指示なら出せる。

「右側」

 彼女が右に寄る気配がする。

「しゃがめ」

 彼女が低くなる気配がする。低くなると、裂け目の圧が少し減る。圧が減ると匂いが薄くなる。

 薄くなる匂いの中で、彼女が言った。

「あなたの右眼、私の代わりに痛むんだ」

 言葉が刺さった。

 刺さるのは、図星だからだ。

 俺は返さない。

 返さない代わりに、呼吸を整える。整える呼吸が、彼女にも伝染する。伝染する呼吸が、浅さを少しだけ押し戻す。

 押し戻せば、笑いを封じられる。

 封じるほど、器の圧は増える。

 増える圧を、どこかへ流さないといけない。

 今夜が、その前の最後の準備だ。

 廊下の先で、人影が動いた。

 非常灯の赤の下で、影が遅れて動く。遅れた影の方が先にこちらに来る。影が先に来る動きは、現実の人間じゃない。

 式札の糸。

 回収班。

 俺は立ち止まらず、曲がり角に飛び込んだ。飛び込んだ先で、匂いが一段濃くなる。濃い匂いの筋が床に沿って走っている。筋の先が、体育館の方角に伸びている。

 体育館。

 広い空間は裂けやすい。裂け目が開けば、見せ場になる。敵は見せ場を作る。管理側も見せ場で器を処理する。

 つまり、体育館に裂け目がある。

 俺はそこに向かって走った。

 走りながら、右目が匂いの筋を可視化する。筋は一本じゃない。複数。複数の筋が、体育館に集まっている。集まっている場所がある。そこが最も濃い。

 濃い場所で、裂け目が開く。

 開く前に、器を遠ざける。

 俺は彼女を振り返らずに言った。

「体育館に行くな」

 彼女の足音が止まる。

 止まると危ない。止まると回収班に追いつかれる。追いつかれたら糸で縛られる。縛られたら彼女が笑う。笑えば解除が進む。

 進ませない。

 俺は引き返して彼女の前に立った。

 距離を詰めすぎない。触れない距離で、視線だけを合わせる。

「俺が行く」

 彼女が言う。

「一人で?」

「一人じゃない」

 短く言って、俺は背後を見る。回収班の気配が角を曲がってくる。紙が擦れる音が増えた。増えた音の中に、低い声が混じる。

「器を回収し、縫い目を好きに縫い直す」

 宣言。

 言葉が短い。短い言葉ほど、決め台詞になる。決め台詞ほど、世界を縛る。

 俺の喉が締まった。

 締まる喉の奥に、焦げの匂いが刺さる。

 彼女の右手が、胸の前で強く押さえられる。

 押さえるほど熱がこもる。

 こもるほど、笑いが近い。

 近い笑いを押し戻すために、俺は彼女に言った。

「息、吐け」

 命令じゃない。手順だ。

 彼女が吐く。

 吐いた息が短い。

 短い息を、俺が二回、合わせて吐く。

 吐くと、周りの匂いが一瞬だけ薄くなる。

 薄くなった隙に、俺は彼女の右手に触れる。

 手袋の上から、指先を置く。

 置いた瞬間、熱が刺さる。刺さる熱の中で、匂いが薄くなった。

 薄くなる。

 触れると匂いが薄くなる。

 前兆だ。同期の前兆。俺の右眼が溢れを検知している。検知している匂いを、触れ合いで散らしている。

 散らすなら、流せる。

 流せるなら、今夜の分担は成立する。

 俺は彼女に言った。

「ここから先は、俺が匂いを追う。お前は会長と校医のところへ行け」

 彼女が首を振りかける。

 振ると否定になる。否定は言葉になる。言葉は鍵になる。鍵は敵に切られる。

 俺は否定させないように続けた。

「裂け目が複数ある。俺が場所を特定する。お前は裂け目から離れろ」

 彼女の呼吸が、わずかに整う。

 整うと、刻印の熱が一瞬下がる。下がると、手袋の擦れる音が静かになる。

 背後で紙が舞った。

 回収班が角を曲がったのが分かった。影が遅れて、紙だけが先に来る。紙の先に、式札の文字が浮く。文字が浮くと空気が冷える。冷えると焦げが濃くなる。

 俺は彼女の手を離した。

 離すと匂いが少し濃く戻る。

 戻る匂いに耐えて、俺は走り出した。

 体育館へ。

 匂いの筋が集まる場所へ。

 背後で、彼女が小さく言った。

「あなたの右眼、私の代わりに痛むんだね」

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 落ちた言葉は重い。でも重い言葉ほど、今夜の手順の燃料になる。

 分担。

 交換じゃない。

 二人で流す。

 俺は体育館の扉に手をかけた。

 取っ手が冷たい。冷たさが指先に貼りつく。貼りつく冷たさが、現実の証拠だ。

 扉を押し開けると、匂いが一気に濃くなった。

 焦げと鉄と埃。

 それに、無臭の圧。

 体育館の中央に、薄い筋が渦を巻いている。渦の中心が、裂け目だ。

 裂け目から、別の空が覗く。

 青ではない色。

 色というより、こちらを見返す圧。

 圧が、俺の喉を熱くする。

 右目が、白く滲む。

 滲みの中で、匂いの筋がはっきり見える。

 筋は糸だ。

 世界線の継ぎ目を縫う糸が、ここで裂けようとしている。

 俺は息を吐く。

 一回。

 体育館の広い空間に、吐いた息が吸われる。

 二回目を吐こうとして、喉が締まった。

 締まった喉の奥で、焦げが甘くなる。

 甘い焦げは、終わりの予兆だ。

 でも、今夜は終わらせない。

 俺は右目の痛みに耐えながら、裂け目の中心に向かって一歩踏み出した。

 その瞬間、背後の扉が、紙の擦れる音で閉じた。

 回収班が入ってきた気配。

 そして、低い声が言う。

「見つけた。残滓の匂いを辿れる鍵だ」

 俺は振り返らない。

 振り返る代わりに、裂け目を見た。

 裂け目の向こうの空が、少しだけこちらへ近づいた。

 近づく圧の中で、俺の右目が焼ける。

 焼ける痛みの中で、匂いの筋が一本、俺の右目へ向かって伸びた。

 伸びた筋は、手順の始まりだ。

 今夜、分担するための。

 俺は小さく言った。

「いま、分ける」

 誰も返さない。

 まだ返せない。

 返せるのは、彼女が来たときだ。

 裂け目の向こうで、青ではない空が、静かに笑った気がした。


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