第百八十七話
大草原に、決戦の始まりを告げる風が吹き渡る中──。
「よし、これで舞台の準備は万端だ!」
アドリアンは満足げに頷くと、懐から取り出した翠色に輝く石を大草原の大地へとそっと置いた 。
その瞬間、石から眩い生命の光が迸る。大地が生き物のように穏やかに脈動を始め、草木が芽吹き地面がみるみると盛り上がっていく── 。
「お……おい、見ろ!地面が……!」
「丘だ!何もない平原に、丘が生まれていく!」
両軍の獣人たちが目の前の奇跡に驚愕の声を上げる 。
やがて、なだらかな一つの丘が形成されると、アドリアンはひらりと頂上へと飛び乗り、手にしていた一本の旗を中心に高らかに突き立てた。
「さぁさぁ、皆さんお待ちかね!ここにいる数万人が一人ずつ名乗りを上げて決闘してたら、俺とみんなの寿命が尽きちゃうかもしれないからね。まずは景気よく、全員参加の派手なやつから始めようじゃないか!」
本来『キトゥラ・シャゼイ』の競技内容は、勝負を挑まれた側が決定する。今回の場合それはリガルオン側だ。
だがこの最初の競技に限っては、レオニスとアドリアンが話し合って決めたものであった。
数万の戦士たちが一人ずつ戦っていてはそれこそ何か月かかるか分かったものではない。故にまずは全員が参加できる競技を、という結論に至ったのだ。
アドリアンが丘の上に旗を立てるのを見届けると、獅子王レオニスが威厳に満ちた声を戦場に響かせた。
「第一番勝負の決まりを伝える!武器の使用は認める!だが、目的はあくまで相手を戦闘不能にすること!降参させるか、意識を奪うまでだ!相手の命を奪う行為は、最も不名誉な反則負けと心せよ!皆の者、分かったな!」
レオニスの言葉に、両軍の戦士たちから天を衝くかのような雄叫びが上がった。それは、神聖なる儀式の始まりを告げる、魂の咆哮であった。
大キトゥラ・シャゼイ……その記念すべき最初の競技は──『旗護り』。
それは大草原に古くから伝わる、子供たちの遊戯の名であった。
かつてこの地にまだ平穏があった頃、部族の垣根なく子供たちが興じていたという、獣人たちにとっては懐かしい遊び 。
「まさか旗護りとはなぁ。懐かしいぜ、ガキの頃によくやったもんだ」
「しかし英雄殿が獣人の子供の遊びを知ってるとはな……」
ルールは至極単純。丘の頂に立つ旗を奪い合い、旗を占領した後に一定時間護り抜いた軍の勝利となる。
だが、単純であるが故に戦術は奥深い。一度旗を占領すれば、そこからは攻守が存在する遊戯となる。旗を護る兵と敵の増援を阻む兵とに分かれなければならない。
旗の主は目まぐるしく入れ替わり、ただ旗を保持し続けるだけでは体力と兵力を無駄に消耗していく。時には敢えて敵に旗を奪わせ、油断したところを叩くといった駆け引きも生まれる。
獣人の子供たちはこの遊戯を通じて戦の何たるかを学び、大人になればその駆け引きで培った戦局眼を以て大草原の平和を脅かす侵略者と戦うのだ。
「獣人のみんなにとっては懐かしい旗護りだろ?でも、いい大人たちが本気で旗護りをするってのも……面白いと思うんだよな!」
アドリアンが数ある競技の中から、敢えてこの『旗護り』を提案したのには、理由があった。数万の兵士が一度に参加できるという実利的な側面もさることながら、彼が込めたのはもっと別の願いだ。
子供たちの遊戯を、いい大人たちが本気で、しかし殺し合うことなく興じる。──それは大草原に再び訪れるべき平穏な時代の始まりを象徴する、英雄からのメッセージであった 。
そんなアドリアンの優しい宣言。
それが戦場に集った数万の獣人たちの闘争本能に、最後の火をつけた。
「うおおおお!やってやるぜ!」
「一番槍は俺がもらう!」
「馬鹿野郎、これは戦争じゃねぇ!一番に旗を掴んだ奴が勇者だ!」
両軍の兵士たちから鬨の声が上がる。
中には手柄を立てんと逸り、既に丘へと駆け出さんばかりの者もいれば、戦況を冷静に見極めようと仲間と陣形について話し合う部族もいる。
しかし……この最初の競技『旗護り』には六大部族や、パンテラ、リノケロスといった両軍の中核を成す大部族の姿はなかった。彼らにはこの後の選抜戦で、雌雄を決する大役が残されているからだ。
しかし、自らが戦わずとも彼らの魂が燃えていないわけではない。彼らは自らが率いる配下部族たちに、それぞれのやり方で熱烈な声援を送っていた。
「いいか、貴様ら!ぶっ殺せー!……あ、いや、殺しちゃ駄目だったか。まぁいい、半殺しだ!」
「聞け、我が同胞たちよ!あの忌々しいシカの部族にだけは、絶対に遅れを取るな!殺す以外なら何をしてもいい!何をしてでも、奴らより先に旗を掴めぇーっ!」
大部族の族長たちから放たれる声援というにはあまりに物騒な激励……いや、命令がこれから始まろうとする神聖なる遊戯の開始をけたたましく告げていた。
そして──
「──始めっ!!」
獅子王レオニスの号令が、大草原に轟いた。
「「うぉぉーっ!!!」」
その瞬間、地鳴りと共に数万の獣人たちが一斉に丘へと殺到した。
先陣を切るのは、猪の獣人たちの猛烈な突進 。それを巨躯の熊の獣人たちが、地響きを上げ追いかける 。その横では、俊足の鹿の獣人たちが軽やかに大地を駆け 、狼の獣人たちは統率の取れた群れとなって敵の側面に突撃する機を窺っていた 。
「ぐぬぬ……!中々しぶといではないか!」
「そちらこそ!我が渾身の頭突きを、ぬいぐるみのように受け止めおって!」
「おい、今尻尾を噛みやがったな!」
「これは戦術だ!栄えあるアナグマ流尻噛み術と知れ! 」
あちこちで、そんなやり取りと共に土煙が上がる。
殴られ、蹴られ、投げ飛ばされた獣人たちが、気絶したり降参の白旗を上げたりして、次々と脱落していく。
「足元に注意しろよ~!」
「わっ!?蛇の尻尾が!こ、こいつ反則だろ!」
「ルールには書いてないから反則じゃねぇよ、わんちゃん!」
巨大な熊の獣人が小柄な鹿の獣人を軽々と投げ飛ばし、俊足の狼の獣人が地を這う蛇の獣人の尻尾に足を取られて転倒する。
あちこちで砂塵が舞い、負傷者のうめき声とルールを巡るシュールな口論が絶え間なく響き渡っていた。
戦いは、地上だけではない。
「そらよっと!」
「うぉぉっ!?上から岩を落とすな馬鹿!」
「どうせ死なねぇだろ!あはは!」
上空では鷲や鷹、蝙蝠といった翼持つ獣人たちが互いに牽制し合い、熾烈な空中戦を繰り広げている。彼らの目標もまた、丘の頂。
地上部隊の進軍を援護し、敵の空からの進路を塞ぐべく空もまた混沌の渦中にあった。
数万の獣人が、一つの丘を目指して駆け上がる光景は、まさしく圧巻の一言であった。
「……」
そして、その様子を待機陣地の丘から並んで見ているレオニスとアドリアン。
不意に、アドリアンがレオニスに言った。
「どうだい、獅子王殿。色んな種族が揉みくちゃになって、協力して一つの目標に向かって突き進むってのは」
「協力……?」
レオニスは目を細め、丘の上で繰り広げられる混沌を眺める。
「どけ、イノシシ!そのケツが邪魔だ!」
「お前こそ、その貧相な尻尾を踏んでいるぞ、オオカミ!」
「あれは味方か!?……いや、敵か!どっちだ!?」
「ええい、とりあえず全員なぎ倒せばよかろう!」
我先にと旗を奪わんと敵も味方も関係なく妨害し、時には押し倒し突き進んでいく獣人たち。
その光景を見て、レオニスはふっと思わず笑みを漏らした。
「あれを協力と呼ぶか。中々に面白い感性を持つ人間だな」
その言葉にアドリアンもまたやれやれと肩をすくめ、しかし穏やかに言う。
「あれは立派な協力だよ、レオニス殿。偉大なる獅子王様だって『旗護り』を小さい頃にやったことがあるだろ?」
アドリアンの皮肉めいた言葉に、レオニスは遠い目をする。
アドリアンはそんな彼の横顔を見ながら続けた。
「一見すれば、醜い私利私欲のぶつかり合いにしか見えないかもしれない。だが、よく見なよ。味方を突き飛ばしたあの男は、次の瞬間には味方を狙う敵の前に立ちはだかっているじゃないか。さっきまで殴り合っていたあそこの二人は、一人が倒れた後きっと笑いながら互いの肩を叩き合うはずさ」
「……」
「これは、子供の遊びの延長線だけど……。互いの力を認め合い、競い合い、そして戦いの後には敵も味方もなく称え合う。そんな不器用で泥臭くて、最高に熱い友情の形なんだ。俺が取り戻したいのは、こういう大草原の『秩序』なんだよ」
「秩序、か」
レオニスは何かを悔いるかのように、その言葉をぽつりと繰り返した。
そして彼は眼下で繰り広げられる熱狂には目もくれず、真っ直ぐにアドリアンを見据えて言った。
「人間よ。霊脈を治せるというのは誠のことか」
先程の奇跡でその答えは分かりきっているはずだった。だが、それでも獅子王はもう一度、己の耳で聞かずにはいられなかった。──あまりに長い間、絶望の中にいたのだから。
アドリアンはその問いに、真摯な眼差しで答えた。
「あぁ。俺は霊脈を治せる。『星の涙』と共に在る限り、世界のあらゆる理をあるべき姿へと戻すことができるんだ」
アドリアンがそう言い切った直後だった。彼の全身が、ふわりと淡い蒼色の光に包まれた。それは彼と共に在る『星の涙』の輝き。世界の意志が英雄アドリアンに宿っているという何より雄弁な証。
レオニスは神々しいまでの光景に思わず見惚れた。そして同時に──言葉にも存在にも、一欠片の嘘偽りもないことを魂で再び感じ取っていた。
「──そうか」
その一言の呟きに、どれほどの感情が込められていたか。アドリアンには、それが痛いほどに伝わってきた。
──もっと早くこの男に出会えていれば。──霊脈を治す他の道を見つけられていたなら。
癒えぬ後悔と深い懺悔の念が、獅子王の大きな背中を覆い尽くしていた。
ふと、眼下の丘からひときわ大きな雄叫びが上がった。
いつの間にか、同盟軍の誰かが旗を占領したらしい。大柄な猫族の戦士が、丘の頂点で誇らしげに旗を掲げている。
「でもね、レオニス」
アドリアンはそちらに視線を向けることなく、静かに隣に立つ獅子王へと語り掛けた。
「まだ遅くないよ。これから救える命がきっとある」
アドリアンの言葉の最中にも眼下の戦況は目まぐるしく動く。
リガルオン側の、屈強なカバの戦士団が丘の斜面を猛然と駆け上がり、同盟軍の守りをこじ開けようとしていた。
「……果たしてそうだろうか」
レオニスは力なく首を振った。
「俺はこの手で多くの同胞を見捨てた。今更、どの面を下げて救うなどと……」
その時、再び雄叫びが上がった。
カバの戦士団の猛攻が実を結び、丘の上の旗が今度はリガルオンが占有していた。
「顔を上げるんだ、獅子王。あんたが諦めたら誰がこの大地を導く?アンタが見捨てた命の分まで、これから救えばいい。違うかい?」
眼下では再び旗を奪い返そうとする同盟軍と、それを阻むリガルオン軍が激しく、しかしどこか楽しげにぶつかり合っている。
そこに死の匂いはない。未来へと向かう、生命の熱狂そのものだ。レオニスはその光景と、隣に立つ英雄の横顔を黙って見つめていた。
そしてアドリアンは穏やかな顔で言った。
──それはかつて、前の世界で目の前の獅子の男が大英雄アドリアンに語った言葉。
「なぁ、レオニス。昔……キミはこう言ってたよな。『王や英雄という導く者は、後悔する暇などない。手からこぼれ落ちた命の一つ一つが、築き上げるべき未来の礎となるのだから、立ち止まることは彼らへの最大の侮辱となる』ってさ」
「……っ!」
レオニスははっと顔を上げた。その言葉は不思議とレオニスの魂に突き刺さった。
──まるで、遥か昔の自分が今の自分を叱咤激励しているかのように今の言葉は彼の心に突き刺さったのだ。
「……なるほどな。確かに、その通りかもしれぬ。……だが」
──そう。
だが、だ。
レオニスは目の前の不思議な人間を見つめ、静かに問う。
「……俺はそんなことを言っていたか?そもそも、俺とお前は会った覚えがないのだが……」
レオニスの問いに、アドリアンは悪戯っぽく笑みを返すだけだった。
「覚えてないのかい?昔、俺にそう言ってくれたのはキミじゃないか。忘れるだなんて薄情だなぁ」
「……?」
首を傾げるレオニスを横目に、アドリアンはふと眼下の丘へと視線を戻した。
「おっと、感傷に浸ってる場合じゃないな。そろそろ『旗護り』の制限時間だ。確か……時間切れの場合は、最後に旗を保持していた陣営の勝ち、だったよね?レオニス」
「え?あ、あぁ……そうだ」
アドリアンの言葉にレオニスもまた、眼下で繰り広げられる最後の攻防へと瞳を戻すのであった。
「うおおおっ!最後に旗を持つのはこの俺だ!」
「いいえ、私よ!」
「抜け駆けはさせん!旗をよこせ!」
制限時間が残り僅か。それを悟った獣人たちが、最後の力を振り絞って丘の頂点へと殺到する。
熱狂の渦の中ではもはや敵も味方もリガルオンも同盟軍も関係なかった。
ただ、己こそがこの場で最も誇り高き戦士であると証明せんがための、純粋な名誉の奪い合いがそこにはあった。
「……」
レオニスはその光景を、美しいと心から思った。
ほんの僅か時間前まで、互いに殺し合うことしか考えていなかった者たちが……今は子供のように目を輝かせ一つの旗を巡って、己が名誉のために熱狂している。
命と命の、虚しい奪い合いではない。魂と魂の、誇り高き示し合い。
なんと、尊い光景だろうか、と。
そして。
数多の獣人たちの腕の中で、勝利の証である旗がぐしゃぐしゃに揉みくちゃにされ──。
ぐしゃぐしゃになった旗がぽーんと、意思を持ったかのように宙を舞った。
そして偶然、その真上にいた一人の鷹の獣人の手の中に、すぽりと収まる。
「え?」
当の鷹の獣人が何が起きたか分からぬとばかりに、間抜けな声を上げた瞬間。
「そこまでだッ!!」
獅子王レオニスの雷鳴の如き声が、大草原に響き渡る。
「これ以上の奪い合いは無用!今、旗を手にしていた者の陣営を、第一番勝負の勝者とする!」
しん、と静まり返る戦場。
誰もが名も知らぬ鷹の獣人に視線を注ぎ「……誰だ?」と疑問の声を囁き合っている。
「え、えーっと……俺ですかい?い、いや、あの、別に旗を取ろうなんて、これっぽっちも思ってなくて……!」
当の本人は数万の視線を一身に浴び、顔を真っ青にしている。
そんな情けない姿を、遠くの丘からアドリアンが目を凝らして見ていた。
「さてさて、あの幸運な鷹さんは、どちらの陣営かな……ん?」
その瞬間、見覚えのある情けない姿に……とある記憶が蘇った。
あれは──そうだ。彼は確か……。
『雑魚が、生意気な口を利くんじゃねぇ!草原の掟はシンプルだ……強いものが一番偉いってことよ!お前らみたいな弱者は、ただ従ってりゃいいのさ!』
『こ、降伏しまぁす!お、お命だけはお助けください!なんでもしますから!へへぇ……』
初めてモルと出会った『廃棄集落』 。そこで弱者であるモルたちを虐げていた鷹の青年。アドリアン自らが、一度は叩きのめした男……。
そして、その後は心を入れ替え、ケルナと共に畑仕事に勤しんでいると聞いていた、あの……。
「……ははっ」
アドリアンの口から思わず乾いた笑いがこぼれた。
大草原の未来を決める神聖なる儀式の最初の勝敗が、彼のお陰で決まっただなんて。
「あの鷹さん、俺たちの同盟軍に所属してる鷹さんみたいだ。──さて、獅子王殿。どちらの勝ちか、高らかに宣言してもらっていいかな?」
アドリアンの悪戯っぽい笑みに、レオニスは呆れることもなく力強く頷いた。
そして──叫ぶ。
「第一番勝負『旗護り』勝者!!『みんな仲良し!平和大好き!』同盟軍!!」
王の宣言が、再び戦場に熱狂の嵐を巻き起こした。勝者である同盟軍からは歓喜の、そして敗者であるリガルオン軍からも健闘を称える惜しみない雄叫びが上がる。
そして、その熱狂の中心では……。
「え?え?ちょ、何するんだお前ら!?」
「やるじゃねぇか、お前!能ある鷹は爪を隠すってかぁ!?」
「実は名のある戦士なんじゃねぇのか!?すげぇなぁ!」
勝利の立役者として当惑する鷹の青年が、仲間たちの手で何度も高々と胴上げされていた。
「い、いやだから俺は何も……ただ、他の鳥の獣人たちにぶつかってここにいただけっていうか……!……うわぁっ!?」
大歓声が響き渡る中──アドリアンはその光景を慈愛に満ちた瞳で見つめていた。
そうだ。この世に、不要な者など一人もいないのだ。
かつて弱者として虐げられ、更に弱者を虐げるていた秩序なき世界の犠牲者でもあり、加害者でもある一人の鷹の獣人が……。
今、数万の軍勢の前で偶然という名の奇跡によって、英雄として喝采を浴びている 。
「……」
どんな者にも、必ずその者だけの役割があり生まれてきた意味がある。
当たり前で何よりも尊い真理を改めて実感し、アドリアンの口元には穏やかでこの日一番の優しい笑みが浮かんだ。
そして、横でアドリアンと同じ感情を浮かべて獣人たちを見守っているレオニスに向かって、言った。
「さぁ、次の競技に移ろうか。まだまだ『大キトゥラ・シャゼイ』は始まったばかりだからね」




