第百九十話
「いけぇ!クローネ!」
「速い!速すぎるぞ!」
圧倒的な走りに同盟軍の獣人たちから、地鳴りのような大歓声が上がる。
そしてレオニスもまた、純粋な感嘆の声を漏らした。
「パンテラの初速は、やはり凄まじいな」
その言葉にアドリアンは、まるで自分のことのように得意げな笑みを浮かべて返した。
「だろ?うちの子は、優秀なんだ」
クローネは勢いを緩めることなく第二中継地点へと到達する。
歓声も怒声も置き去りにして、パンテラの少女は最速を見せつけたのだ。
「後は頼んだ!」
「あぁ、任せろ!」
大きなリードを保ったまま、クローネは次の走者へと『証の小袋』を投げ渡す。
幸先の良い、完璧な最初の受け渡し……同盟軍の陣営が、再び歓喜の渦に包まれた。
──だが競技はここからが本番であった。
「さぁさぁみんな!まだ勝負はついちゃいないよ!これからが面白いんだからね!」
アドリアンの言うとおり、第二区間からはコースの様相ががらりと変わる。
急流の川を飛び越え、屹立する岩場を駆け上がらねばならない過酷な難所。パンテラといえども爆発的な瞬発力を十全に活かすことはできず、慎重に足場を選びながら進むしかない。
「くっ……足を取られて上手く進めん……!!」
みるみるうちに、パンテラの戦士の走りの速度が落ちていく。
対して──ディアロードの走者は、ここからが真骨頂であった。
「このような川……我らの跳躍力を以てすればないも同然だ!」
ディアロードの戦士は重力など存在しないかのように、驚異的な跳躍力で川を飛び越え、岩場の僅かな突起を蹴っては天へと駆け上がっていく。
飛んでいるかのような優美な光景に、観戦している戦士たちが目を奪われた。
「見ろ!跳んだぞ!」
「信じられん!あの川幅を一足飛びに……!」
空中に映し出された二つの光点が急速に差を縮めていく。
そして岩場の頂上に差し掛かる頃には、ついに栗色の光点が黒い光点を抜き去った。
「うおおおお!抜いたぞ!」
「これぞディアロードの真価よ!」
逆転劇に、それまで沈黙を守っていたリガルオンの陣営から割れんばかりの大歓声が上がった。
そしてレースはここから更に熾烈を極めていく。
第三区間は鬱蒼と木々が茂る深い森。ここは森の民たるディアロードの独壇場であった。木の根が張り巡らされた悪路をパンテラの走者が苦戦するのを尻目に、ディアロードの走者は踊るかのように軽やかに駆け抜けていく。更にディアロードがリードを奪った。
だが、森を抜けた先の第四区間は、再び見通しの良い大平原。ここでパンテラが牙を剥く。
地の果てまで続くかのような直線で、パンテラの走者が黒い身体をしなやかなバネのように使い猛然と加速。あっという間に差を詰め、ディアロードを抜き去って再びトップに躍り出た。
しかし、その先の湿地帯では巧みなステップで足場を確保するディアロードが優位に立ち……。
「速ぇ……どっちも速すぎる……」
息詰まるようなデッドヒートの末、ついに両部族の最終走者……つまり、両族長が待機している最後の中継地点へとほぼ同時に姿を現した。
「ラルス様ッ!」
「あぁ、見事な走りだったぞ!」
先に『証の小袋』を渡したのは、ディアロードの走者だった。彼は僅かな……しかし決定的な差で、族長ラルスへと未来を託す最後のバトンを繋いだ。
瞬間、ラルスは風のように最終目的地である『疾風の鈴』へと走り出す。
そして数瞬遅れて、パンテラの戦士がゼゼアラの元へと滑り込む。
「ゼゼアラ様!申し訳、ございません……!」
「問題ない。ここからは、俺の仕事だ」
ゼゼアラは表情一つ変えなかった。
彼は静かに小袋を受け取ると、先行する鹿の背中を追って黒い閃光と化した 。
栗色の長髪をなびかせ、ラルスが駆ける。その背後、数瞬遅れて黒い影が音もなく迫る。
両者の差は僅か。だが……『疾風の鈴』は目前。差はあまりに大きい。
やがて二人は森へと入る。すぐに木々が開け、小さな広場が現れた。
「あれが『疾風の鈴』か!」
その中央には古びた石の台座が一つ。そして、その上に置かれた一つの小さな鈴──あれこそが、この勝負の折り返しの証『疾風の鈴』。
ラルスはリードを保ったまま、ついに台座へと到達した。彼は舞うかのように優雅な動きで、素早く鈴を手に取る。
そして後方から迫るゼゼアラを振り返ると唇に自信に満ちた笑みを浮かべ、チリンと鈴を鳴らして証の小袋に入れる。
「この差は埋めれまい、黒豹。美しい勝利の音色を、貴殿の耳に焼き付けるといい」
『疾風の鈴取り合戦』には一つの絶対的な掟がある。鈴を入手の有無に関わらず、必ず一度手で台座に触れなければならない。
それは、この勝負がただの競争ではなく神聖な儀式であることの証。待ち伏せという卑劣な手を禁じ、正々堂々とした速さのみを競わせるための古からの決まりであった。
ラルスは掟に従い、鈴を取る直前に確かに台座へと触れていた。
そして彼は踵を返す。ゼゼアラが今まさに台座へと手を伸ばそうとしている、その横を風のようにすり抜けて。
「──」
二人の身体が、一瞬だけ交差する。
栗色の疾風と、漆黒の閃光。
ゼゼアラがようやく台座へとその指先を触れさせた時には、ラルスの姿は既に森の出口へと向かう遥か彼方にあった。
だが、その瞬間だった。
「……」
彼の纏う雰囲気が、がらりと一変した。それはただの走者ではない。最短距離を一切の無駄なく、ただひたすらに獲物を追い詰めるための──『狩人』の雰囲気へ。
その姿を見たアドリアンが、丘の上で静かに告げた。
「ここからが、ゼゼアラの本当の戦い方だ」
「ほう……というと?」
「彼はもう、レースをしているんじゃない。狩りをしているのさ」
その頃、ラルスは余裕綽々の足取りで森を疾走していた。
(ふん……パンテラといえども、この程度か。この私にかかれば大草原に名高い黒豹とて鈍重な置物にしか見え──)
その思考は、背後から音もなく迫った漆黒の爪撃によって中断された。
「シャッ!!」
「!?」
ラルスは獣の本能で、間一髪その攻撃を飛び退って躱す。
だが、ゼゼアラは常人では捉えられぬほどの神速でラルスの影にぴたりと付き纏い、手に持つ鈴入りの小袋を奪わんと次々と鋭い爪を繰り出す 。
「ば、馬鹿な……いつの間に!?くっ、先程までとは動きが違う……!」
追う者と追われる者の舞が始まった。
それを見ながらアドリアンが満足げに笑った。
「始まったようだね。──狩りがさ!」
ここから神速勝負は様相を全く変えた。
それは単なる競争ではない。俊敏なる捕食と至高の逃亡者による、壮絶なる『鬼ごっこ』へと──。
ゼゼアラは一切の感情を排した狩人の貌で最短距離を駆ける。ただ真っ直ぐに、ラルスの未来位置へと爪を伸ばす。
対するラルスはその追撃を華麗に躱していく。切り立った崖を壁のように駆け上がり、谷を驚異的な跳躍で飛び越え、地形そのものを自らの盾として利用する。
「速すぎて、目で追えん!」
「いけー!ゼゼアラ!パンテラの意地を見せろー!」
空中の映像には黒と栗色の二つの光点が目まぐるしく交錯し、火花を散らすかのように激しくぶつかり合う様が映し出されていた。
その神速の応酬に観戦していた数万の獣人たちは、歓声を上げ応援する。
そして、ついに……。
ラルスが持つ小袋がゼゼアラの爪に掠れて、中の鈴がチリンと甲高い音を立てた時には戦士たちの興奮も最高潮になっていた。
「くっ……!」
ラルスは冷や汗を流しながら更に速度を上げた。もはや彼に、ゼゼアラを挑発するような余裕は欠片も残っていない。
そうして川辺へとたどり着いたラルスは、躊躇なく対岸へと跳躍する。彼のしなやかで美しい跳躍は、観客から大きなため息を誘った。
しかし、ゼゼアラは跳ばない。彼はラルスが飛び越えた川の中ほどに点在する、僅かな岩へと瞬間移動したかのように次々と着地し、差を全く広げさせない。
その神速の応酬を、丘の上の二人の指導者は静かに見守っていた。
やがてアドリアンがどこか遠い目をして、ぽつりと呟いた。
「なぁ、レオニス。殺し合いなんかしなくたって、ああやって本気で魂をぶつけ合える……獣人っていうのは、本当に素敵な種族だよな」
純粋な賞賛の言葉に、レオニスは静かに問い返した。
「人間は違うのか?」
「残念ながらね」
アドリアンは自嘲するように、皮肉っぽく笑った。
「獣人たちの戦いは誇りの示し合い。だけど、人間の戦は違う。土地のため、金のため、信じる神様が違うなんていう下らない理由で、相手を根絶やしにするまで殺し合う……悲しいことにね」
寂しげで、しかし真実の言葉。レオニスは隣に立つ英雄の横顔を静かに見つめた。
この男はそんな醜い世界で、たった一人英雄として戦い続けてきたのだろうか。
「だからこそ、英雄が必要だというわけか」
レオニスの言葉にアドリアンはいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そういうこと。誰かが下らない戦いの後始末をしなくちゃならないからね。……全く、割に合わない仕事だよな」
その言葉にレオニスも穏やかな笑みを漏らした。
二人はしばし顔を見合わせ、そして長年の友であるかのように共に笑い合った。
そして彼らは再び、空中の映像で繰り広げられる神速の競い合いへと視線を戻す。
二人の神速の使い手は最後の一区間、スタート地点へと続く最後の直線へと差し掛かっていた。
その先には数万の戦士たちが熱狂の渦の中で待ち構えている。地面に引かれた一本の線……あの線を鈴を持ったまま越えれば、この戦いに終止符が打たれるのだ。
「あと、少しだというのに……くっ!」
「──逃がさん」
ラルスの背中にゼゼアラが影のようにぴたりと張り付いている。捕食者の如き走りは決して獲物を逃がさぬという絶対的な意志の表れであった 。
(駄目だ、このままでは、ゴール直前で必ず捉えられる……!)
だが──ラルスは、まだ諦めてはいなかった。
「ここまでだ、黒豹ッ!!」
ラルスは不意にそう叫ぶと、それまで前へと向けていた全ての力を脚に集約させた。
彼の全身から翠色の闘気が迸る。
「はぁーっ!!!!」
そして──天高く、跳躍した。
「と、飛んでる!?」
「高すぎて見えねぇ……!?」
それは鳥の獣人ですら届かぬほどの、高く美しい飛翔であった。
その姿に数万の戦士たちが度肝を抜かれる。
「さぁ、後は線の向こうに着地すれば私の勝ちだ!」
だが、ラルスが跳躍の頂点に達した瞬間だった。ゼゼアラの姿が地上から掻き消えた。
「──」
誰も捉えられぬ黒い閃光が、一瞬だけを飛翔するラルスの前を横切った。
その神業に気付いたのは丘の上のアドリアンだけだった。
「おっと……?ははっ、流石だね」
「どうやらこの勝負、ラルスの勝ちのようだな」
「へぇ?どうしてそう思うんだいレオニス?」
「どうして、だと……?ラルスがあのまま着地すれば、それで終わりだろう」
「さぁて……それはどうかな」
アドリアンの不思議な問いにレオニスは首を傾げる。
そして──
「私の──勝ちだ!」
ついにラルスがゴールの線の向こうへと着地した。
その瞬間、リガルオンの陣営から地鳴りのような大歓声が沸き上がる。
「うぉぉ!!!流石はラルスだ!!」
「ディアロード万歳!!」
「みんな、ありがとう!だが、私が勝つのは当然のことで……っ!?」
ラルスが小袋から勝利の証である鈴を取りだそうと、その時だった。
──小袋の中にあるはずの鈴がないではないか!
「す、鈴が……!?馬鹿な、落としたのか……!?」
呆然とするラルスと、ざわめき立つ観客たち。
しかしその瞬間、背後から静かな声が響き渡った。
「お前が探しているのは、これか」
はっと、全員の視線がゴールの線の一歩手前へと注がれる。
そこにいたのは──。
手に持つ鈴をチリンと弄びながら、ゆっくりとゴールラインへと歩を進める黒豹の族長……ゼゼアラの姿であった。
「な……に」
戦場がゼゼアラという一人の男に釘付けになり、再び静寂に包まれる。
その静寂の中を、ゼゼアラは鈴を片手にゆっくりと歩きながら口を開く。
「貴様の飛翔……実に見事だった。だが、あの飛翔はあまりにも遅すぎる。真の疾風の戦士ならば飛んでいる姿を敵に認識された時点で、既に敗北している」
「──」
そう。ゼゼアラもまた、ラルスと同じく……否、彼を遥かに凌駕する速度で大飛翔を敢行していたのだ。
だが常人では捉えきれぬほどの神速はアドリアンを除き、誰一人としてその目で視認することができなかった。ただそれだけのことだった。
「まさか。あいつ、跳んだのか……?」
「見えなかった……全く……!」
信じがたい事実に気付き、獣人たちの間からざわざわと畏怖の念が込められた囁きが漏れ始めた。
「鈴を小袋に入れたままゴールすれば勝ち……だったな」
ゼゼアラは、ゆっくりと鈴を小袋に入れ、確かな足取りで──ゴールの線を越えた。
その瞬間、それまで静まり返っていた同盟軍の陣営から天を衝くかのような大歓声が爆発した。
「「「うおおおおおおおお!!」」」
「見たか!あれこそが、パンテラの族長だ!」
その熱狂の中、アドリアンが未だ呆然としているレオニスの肩を軽く叩いた。
「レオニス?彼の神速に見惚れるのも分かるけど、そろそろ勝敗を宣言した方がいいんじゃない?」
その言葉にレオニスははっと我に返った。そして己の役割を思い出し、高らかに叫んだ。
「大キトゥラ・シャゼイ第三試合『疾風の鈴取り合戦』!!勝者、『みんな仲良し!平和大好き!』同盟軍!!」
その宣言に同盟軍から、再び天を衝くかのような大歓声が上がった。
だがレオニスは歓声を聞きながら別の衝撃に打ち震えていた。
(なんという速さだ……この俺ですら全く捉えきれなかった……!)
自陣営が敗北した悔しさなど、微塵もない。
ただ、かつて己に牙を剥いた未熟な黒豹が今や誰にも止められぬ、誇り高き疾風へと成長を遂げた──その事実が、彼の胸を熱く打っていたのだ。
「──レオニス。さっきは俺、人間のことを悪く言ったけどさ……」
そんな感動に打ち震えるレオニスの横で、アドリアンが穏やかな声で言った。
「人間も獣人もきっと同じなんだ。誰もが……成長する。ただ、それが善い方へ向かうか悪い方へ堕ちるかは誰にも分からない。だから時々、英雄や王様がそっと背中を押してやる必要があるんだろうね」
その言葉にレオニスは目を細めた。
獅子王の瞳に宿っていたのは戦士の闘気ではない。かつて若き黒豹の成長を厳しくも優しく見守った、導き手の眼差しであった。
そして、彼の眼差しは大歓声の中心で互いの健闘を称え合う、黒豹と鹿の二人の若き族長へと静かに注がれていた。
「……ゼゼアラ殿。貴殿の速さは本物だった。私は己の未熟さを、今ここで思い知ったよ……」
ラルスが悔しさを滲ませながらも、清々しい顔でゼゼアラへと歩み寄った。
だが、ゼゼアラは静かに首を振る。
「何を言う。今日の勝負は紙一重の差だったに過ぎん。次があれば、どちらに勝利が転ぶか分からんぞ。──また、勝負してくれるんだよな?」
「……!あ、あぁ!是非、機会があればまた手合わせを願う!誇り高き黒豹の長よ!」
互いの健闘を称え合う若き二人の族長。その清々しい光景に、両軍の戦士たちから再び温かな歓声と拍手が送られた。
その光景を丘の上のレオニスとアドリアンは穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。
殺し合いとは無縁の、純粋な誇りのぶつかり合い──それこそが今、目の前で繰り広げられているのだ。
やがて、アドリアンが目を輝かせながら言った。
「さぁ、レオニス!次の競技へと向かおう。まだまだ見たいんだ、獣人たちの色々な『誇り』の形をね──!」
その時だった。
英雄のその声に応えるかのように、戦場に二つの巨大な影が姿を現した。
「お、おい……あれを見ろ……!」
地に響くのは、統率の取れた無数の爪音。一糸乱れぬ陣形で進み出るのは、大草原の『牙』と恐れられる最強の狼集団──ヴォルガルド。
空を覆うのは、巨大な翼が起こす風。風を掴み、戦場の上空を旋回するのは空の絶対王者──アクィラント。
地を制する狼と、天を制する鷲。同盟軍が誇る二大巨頭が、ついにその姿を現したのだ。
「……おい、見ろ……ヴォルガルドと、アクィラントだ……!」
「二大巨頭が、同時に出てきたぞ……!」
「まさか、次の試合はあの二部族が組むのか……?」
観戦する獣人たちの間に、畏怖と興奮が入り混じったどよめきが走る。
地上に立つ隻眼の狼。そして遥か上空を舞う一羽の鷲。二人の族長が静かに視線を交わした。
「……ふん。ようやくか」
「あぁ。我らが舞う時が、来たようだな」
大草原が誇る二大巨頭。
最強の戦士たちが、ついにその牙を剥く。




