第百八十五話
──かつて、獅子の男は言った。
黄金色に輝く大草原を二人で見下ろしながら、彼は言ったのだ。
『アドリアンよ。俺はな、大草原を愛しているんだ』
アドリアンはその横顔に問いかけた。
『それは故郷だからかい?それとも、この景色が美しいから?』
『いいや、違う。故郷だから、美しいからなどという単純な言葉で言い表せるものではない』
黄金の鬣を思わせる長髪を風になびかせた男は、目の前に広がる全てを抱きしめるかのように腕を広げ言った。
『それはな──』
あの時、彼はなんと言ったんだったか。
あの時、彼はどのような表情を浮かべていたんだろうか。
それは遥か昔の記憶。前世のアドリアンの記憶。
共に背中を預けて戦った偉大なる獣人レオニスとの、取り留めのない会話の記憶。
だからこそ、アドリアンもまた──。
♢ ♢ ♢
「──言いたいことも、問いたいこともあるが……まずは、皆で名乗りをあげようではないか!」
「!」
凍てついた大河を挟んで轟くレオニスの声に、アドリアンははっと我に返った。
どうやら、ほんの一瞬だけ前世の記憶に意識を飛ばしてしまっていたらしい。
「さぁ!皆の者、名乗りを上げよ!己が部族と名を高らかに叫ぶのだ!」
レオニスの号令に呼応し、リガルオンの陣営から大地を揺るがす雄叫びが響き渡った。
その先陣を切ったのは、若き猛牛の獣人オルオーンであった。彼は巨大な戦斧を天に振りかざし、一歩前へと踏み出した。
「俺こそは、タウロス大部族が族長、オルオーン!死を望む者から前へ出ろ!一族が誇る角と、戦斧の錆にしてやるぜ!」
若き族長の猛々しい牛の角を陽光に煌めかせながら叫ぶ。
若さに不相応なほどの闘気は、獅子王レオニスにも劣らぬ凄まじさで戦場を支配した。
「ウルグリッドのボルドだぁ~。お前さんたちが何者で、何を企んでおるのかは……未だによく分からんがなぁ。問答無用で、叩きのめすしかあるまい!」
ボルドのそれまで浮かべていた温厚な笑みが、一瞬にして消え去る。代わりに現れたのは、全てを喰らい尽くさんとする、獰猛な熊の貌。
ウルグリッド一族の重厚な肉体から放たれる圧は、それだけで並の戦士を呑み込んでしまうだろう。
「フォクシアラが族長、アカネ。……貴様たちがどれほどの策を弄しようとも、私の幻術からは逃れられぬと知れ」
そして最後にアカネが優雅な足取りで前に出た。
その声は静かであったが、込められた凄まじいまでの殺気に気付かぬ者はこの場にはいなかった。
リガルオン側、三人の大族長による名乗り──。
それを見た『みんな仲良し!平和大好き!』同盟軍の猛者たちもまた闘争本能を刺激され、身体を興奮に震わせながら前へと進み出た。
「パンテラが族長、ゼゼアラ!我が爪が疾風を纏う様、その目に焼き付けていくがいい!」
黒豹の族長ゼゼアラが、その漆黒の尻尾をしなやかに揺らし、流れるような動作で名乗りを上げる──。
「リノケロスが族長、イルデラだ!アタイらの突進、止められるもんなら止めてみな!」
イルデラが、その巨躯に違わぬ勇猛さで吠え、肩に担いだ大斧を大地へと叩きつける。轟音と共に地面が揺れ、彼女の闘気が爆発した──。
「──ルミナヴォレンが族長、フェンブレである!我が誇り高き赤褐色の尻尾に、勝利を誓おうぞ!」
フェンブレはグラシエラ(に扮したアドリアン)へ、これ見よがしに熱い視線を送りながら、手にした巨大な槍をドンと地面に突き立てた。
その次に続いたのは、獣人ではない。優美なエルフの姉妹であった。
レフィーラがしなやかな長弓に矢をつがえながら、快活に叫ぶ。
「エルフの守護者・レフィーラ!私の弓は悪を穿ち、みんなを導く光の矢!さぁ、正々堂々──勝負!」
その背後で、妹のケルナが姉の服の裾をぎゅっと掴み、おどおどと小声で名乗りを上げた。
「ケ、ケルナです……。お手柔らかに、お願いします……」
そして、それに続くように──ヴォルガルドのグレイファングが、アクィラントのゼファーが、セルペントスのナーシャが、次々と名乗りを上げ凄まじい圧を解き放っていく。
狼の獣人たちが、一斉に天に向かって遠吠えを上げる。その中心で、族長のグレイファングが隻眼を鋭く光らせながら前に出た。
「ヴォルガルドが族長、隻眼のグレイファング!我らが牙は、大草原の未来を切り拓くために!旧き友よ、過ちは我が爪で正させてもらう!」
遥か上空、風を切る音が響き渡る。
鷲の獣人たちの軍勢を率いるゼファーが、翼を広げたまま戦場を見下ろしていた。
「大空を舞うアクィラントが長、ゼファー!我らが翼は、変革の風を運ぶ!」
そして最後に蛇の獣人たちの陣営から、ナーシャが優雅に尻尾を進め、しなやかに身体を捩りながら叫ぶ。
「セルペントスが女王、ナーシャよ!身体に、静かなる毒が回る前に、せいぜい足掻くことね!」
その後も、両軍から幾人もの猛者たちが、次々と己が名を高らかに叫んでいく。
やがて、全ての主要な族長が名乗りを終えると──レオニスは満足げに深く頷いた。
「双方、見事な名乗りであった!獣人の誇りと魂が込められたその言葉、このレオニスがしかと聞き届けたぞ!」
そしてレオニスは魔族の姫、メーラへと視線を向けた。
だが──先に口を開いたのは、メーラの方だった。彼女は、にこりと穏やかに微笑んで言った。
「レオニス様。恐れながら、まだ名乗りは終わってはおりません。あと、一人……いえ、二人残っておりますわ」
「なに?」
レオニスが訝しげに眉を寄せる。名乗りを上げるべき者は、もう全て前に出ているはずだが……。
彼がそんな疑問を浮かべた、その時だった。
メーラが傍らに立つグラシエラへと視線を送り、二人はこくりと頷き合う。
「メーラ。じゃあ、『打ち合わせ』通りにね」
「うん!」
メーラがそっと両腕を広げる。
次の瞬間、彼女の小さな身体から穏やかで暖かな魔力が、光の波となって広がっていった。
「な、なんだ……?」
「魔族の姫からすげぇ魔力が出てるぞ……!?」
ミシリ、と。凍てついていた大河に亀裂が走る。
次の瞬間には、轟音と共に氷の大地が砕け散り、凄まじい水蒸気を上げながら、川は元の激流へと姿を戻していく。
「川が戻った……!?」
「嘘だろ、完全に凍ってたじゃねぇか!」
魔族の姫が持つ規格外の力。戦場にいる全ての者に見せつける、圧巻の光景であった。
数万の獣人たちは膨大な魔力の奔流を前に、戦慄する。
だが、それは単に魔力を見せつけるためだけの行為ではなかった。
ごう、と。元の勢いを取り戻した大河が、凄まじい水飛沫を巻き上げる。立ち昇る分厚い水煙が幕のように、川の傍にメーラとグラシエラの姿を獣人たちの視界から完全に覆い隠してしまった。
やがて、水飛沫が晴れ、再び川の中央に視線が注がれた時──そこにいた獣人たちは、誰もが我が目を疑った。
「!?」
そこに立っていたのは、メーラとグラシエラ……ではない。
一人は黒髪を風になびかせる、人間の青年──英雄アドリアン。
そして、もう一人は……アドリアンの横で真っ直ぐに前を見据える、ウサギの耳を持つ小さな少年。
『みんな仲良し!平和大好き!』同盟の族長、モルであった。
そして、変わらず優雅に佇んでいたメーラが、華奢な身体に不釣り合いなほどの威厳を込めて高らかに宣言した。
「『みんな仲良し!平和大好き!』同盟が長、勇者モル!そして我が忠実なる騎士、英雄アドリアン!さぁ、皆様にご挨拶を!」
メーラに促され、ウサギの少年モルが一歩前へ出た。
幼い姿にリガルオンの陣営からどよめきが起こる。だが小さな身体から放たれる族長としての揺るぎない覚悟と気配に、彼を侮る者は誰一人としていなかった。
モルは愛らしい外見からは想像もつかぬほど、凛とした声で名乗りを上げた。
「僕がこの同盟の長モルです!僕たちは、大草原から無益な争いをなくすために来ました!」
最後に黒髪の青年、アドリアンが静かに前へ出た。
「俺はアドリアン。通りすがりの……大草原を救う英雄さ!」
アドリアンがただ一言、自らの名を告げた、瞬間。
ごう、と。彼の身体から、それまでとは比較にならぬほどの想像を絶する圧力が解き放たれた。
それは数万の屈強な獣人たちを跪かせんばかりの絶対的な強者の覇気。リガルオン、同盟、敵味方の区別なく、戦場にいる全ての獣人たちの尻尾の毛が総立ちになった。
「あれが、噂に聞く人間か!ちっ……人間の癖にやべぇ強さだ……!!」
「でも魔族の女は何処に行ったんだぁ?消えちまったぞぉ」
アドリアンから放たれる底の知れない圧を肌で感じ取り、オルオーンの口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
一流の戦士である彼は、一目で理解したのだ。目の前の人間が、自らの全霊を懸けて戦うに値する本物の強者であることを。
その隣で、ボルドは警戒を解かぬままじっとアドリアンを睨みつけていた。
そしてアカネは──一瞬だけ物憂げな表情を浮かべたが、すぐにそれを振り払いアドリアンを強く睨みつけた。
(……相変わらず、派手なことをする男だ)
アカネは、全てを知っている。
この男が次に何を口にするのか。あの芝居がかった登場が何を意味するのかも。
味方への裏切りにも等しい非情な立ち位置。だが、それも全ては大草原の未来のため。
アカネは内心の動揺を必死に抑え込み、静かにこの後の行く末を見守る。
「……」
激流を取り戻した大河を挟み、レオニスとアドリアンたちは静かに視線を交わしていた。
獅子王レオニスの瞳に宿るのは、一欠片の油断もない純粋な闘気。対する英雄アドリアンの瞳に浮かぶのは、どこか遠い過去を懐かしむような穏やかな感情。
ごうごうと流れる川の音だけが、張り詰めた戦場に響いている。
やがて、その静寂を破ったのはレオニスだった。
「『みんな仲良し!平和大好き!』を名乗る者たちよ!その心意気、天晴れである!」
だが、と。その声は一転して鋭さを増す。
「──しかし何故だ。何故、魔族や人間が我ら獣人の争いに首を突っ込む?これは我らが大地で起きた、我ら自身の問題である!」
レオニスの問いにアドリアンは、ふっと笑みを浮かべた。それは、侮蔑でも嘲笑でもない。ただ今の問いが不思議でならないとでも言うような純粋な笑みだった。
そして、彼は答えた。その声は魔法で増幅されているわけでもないのに戦場にいる全ての者の魂を震わせた。
「弱者を守るのに、種族が関係あるのかい?俺たちは目の前で虐げられている者がいるのなら、手を差し伸べる。そこに理由も種族の垣根もない。……俺たちは皆を救うためにここまで来たんだからね!」
真っ直ぐで、堂々とした言い切り。
その場にいた敵も味方も、全ての獣人が言葉を失った。アドリアンが放つ英雄としか呼びようのない圧倒的なまでの立ち振る舞いに、目を奪われていたのだ。
弱者を守る──その言葉に、レオニスはぐっと目を伏せた。だが、すぐに獅子王としての威厳を取り戻し、吼える。
「素晴らしい心意気だ。──だが!!そのために始まるこの戦で、どれほどの命が失われるか考えたことはあるのか!?戦いこそが命を奪い、大草原を蝕む病だと気付かぬのか!」
レオニスは叫びながら心の中で自嘲していた。
──なんと空虚で、欺瞞に満ちた己の言葉だろうか。
この争いの火種を蒔いたのは、他の誰でもない自分自身。弱者を切り捨てるという苦渋の決断の下、同胞同士が刃を交えるという大惨事を引き起こしておきながら……今更、どの口が命の尊さを語るというのか。
レオニスの胸中は激しい自己嫌悪の嵐が吹き荒れていた。
だが、そんなレオニスの言葉をアドリアンは否定しなかった。彼は静かに、悲しげな笑みを浮かべたのだ。
「あぁ、その通りだ。もうこれ以上血を流すべきじゃない。大草原はもう十分すぎるほど血を吸った。もし、この大地に意志があるのなら……もうやめてくれと、そう願っているはずだ」
アドリアンのどこか悲しみを湛えた声。しかし、それは確かにレオニスの言葉に賛同するものだった。
そのことに、レオニスは驚愕に目を見開く。
(では、何故……何故これほどの軍勢を引き連れて、我々の前に現れたのだ)
その疑問がレオニスの口から飛び出す、直前だった。
凛とした、少年の声が戦場に響き渡った。
「レオニス様!!僕たちはこれ以上の流血は望みません!!」
アドリアンの隣に立つ、ウサギの少年モルが一歩前へと進み出て、叫んだ。
「ですが、互いに譲れぬ信念があることもまた事実。ならば、この戦の決着はいにしえより伝わる神聖なる儀式に委ねるべきかと存じます!!」
彼は獅子王レオニスを真っ直ぐに見据えると、高らかにこう宣言したのだ。
「我ら『みんな仲良し!平和大好き!』同盟は、貴殿らリガルオンに、『キトゥラ・シャゼイ』を申し込みます!」




