第百八十九話
キトゥラ・シャゼイ、第二試合は齢十三の女傑イルデラに対し六大部族の若き族長オルオーンが、死闘の末に辛勝を収めるという劇的な幕切れとなった。
だが、熱狂冷めやらぬまま神聖なる儀式はまだまだ続く……。
「次の出し物の前に、ちょいと準備をさせてもらうよ!」
アドリアンが、そう言ってぱちんと指を鳴らした。
すると何もない大空に、巨大な半透明の光る盤面が出現した。そこには、これから始まる神速勝負のコース全体図と走者の位置を示す光点が映し出されている。
更にはその横にもう一つ映像が現れ、一人の獣人戦士の姿を大きく映し出した。
「さぁさぁ、ご覧あれ!これぞ、我が特製の投影魔法!」
アドリアンは数万の獣人たちに向かって、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「これで、どこから見ていたって特等席だ!観戦料は大草原の未来ってことで、ツケといてあげるからね!」
人間離れした魔法と不遜な物言いに、獣人たちは度肝を抜かれるばかり。
大キトゥラ・シャゼイ第三試合──その名は『疾風の鈴取り合戦』。
大草原に設けられた、平原、岩場、川、林といった多彩な地形を含む長距離コースを駆け抜ける複数人での速度比べである。
部族から選出された走者たちが『証の小袋』を次の走者へと繋いでいく、リレー形式の競技だ。
そして最終走者である族長が最後の小袋を受け取った後、ゴールに吊るされた一つの『疾風の鈴』を目指す。
だが鈴を手にしただけでは勝利とはならない。
その鈴を追ってくる敵から奪われることなく小袋に入れて、スタート地点まで無事に持ち帰った陣営こそが真の勝者となる。
純粋な速さだけではない。
地形への適応力、一瞬の判断力……それは大草原の戦士の神髄を問う勝負なのだ。
そんな過酷な勝負にアドリアン陣営から名乗りを上げたのは──。
大草原の『黒い閃光』と謳われる、クロヒョウの獣人大部族パンテラ。持久力、そして何より爆発的な瞬発力は同盟軍の中でも随一の実力とされている。
「ゼゼアラ様!我らがパンテラの速さ、大草原の全てに見せつけてやりましょう!」
少女戦士クローネを筆頭に、部族でも指折りの俊足の使い手たちが無駄のないしなやかな肉体を観衆の前に晒している 。
そして彼らを率いるのは無論パンテラ族長、ゼゼアラその人であった 。
「うむ。我らが速さの伝説を、この地に新たに刻み込むぞ」
大草原に名を馳せるパンテラの精鋭たちが姿を現したのを見て、観戦していた獣人たちから感嘆の声が漏れた 。
「おお……あれがパンテラか……!なんと、しなやかな身体つきだ」
「あれが、噂に名高いゼゼアラどの……。立っているだけで、覇気が違う……!」
そこにいるだけで戦場の空気を支配する。威風堂々たる姿は彼らが大草原屈指の強者であることを物語っていた。
パンテラの精鋭たちが放つ、静かなる覇気。
その対抗馬としてリガルオンの陣営から名乗りを上げたのは、俊足で知られる鹿の獣人──ディアロードの部族であった。
「ふむ……我らの相手にとって不足なし」
「あぁ、クロヒョウが相手とはいえ我々は空を駆ける鹿……勝負にはなるまい」
優雅な足取りで前に進み出てきた大きな角を持つシカの大部族の一段。
そして、その先頭に立つ一人の青年に、戦場の……特に女性戦士たちの視線が釘付けになった。
風になびく艶やかな栗色の長髪。
気品を感じさせる整った顔立ち。その姿は荒々しい戦場には不釣り合いな優雅な貴公子である。
「きゃあっ、ラルス様よ!」
「なんて、美しいお方……!」
飛び交う黄色い歓声の中、ディアロード族長ラルスは優雅な身のこなしで、深々と一礼した。
そして彼は顔を上げると、ゼゼアラだけを真っ直ぐに見据え、唇に自信に満ちた笑みを浮かべた。
「我が名はラルス。大草原を駆ける一陣の涼風。黒豹よ、この戦いが終わるまで私の美しい背中だけを目に焼き付けるといい……」
宣戦布告に等しい不遜な言葉。
ゼゼアラのそれまで凪いでいた金色の瞳に、静かな闘志の炎が灯った。
「……」
彼は何も言い返さない。だが、身体から放たれる圧が先程までとは比較にならぬほど鋭く、冷徹なものへと変わっていた。
黒豹の王と、鹿の貴公子。二人の神速の使い手が互いの誇りを懸けて火花を散らすかのように睨み合った。
そんな一触即発のただならぬ気配に、両軍の戦士たちが我慢ならんとばかりに大歓声を上げた。
「うおおお!始まったぞ!」
「パンテラとディアロード!大草原最速はどっちだ!?」
「決まってる!ゼゼアラに敵う者などいやしない!」
「いいや、ラルスこそ真の疾風だ!」
大草原が誇る二大俊足部族の族長同士の挑発 。その光景はこれから始まる過酷な勝負がただの駆けっこではない、魂と誇りの削り合いになることを全ての者に予感させていた 。
そんな中──。
「あの鹿さん、ちょっと格好つけすぎじゃないかい?俺、キザな奴って好きになれないんだよな~」
「……そうか」
小高い丘の上でアドリアンが隣に立つレオニスへと、そんな軽口を叩いていた。
ちょうどその時、アドリアンの背後を通ったモルが何かを言いたげにそのウサギ耳をぴくぴくと動かしていたが、結局何も言えずそそくさとその場を離れていってしまった。
「だがラルスの実力は本物だぞ。純粋な速さだけで言えば、この俺をも凌ぐやもしれん」
「おっと、彼のことを随分と買っているんだねぇ」
アドリアンは、にやりと笑みを浮かべて言った。
「──だけど、俺はそれ以上にゼゼアラって男を高く買っていてね。この勝負はきっと彼が勝つよ」
「ほう?」
レオニスが、興味深そうにアドリアンへと視線を向けた。
「ゼゼアラのどこを買っている?」
「そうだなぁ……いつも仏頂面で寡黙で陰気臭いところ……ってのは冗談として」
アドリアンはおどけた調子を消すと、瞳に真剣な色を宿した。
「ゼゼアラはね……誰よりも己の速さに絶対的な自信を持ちながら、同時に誰よりも己の未熟さを知っている。自信と謙虚さがあいつの中では奇跡的なバランスで同居してる。だからこそ彼の魂は、ただ速いだけの奴とは違う気高い輝きを放っているのさ。……そういう不器用で真っ直ぐな魂ってやつに、俺は弱いんだ」
アドリアンの言葉を聞き、レオニスは遠い昔を懐かしむような穏やかな眼差しになった。
そして静かに言った。
「……そうか、奇遇だな。何を隠そう、俺も誰よりもゼゼアラという男を買っているのだ」
その言葉に、アドリアンは一瞬きょとんと目を丸くした。
だが、すぐにいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうか、俺たち滅茶苦茶気が合うじゃないか。でも、二人してゼゼアラを応援したんじゃ、キザな鹿さんが不憫だね。せめて今だけは、鹿の方を応援してやったらどう?」
「あぁ、そうするとしよう」
穏やかな笑みを交わしていた二人の会話はそこまでだった。レオニスは笑みを消すと、瞳に再び獅子王の威厳を宿らせ一歩前へ出た。
そして──戦場全体へと威厳に満ちた声を響かせた。
「これより、大キトゥラ・シャゼイ第三試合、『疾風の鈴取り合戦』を執り行う!参加する両部族の者は、速やかに持ち場へ移動せよ!」
レオニスの号令一下、パンテラとディアロード両部族の選ばれし俊足の使い手たちが各々の中継地点へと散っていく。
最後に残ったゼゼアラとラルスは、もう一度だけ互いの瞳に火花を散らすと、遠く離れた最終走者としての持ち場へと向かっていった。
「さーて、選手のみんなは散り散りになっちゃったけど……心配ご無用!」
アドリアンは、大空に浮かぶ巨大な魔法映像を指さした。
「俺の投影魔法があれば、今まさに大草原を爆走しているもふもふさん達の勇姿が常にここで見られるってわけさ!」
広大なコースを疾走する選手たちの姿をこの場にいながらにして観戦できる。
それは神聖なる儀式を全ての者たちが等しく楽しめるようにという、英雄の粋な計らいであった。
割れんばかりの大歓声が鳴り響く中、両部族の第一走者がスタート地点に立った。
パンテラが誇る若き俊足の使い手──少女戦士クローネ。彼女は隣に並ぶディアロードの選手を鋭く睨みつけながらしなやかに身を低く構えた。
「クローネちゃーん!頑張ってー!」
無骨な獣人たちの野太い声援の中に、鈴が鳴るような可憐な声が混じっていた。
声の主はレフィーラだ。
(……レフィーラ)
クローネはそっと目を閉じた。
かつて、キトゥラ・シャゼイで自分を完膚なきまでに打ち負かした少女。
初めは、ただ気に食わないだけの相手だった。だが、共に戦ううちに知ったのだ。
彼女の華奢な身体に宿る圧倒的な強さと、決して揺らがぬ信念の気高さを。いつしか、それは尊敬へと変わっていた。
クローネは、ちらりとレフィーラのいる観客席へと視線を送った。そして悪戯っぽく、ぱちりと片目を瞑って見せた。
可愛らしい、戦士のウインク……。
「……!」
その仕草に気付いたレフィーラは、ぱあっと満面の笑みを浮かべると、ちぎれんばかりにその手をぶんぶんと振った。
そして──
「──開始せよッ!!」
獅子王レオニスの号令が大草原の空へと響き渡った。
号令が轟いた刹那。
ドンッ!!という大気が爆ぜるかのような衝撃音と共に、二人の走者の姿がスタート地点から掻き消えた。
「──!?」
彼らが巻き起こした凄まじい突風が、観戦していた戦士たちへと吹き荒れる。
「見えなかった……!今、確かに目の前にいたはずなのに……!」
「あれがパンテラとディアロードの神速か!」
戦士たちは暴風に耐えながら規格外の速さに戦慄する。
そうしてあっという間に二人の姿は遥か彼方へと消え去ってしまった。次に獣人たちは、一斉に天を仰ぐ。
そこにはアドリアンの魔法によって、レースの様子が鮮明に映し出されていた。
スクリーンに大きく映し出されていたのは──長髪を風になびかせ大地を飛ぶかのように疾走するディアロードの戦士の姿だ。
「……ふむ」
ディアロードの戦士はちらりと、余裕たっぷりに背後を振り返った。
だが、その視界に追ってくるはずの黒豹の少女の姿はない。
「パンテラといえども所詮は年の若い女子か。これでは、少々肩透かしだな」
彼がそう己の勝利を確信しかけた、その時だった。
「──なぁ、お前。もしかして、前が見えてないのか?」
「!?」
いつの間にか、ディアロードの戦士の遥か前方を黒い閃光が疾走していた。
──クローネだ。
信じがたい光景に、両軍の戦士たちからこの日何度目か分からない割れんばかりの大歓声が上がった。
「うおおお!抜いた!」
「いつの間に……!?全く見えなかったぞ!」
呆然とするディアロードの戦士に向かって、クローネは悪戯っぽく笑いかけた。
「ディアロードの名は知ってたけど……想像以上に遅いんだな。正直、肩透かしだよ。──じゃあな!」
次の瞬間クローネの身体から黒い闘気が迸った。彼女の速さは更に一段階、二段階と加速していく。
そうしてディアロードの戦士の視界から、あっという間にその姿を消し去ってしまった。
「ば、馬鹿な……俺より早いなんて……!?」
その圧倒的な速さを前に、戦士たちの熱狂は最高潮に達していた。
天を衝くかのような大歓声の中、ただ一人。レフィーラだけが、目を輝かせてその光景を見守っていた。
「クローネちゃん……私と戦った時よりも……もっと、もっと速くなってる……!」
好敵手であり、そして今は同じ旗の下で戦う戦友でもある少女が、今までの戦いで成長を遂げていた──。
その事実が、レフィーラには自分のことのように嬉しかったのだ。
「私、信じてるよ。みんなのこと──」
大草原に新しい風が吹き始めていた。
それはただ速さを競う獣人たちの起こす風ではない。
絶望から希望へ、闘争から競い合いへと……時代そのものを動かす変革の風。
『疾風の鈴取り合戦』の結末は、まだ誰にも分からない。




