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YURI -純白の反逆者-

作者: 綾戸燈和
掲載日:2025/11/05

「私たちは、正義を信じたんじゃない。ただ、正義を信じていた頃の自分を、まだ嫌いになれなかっただけ。」

 雪が降っていた。

 十一月の終わりにしては、あまりに静かな降り方だった。

 風はない。空から落ちる粒はひとつひとつが重く、街の音を呑み込みながら舗道を白く染めていく。


 藤咲梨央は、凍えた指先でコートの襟を握りしめた。

 大学構内の石畳はうっすらと濡れ、街灯の光がその上でぼやけている。

 ポケットの中のスマートフォンが震えた。


『明日の打ち合わせ、場所変わったよ。学生会館3階ね。』

——神谷透。


 文面はそっけなかった。

 けれど、その言葉の端々に滲む“期待”を、梨央は何度も読み返していた。


 彼らの団体──福祉サークル「ホープリンク」は、学内で最も“意識の高い”集団として知られていた。

 街の清掃、老人ホームへの慰問、SNSでの啓発キャンペーン。

 どれもが「良いこと」で、「正しいこと」だった。

 ただ、その正しさがいつの間にか競争に変わっていた。


 翌日、会議室の白い蛍光灯の下。

 机の上にはアンケート用紙、募金箱、そして撮影用のカメラ。


 神谷透はホワイトボードにマーカーを走らせていた。

 「次の支援イベントは“見える化”を意識しよう。活動報告の動画を作って、SNSで拡散する。

 数字が出れば、企業協賛もつきやすい。」


 静かな拍手。

 誰も反論しない。

 けれど後方の席で、綾瀬光莉がひとり視線を伏せていた。


 光莉は細い指でペンを転がし、ノートの端に小さく書きつけた。

 ——「支援のための映像、支援のための顔。」


 梨央はその横顔を盗み見る。

 光莉はいつも冷静だった。感情で動かない。だが、その瞳には見たくない現実を見抜く痛みがあった。


 放課後。雪はまだやまず、カフェテリアの窓をぼんやり曇らせている。

 梨央と光莉は紙コップのコーヒーを手に向かい合っていた。


「透くん、最近すごいね」

「メディアの人も来てるしね。彼、話が上手いし。」

「でも……」

 光莉が言葉を切る。

「“誰かを助ける”って、いつから“数字を取ること”になったんだろうね。」


 梨央は笑って誤魔化した。

「目立つことも悪くないよ。注目されなきゃ、寄付も集まらないし。」


 光莉はその笑顔を見つめ、ゆっくりと言った。

「注目されるのは、いいことじゃないよ。

 “善意”は、注目されるほど、汚れていく。」


 その言葉が、なぜか胸の奥に刺さった。

 彼女の声は柔らかいのに、痛みだけが残る。


 数日後、神谷のもとに地方テレビ局からの取材依頼が入った。

 「若者が作る支援の輪」というドキュメンタリー。

 撮影当日、カメラが回る。梨央は老人ホームで手を握り、笑顔を作った。

 光莉は撮影の裏で、認知症の女性の靴を丁寧に拭いていた。

 その手元をカメラは映さない。


 放送の日。

 画面には梨央の笑顔、神谷の熱弁、学生たちの拍手。

 ナレーションが語る——


「彼らの活動は、まさに雪のように純白だ。」


 教室でその映像を見た光莉は、何も言わなかった。

 ただ、席を立ち、静かに外へ出て行った。


 その背中を追いかける勇気を、梨央は持てなかった。


 数週間後、学内に一通のメールが回る。


『ホープリンク代表、寄付金の一部を不正流用か?』


 瞬く間に炎上したSNS。

 神谷は釈明会見を開き、涙ながらに謝罪する。

 団体は解散。メンバーは離散。


 光莉は姿を消した。

 そして、梨央の元に匿名のDMが届く。


『あなたの笑顔は、まだ白いと思う?』


 雪はその夜も降り続いていた。

 街のすべてを覆い隠すように。

 まるで、誰かがついた嘘の上に、新しい正義を積もらせるみたいに。


 梨央は駅前の広場に立ち尽くしていた。

 吹き溜まりに捨てられた募金箱のシールが、半分剝がれて風に揺れている。

 “Hope Link”の文字は、雪で読み取れなかった。


 遠くで子どもたちが雪を踏む音。

 スマートフォンが震える。

 画面に浮かぶSNSの投稿。


『この街の白は、もう純粋じゃない。』


 投稿者:@YURI_rebellion


 梨央の指先が止まる。

 心臓が、雪の中で脈打つように痛かった。


 その夜、日記の最初のページに彼女は書いた。


「白い約束を守れなかった。

でも、あの雪の中で見た彼女の背中を、まだ忘れられない。」


 窓の外で風が鳴る。

 街灯の下、誰かが落とした百合の花が、凍った地面の上でひとり咲いていた。




 朝の庁舎は、蛍光灯の白が目に刺さるほどだった。

 藤咲梨央は、パソコンの電源を入れながら、机に積まれたファイルの山を睨んだ。

 「生活支援」「介護給付」「児童手当」——印字された文字が、どれも誰かの人生の断片でありながら、いまはただの処理対象にしか見えない。


 コーヒーの香りもすぐにコピー機の熱と混ざって消えた。

 隣の席で上司の秋津が書類をめくりながら呟く。

 「SNSでは“公務員は何もしてない”って叩かれてるけどな、

 現場の人間は、誰かの代わりに責任だけ取ってるんだよ。」


 梨央は苦笑した。

 それでも、彼女はこの仕事を選んだ。

 “誰かの役に立ちたい”という、学生時代のあの曇った理想が、

 まだ胸の奥で微かに息をしていたから。


 昼休み。

 市役所前の公園で、梨央はスマートフォンを開く。

 TLに流れるニュースが、次々と彼女の指先を冷やしていく。


「福祉団体“白鷺の翼”に寄付金不正の疑惑」

「行政の支援は“数字合わせ”か」

「SNSで話題の匿名告発者“YURI”とは何者か」


 “YURI”──その名前を見た瞬間、胸が跳ねた。

 スクリーンの向こうに、十年前の雪景色がよみがえる。

 あの日の光莉の横顔。

 あのとき消えた“白い約束”。


 そして、投稿の一文。


『雪の下には、約束が埋まっている。』


 ——あの文体だった。

 あの言葉の選び方、あの静かな怒り。

 光莉が日誌に書いていた、あの筆致と同じ。


 帰宅後。

 梨央は部屋の灯りを落とし、画面の明かりだけで“YURI”の投稿を読み漁った。

 告発内容は、行政の支援金の流れを精密に暴いていた。

 しかも、内部書類を熟知していなければ書けないような情報。


 コメント欄には賛否が渦巻いていた。

 > 「本物の正義だ」

 > 「ただの炎上狙い」

 > 「白い正義の亡霊」


 梨央の胸の奥で、冷たい汗がにじむ。

 ——どうして“YURI”は、今になってこの街を狙うの?

 ——まさか、光莉が……?


 スマートフォンの画面を閉じても、光莉の声が耳の奥で囁くようだった。

 “善意は、注目されるほど汚れていく。”


 翌週、庁舎には報道関係者が押し寄せた。

 廊下の奥から、フラッシュの光が何度も瞬く。

 マスコミが連日押し寄せ、カメラを構え、誰かの“発言”を切り取りに来る。

 「福祉課の内部告発者が“YURI”ではないか」と噂が流れていた。


 梨央は記者に囲まれ、問い詰められる。

 「あなたは“YURI”と接触があるのでは?」

 「十年前、“ホープリンク”という団体に所属していましたね?」


 その名を聞いた瞬間、喉が凍りついた。

 “ホープリンク”。

 ——あの白い冬。

 ——あの裏切り。


「……知りません。私には関係ありません。」

 絞り出した声は、あまりに薄っぺらく響いた。


 夜、帰り道。

 雪がまた降り始めていた。

 街灯の下で、白い粉がゆっくりと舞い降りる。

 手袋の上に落ちたひとひらを見つめながら、梨央は呟いた。

 「正しさって、誰が決めるんだろうね……。」


 スマートフォンが震える。

 通知の表示は、“@YURI_rebellion”。

 ダイレクトメッセージが届いていた。


『久しぶり。

この街の雪、まだ白いと思う?』


 指が震える。

 既読をつけることも、返信することもできなかった。


 翌朝、通勤電車の中で周囲の人々が同じ話題をしていた。

 「“YURI”ってすごいよね。行政の腐敗を暴いたって。」

 「でも、本人は名乗らない。卑怯じゃない?」

 「どっちでもいいよ。正しいことしてんなら、それで正義だろ。」


 会話の断片が、雪の粒のように頭上から降ってくる。

 梨央は窓に映る自分の顔を見た。

 そこにいたのは、十年前の理想を失った大人だった。


 昼下がり、庁舎の屋上。

 灰色の空を見上げると、雪はやんでいた。

 代わりに、薄い陽光が冷たい街を照らしている。


 携帯が鳴った。

 表示された名前は「神谷透」。

 テレビ局勤務——あの頃のリーダー。


『久しぶり。……“YURI”の件で、君に話を聞きたい。』

「取材ですか?」

『いや、取材じゃない。……俺も、怖いんだよ。

 “YURI”が、俺たちのことを知ってる気がして。』


 風が吹き抜ける。

 遠くでカラスが鳴き、落ちた書類の端がひらりと舞う。


 梨央はその白い紙片を追いながら、静かに思った。

 ——光莉。あなたはいま、どこにいるの?


 答えは、雪の下に埋もれたままだった。




 雪が降りやまない。

 白鷺市の空は、まるで誰かが世界の音を消したかのように静まり返っていた。

 歩道には人の足跡が重なり、どれが誰のものか、もう判別がつかない。

 その上を、梨央はゆっくりと歩いていた。

 足音の代わりに、ニュースの音声が耳に刺さる。


「匿名告発者“YURI”が公開した新たな文書は、社会福祉予算の裏帳簿を指摘しています。

行政は事実関係の調査に乗り出す方針です。」


 画面の右上には、“#YURI_is_right”の文字。

 トレンドランキングの1位。

 彼女の名前が、まるで宗教のようにネットを支配していた。


 数日後、神谷が局の会議室で記者たちに囲まれていた。

 彼は報道局の若手プロデューサーとして、“YURI”特集の中心にいた。

 ホワイトボードには、太い赤字で書かれている。


「YURI=希望の象徴」


 会議室の空気は熱を帯び、誰もが視聴率の数字を口にしていた。

 「視聴者はヒーローを求めてるんだよ。

  現代の闇を切る“白い告発者”ってフレーズ、完璧じゃないか。」


 神谷は黙って聞いていた。

 かつて、彼自身が“理想の若者代表”としてメディアに持ち上げられたことを思い出す。

 その果てに何が起きたかを、彼は誰よりも知っていた。


 ——真実なんて、物語の素材に過ぎない。

 彼の胸中で、雪のような諦念が積もっていく。


 一方、梨央の職場では電話が鳴り止まなかった。

 「“YURI”が暴いた内容は本当か?」

 「あなたたちは何を隠している?」

 住民からの通報、メディアの問い合わせ、SNSの炎上。

 彼女はただ、机の上の書類を握りしめるしかなかった。


 モニターの中では、報道番組の女性キャスターが穏やかに笑っている。


「“YURI”は沈黙する声の代弁者——

彼女の勇気が、今この国を変えようとしています。」


 梨央はその“彼女”という言葉に、息を呑んだ。

 まるで、誰かが意図的に性別を想起させているかのようだった。

 その言葉の響きが、光莉の姿と重なる。


 夜。

 白鷺市の広場は、スマートフォンの光で満たされていた。

 若者たちが白い花を掲げ、手にメッセージカードを持っている。


「#We_are_YURI」

「#白い革命」


 雪とスマホの光が交錯し、街は幻想的な白に染まっていた。

 梨央は人混みの中に立ち尽くした。

 正義の名のもとに集まった群衆。

 だが、その目には“希望”ではなく、“陶酔”があった。


 彼女の隣で、小学生ほどの子どもが母親に尋ねていた。

 「ママ、“YURI”って神様?」

 母親は笑って頷いた。

 「そうね。きっと、優しい神様よ。」


 梨央は目を閉じた。

 神様なんて、いない。

 あの日、理想に裏切られた少女たちが証明している。


 数日後。

 神谷が局を抜け出し、梨央のもとを訪れた。

 コートに付いた雪を払いながら、彼は苦笑する。

「久しぶりだな。……“YURI”の件、あんたも巻き込まれてるらしいな。」

「もう放っておいてほしいです。」

「無理だよ。お前も俺も、“YURI”に選ばれた側だ。」


 神谷は封筒を差し出した。

 中には、番組宛に届いた匿名の資料が入っていた。

 その一枚目。

 福祉課の内部文書に、赤ペンで走り書きされた文字。


『白い嘘は、誰のため?』


 梨央の手が震える。

 その筆跡を、彼女は知っていた。

 光莉の、細くて美しい文字。


 深夜。

 神谷の車で、二人は“YURI”の発信元を追っていた。

 真壁というジャーナリストから、発信ログの情報が届いたのだ。

 IPアドレスは白鷺リハビリセンター——

 十年前、光莉がボランティアに通っていた場所。


 窓の外を雪が横切る。

 梨央は呟いた。

「もし彼女が……生きていたら、なんて言うかな。」

 神谷は静かに答えた。

「“正義は使い捨てにするな”って、言うだろうな。」


 エンジン音が遠ざかり、街の灯りが溶ける。

 白い息が、車内のガラスに薄く滲んでいく。


 翌朝。

 ニュースは“YURI”を英雄として完全に神格化していた。

 テレビには、白い花を持つ群衆。

 SNSでは、企業が「YURI支援キャンペーン」を始め、

 市長は“透明な行政”を宣言した。


 街が、正義の演出で埋め尽くされていく。


 梨央は、デスクに座ったままモニターを見つめていた。

 マスコミも行政も、同じ白を被っている。

 雪の白ではなく、編集された白。

 何もかもを覆い隠す、純白の嘘。


 夕刻。

 梨央のスマートフォンが再び震えた。

 通知音は短く、鋭かった。


『あなたが“声”を取り戻す日を、私はずっと待っていた。

——YURI』


 梨央はその言葉を読み返し、唇を噛んだ。

 胸の奥で、十年前の光莉の笑顔が霞のように揺れる。

 “声を出せなくても、世界は変えられると思ってた。”


 窓の外、雪は夜の街を白く塗り替えていく。

 その静寂の中で、梨央は確信した。

 ——“YURI”は、まだどこかで生きている。

 そして、次に暴かれるのは私たち自身だ。




 夜明け前の白鷺リハビリセンターは、雪に埋もれた廃墟のようだった。

 街の喧騒から外れた丘の上、外灯はすでに切れ、

 ただ月のような光だけが薄く壁を照らしている。


 梨央と神谷は、冷たい空気の中で車を降りた。

 足元の雪がきしむたび、世界が遠ざかっていくような音がした。


 施設の玄関には、かすかに残る看板。

 > 「ようこそ しらさぎリハビリセンターへ」

 雪に埋もれた文字の下に、小さく白い花が挿してあった。

 ——百合。


 受付のガラス扉を押すと、消毒液と古い木の匂いが混ざった空気が流れ出た。

 静まり返った廊下の奥に、古いナースコールのランプがひとつだけ灯っている。

 職員に案内され、二人は一室へと通された。


 ベッドのそばに座る女性がいた。

 長い黒髪、頬に淡い光が差している。

 彼女は体をわずかに動かし、微笑んだ。


 ——綾瀬光莉だった。


 梨央の喉が固まる。

 十年前の冬、雪の中に消えたはずのその人が、

 静かに息をしていた。


「久しぶりだね、梨央。」

 光莉の声は小さく掠れていた。

 片方の腕が動かない。

 事故で半身不随になったと、職員が説明した。


「あなた、“YURI”なの?」

 梨央の声は震えていた。


 光莉は笑った。

「いいえ。私は“YURI”じゃない。

 でも、“YURI”は私の中にいる。」


 神谷が黙って資料を広げる。

「じゃあ、この投稿の内容は? 行政の裏帳簿、あれはあなたしか知らない情報だ。」

「そう。あれは、私がかつて関わった福祉データの断片。

 でも投稿したのは、ここで介護してくれる職員の子よ。

 私が話した言葉を、彼女が世界に流してる。」


 光莉の視線が窓の外の雪を追う。

「私はもう、声を広く届ける力がない。

 でも、まだ“見つめること”はできるの。」


 梨央は唇を噛んだ。

 「どうして、あんなことをしたの?

  あなたの告発で、たくさんの人が傷ついた。」


 光莉はゆっくり目を閉じた。

 「ねえ梨央。

  あのとき、君は笑ってたよね。

  カメラの前で、私の言葉を“綺麗な活動”にして。」


 梨央の胸の奥で、十年前の映像が再生される。

 老人の手を握って笑う自分。

 その背後で、黙って靴を磨いていた光莉の姿。

 編集で消された時間。


 ——善意の形を、他人が勝手に決めた日。


「私は、君を責めてた。

 でも今はね、もう責めてない。

 “YURI”はね、誰かを罰するための名前じゃないの。

 ただ、沈黙してる人たちの代わりに存在する名前なの。」


 外では雪が激しくなっていた。

 窓に積もる白が、光莉の頬をさらに白く照らす。

 神谷が低く言った。

 「お前……あの報道の後、どうして姿を消した?」

 「事故よ。取材の帰り道。

  “正義”の側にいた人たちは、私のことを見なかった。」


 光莉の指先が震える。

 「それでも、私は“声”を残したかった。

  正義が消費されていくたびに、

  誰かが静かに泣いてるから。」


 梨央は涙を堪えきれなかった。

 「私……まだあの頃の私を許せない。」

 「許さなくていい。

  でも、忘れないで。

  “正義”を信じていた自分を憎みきれない限り、

  まだ変われるから。」


 部屋を出たとき、夜が明けかけていた。

 雪明かりが廊下の床を白く染め、

 遠くで誰かの笑い声が聞こえる。


 神谷が立ち止まる。

 「梨央……彼女、本当に“YURI”じゃないと思うか?」

 梨央は答えなかった。

 ただ、胸ポケットの中のスマートフォンが震えた。


『白は、沈むほど純粋になる。』

——@YURI_rebellion


 その投稿が上がったのは、彼女たちが光莉の部屋を出たわずか三分後だった。


 車に戻ると、神谷は深く息を吐いた。

 「まるで、誰かが俺たちの行動を見てたみたいだ。」

 梨央は窓の外を見つめる。

 施設の屋根の上、雪の中に白い影が一瞬、動いたように見えた。


 それは人の形をしていた。

 けれど、次の瞬間にはもう見えなかった。


 雪がやむ。

 空が淡く光り、遠くの街が目を覚ます。

 誰もが今日もまた、“正義”のニュースを開く。


 梨央は呟いた。

 「彼女はまだ、沈黙の中で呼吸してる。

  それが、“YURI”という名前の意味なんだ。」


 神谷はエンジンをかけながら言った。

 「白い花は、枯れても匂いを残す。

  あの百合みたいにな。」


 街の上に、再び雪が舞い始めた。

 風がそれをかき混ぜ、空を白く塗りつぶす。

 遠くのテレビ塔の電光掲示板が、淡く点滅している。


「YURI、沈黙を破る——

“白い革命”は続く」


 梨央は目を閉じた。

 その光の下、すべての白がゆっくりと沈んでいった。




 街が、白すぎた。

 冬の朝、雪と光が混ざり合い、遠近の境が溶けていた。

 屋根の上、歩道、車道、そしてビルの壁面に貼られた広告まで、

 すべてが“YURI”の名で覆われている。


「#白い革命」

「YURI × CLEAN GOVERNMENT キャンペーン」

「あなたも正義を発信しよう」


 梨央は足を止めた。

 通勤途中の人々がスマートフォンを掲げ、

 “YURI”の名言を読み上げるように呟いている。


 その光景は、信仰にも似ていた。

 だがその祈りは、何かを救うためではなく、

 「自分が正しい」と信じるためのものだった。


 神谷の報道局では、特番の準備が進んでいた。

 “YURI 一周年追悼特集”

 スクリーンに映るのは、匿名のシルエットと百合の花。


 ディレクターが言う。

 「彼女は象徴になった。もう真実なんて関係ない。

  “YURI”は永遠に消さない方がいい。視聴率が取れる。」


 神谷は黙ってモニターを見つめていた。

 “YURI”が英雄として消費されていく。

 そのたびに、言葉が軽くなっていく。

 彼はペンを置き、呟いた。


 「俺たちは、彼女の“声”をもう一度殺してる。」


 報道フロアの明かりがまぶしすぎた。

 彼は静かにスーツの上着を脱ぎ、机の上に記者証を置いた。


 同じころ、梨央は市庁舎の屋上にいた。

 雪が小さく舞い、風が頬を刺す。

 眼下の街は白く、美しく、そして不気味だった。

 マスコミのドローンが、ゆっくりと空を旋回している。


 彼女のスマートフォンに、また新しい通知が届く。


『あなたの沈黙が、最も美しい反逆だ。

——YURI』


 梨央は目を閉じ、息を吐いた。

 もう、この匿名の声が誰なのかは問題ではなかった。

 光莉が残した思想が、誰かに受け継がれ、変形し、

 やがて匿名の群れの声となったのだ。


 突然、風が吹いた。

 屋上の手すりに積もった雪が舞い上がり、

 空中に小さな光の粒を描く。


 梨央は静かに口を開いた。

 初めて、誰に向けるでもなく、自分の言葉で。


「正義は、きっと“白”じゃない。

 人の温度と同じ、“曖昧な灰色”の中にある。

 それを恐れないことが、

 たぶん……本当の反逆。」


 その言葉は風に消えた。

 だが、誰かのスマートフォンが録音していた。

 数分後には、その映像がネットに拡散する。


 タイトルにはこう書かれていた。


「“白い街の屋上で”――本当のYURIの言葉」


 夕方。

 テレビ局の前には報道陣が集まっていた。

 神谷の辞職がニュースになったのだ。

 だが彼は記者会見を開かず、

 ただ、一通の手紙だけを局のポストに残した。


『報道とは、声を“守る”ことだ。

正義を作ることじゃない。

——神谷 了』


 それは、ニュース番組のエンディングで一瞬だけ映された。

 けれどすぐに別の話題に上書きされ、

 世界は何事もなかったかのように動き続けた。


 夜。

 梨央は白鷺リハビリセンターを再び訪れた。

 病室のベッドは空だった。

 職員が言う。

 「綾瀬さんは今朝、息を引き取りました。

  でも、静かでしたよ。まるで雪みたいに。」


 梨央は、窓辺に残された小さな花瓶を見た。

 そこには、萎れた百合の花。

 花弁は透き通るように白く、

 わずかに香りを残していた。


 テーブルの上には、一枚のメモ。


『白を信じすぎないで。

あなたの声には、ちゃんと色がある。

それを、隠さないで。——光莉』


 梨央は、微笑んだ。

 涙は流れなかった。

 ただ、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。


 翌朝。

 雪が止んだ街に、春の光が差し込み始めた。

 通りにはポスターが剥がれかけている。

 「#YURI_is_right」の文字は、雨に滲んで読めなくなっていた。


 梨央は通勤途中の人々を見渡し、

 誰もが少しだけ足を止め、空を見上げていることに気づいた。


 それは、

 誰もがほんの一瞬だけ“考える”という行為を取り戻した瞬間だった。


 街角のカフェ。

 神谷が座っていた。

 彼の手には、白いマグカップ。

 そこに梨央が歩み寄り、静かに言う。


「まだ、終わってないね。」

 神谷は笑った。

 「終わらないさ。

  だって、“YURI”は人じゃない。

  あれは、問いだから。」


 二人は沈黙のまま、外の通りを見つめた。

 雪が解けて、水たまりに空が映る。

 灰色の空の中に、

 ほんの少しだけ淡い青が差していた。


 世界は今日も、ニュースで溢れている。

 誰かが正義を叫び、誰かが沈黙を選ぶ。

 そしてその狭間で、

 “YURI”という名は静かに、形を変えながら生き続ける。


白は、終わりの色じゃない。

始まりのための、余白の色。

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