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第百八十四話

凍てついた大河から放たれる絶対零度の冷気が、戦場の空気を支配する。数万の獣人たちは中心に立つ二人の魔族の姿に戦慄していた。

だが、彼らの視線を一身に浴びる長身の女は、そんな緊張感など我関せずとばかりに甲高い声を上げた。


「おーっほっほ!皆さん、わたくしたち魔族の氷の魔法に、すっかりド肝を抜かれているようですわね、メーラ姫!」

「え、えぇ……その、ようでございますね……はい」


その傍らで、メーラは冷や汗をだらだらと流しながら引きつった笑みを浮かべるしかできなかった。


「どういうことだ……魔族だと?聞いたこともねぇぞ、あんな規格外の魔法を使う魔族なんざ……!」


その異様な光景に、両軍の獣人たちがざわめき立つ。そのざわめきは、オルオーンやボルドといった族長たちも例外ではない。


「おかしい、人間が率いているのではなかったのか?」

「あぁ……魔族の存在も報告されていたが、二人もいるだなんて聞いてないぜ……!」


情報では人間の男が新興勢力を率いているはずだった。だが、実際に出てきたのは二人の魔族ではないか──。

違和感を覚えながら、殆どの獣人はその身に叩きつけられる圧倒的な魔力と冷気を感じながら、二人を見つめるばかり。


──しかし……その中でも事情を知る一部の者たちは、なんとも言えぬ白けた表情でこの光景を見守っていた。


「おえぇー!見れば見るほど、本当に女にしか見えないのが腹立たしい……!誰か、私の目と記憶からこの光景を消し去ってちょうだい!」


ナーシャは見知った男の変貌ぶりに、本気で吐き気を催しているようだった。


「ゼファー様!あの氷上の女神のようなお方は一体……!?」

「よせ。女神などと口にするな……!いや、見目麗しいのは事実だが……むぅ」


興奮に沸き立つ鳥の獣人の部下たちを、ゼファーはこめかみを押さえながら頭痛をこらえるように嗜めていた。


「グレイファング様!あの魔族の女性は一体!?」

「うるさい。何も言うな。見るな。嗅ぐな」


グレイファングに至っては目を塞いで、何も見ないようにしている。


「ぐっ……事前に話に聞いてはいたが、あれの中身がアレだと思うと奇妙な感じがするな……」

「見た目はともかく、あの『おーっほっほ』って笑い方と、妙に芝居がかった話し方はなんなんだい?誰かの真似だとは聞いたけど……とんでもない変わり者もいたもんだねぇ」


イルデラとゼゼアラは、ただやれやれと肩をすくめるばかりである。

──ただ一人、事情を知らされていないフェンブレだけが。


「な、なんと美しいお方だ……!うおお、もしやこのフェンブレの運命の相手とは、あのお方……!?そうだ、そうに違いない!凶暴なキツネの獣人の女なんて、ワシから願い下げだ!」


瞳にきらきらとハートを浮かべ、かつての威厳など欠片もない様子でキツネの尻尾をちぎれんばかりにぶんぶんと振っていた。

そんな、三者三様の反応が入り乱れる中──メーラの傍らに立つ魔族の女が、再び甲高い声で叫んだ。


「静まりなさい!その可愛らしい獣の耳をかっぽじって、わたくしの言葉をよぉくお聞きなさいな!」


そして、女優のような艶やかな仕草で、くねくねと身を捩りながら彼女は高らかに自らの名を告げた。


「わたくしの名はグラシエラ!魔族の姫君、メーラ様の忠実なる騎士にして、魔族軍を率いる将軍の一人でございますわ!」


グラシエラが自らの名と、『魔族の姫』という聞き慣れない単語を放った瞬間、戦場はそれまで以上の喧騒に包まれた。

その横で、メーラが「その変な動きやめて!」と小声で懇願していたが、その声は誰の耳に届くこともなく喧騒の中へと消えていった。


「ま、魔族の姫?何だ、それは?」

「将軍だと……?魔族に?」


大草原に、奴隷制度は存在しない。だが、獣人たちの間には魔族とは力も誇りもなく、奴隷にされるだけの哀れな種族であるという共通認識が深く根付いていた。

そんな種族の将軍……ましてや姫君などと、俄に信じられるはずもなかった。


獣人たちの様々な反応を見渡し、魔族の女──グラシエラは満足げにこくりと頷いた。

そして傍らのメーラへと顔を寄せ、耳元でひそひそと囁く。その声色は先程までの甲高い女のものとは全く違う、聞き慣れた青年のものだった。


「うん、効果はてきめんみたいだね。皆、謎の魔族美少女コンビの登場に釘付けだ。まぁ、グラシエラが『少女』に含まれるのかはさておき。──さぁ、メーラ姫もそろそろ格好良く名乗りを上げたらどうだい?」

「アド……!もういい加減、その変身魔法やめて!」


そう──この長身の女魔族グラシエラこそ、アドリアンが変身魔法で化けた仮の姿に他ならなかった。

アドリアンが、わざわざ魔族の女将軍などという面倒な姿を選んだのには理由がある。大草原の獣人が一堂に会するこの場で、魔族という種族の存在感を彼らの脳裏に強く焼き付けるためだ。

この地に奴隷制度はなくとも魔族が侮りと憐憫の対象であることは事実。その認識をここで覆す必要があった。


今のメーラはアドリアンから潤沢な魔力を供給され、凄まじい力を秘めている。

だが、その力のほとんどは癒しに費やされ、戦いのための魔力を彼女はまだ十全に使いこなせてはいなかった。

故にアドリアン自身が魔族の将軍に成り代わり圧倒的な力を見せつけることで、獣人たちに衝撃を与える……それが彼の狙いであった。


ちなみに、数多いる魔族の中からグラシエラを選んだのは……アドリアンの前世の記憶の中で、彼女の尊大な物腰や芝居がかった喋り方が、妙に印象的で面白かったから、というしょうもない理由である。


「くっ……眩暈が……なんなんだ、あの三文芝居は……」


喧騒に包まれる戦場でアカネは事情を知る者として茶番を見つめていた。

リガルオン陣営の中で、唯一アドリアンの策を知る獣人。

だからこそ、アドリアンの優美な外見と芝居がかった振る舞いの合わせ技に耐えきれずにいた。彼女の身体と尻尾は、ふらふらと頼りなく揺れている。


「おい、アカネ!しっかりしろ!あの魔族の女の冷気にやられたのか!?ちっ、見かけが良いからっていい気になりやがって……!」

「あぁ~……確かに妖艶な美女だがぁ、気を強く持てよぉ!見かけに惑わされるなよぉ!」


傍らにいたオルオーンとボルドが、本気でアカネを心配して声を掛ける。


(──違う!私がふらついているのは、冷気や魔力のせいではない!アドリアンに対して『美人』だの『妖艶』だのと、貴様たちが真顔で評する反応が、あまりに気持ち悪くて吐き気がするだけだ!大体、既に見た目に惑わされている貴様らが『惑わされるな』などと、どの口で言うか!)


……というツッコミの嵐が、アカネの胸中で荒れ狂っていた。

だが、言えない。ここで全てを暴露してしまえば、アドリアンの計画が台無しになるからだ……。


「だ、大丈夫だ……少し、胸がむかむかと……うっ……」


アカネが本気で口元を押さえた、その時だった。


「──皆様」


凛とした、少女の声が戦場に響き渡った。


グラシエラの甲高い声とは対照的な穏やかで、凛として澄み渡る声が魔法によって増幅され戦場全体へと響き渡った。

美公爵シェーンヴェルより贈られた帝国の美の粋を集めたかのようなドレス。それを纏うメーラの姿には美しいというだけではない、不思議な威厳が満ちていた。

獣人たちはただならぬ気配に何かを感じ取ったのか、自然と口を噤み彼女の言葉に耳を澄ませる。


「私は魔族の姫メーラと申します。訳あって今は『みんな仲良し!平和大好き!』同盟軍の皆様と共に、フェルシル大草原を旅しております」


その声は不思議と荒んだ獣人たちの胸にすっと染み渡っていく。

あれほど殺気立っていた両軍の兵士たちが、知らず武器を下ろし、大人しく演説に聞き入っていた。


「私が大草原を訪れた目的……それは元々、来るべき脅威『シャドリオス』に対抗すべく、皆様フェルシル部族連合と我ら魔族の国とで連合を組むためでありました。ですが……この地で私が見たのは、あまりに悲しい現実でした。かつての秩序は失われ、力なき方々が虐げられ、涙を流している光景だったのです」


静まり返る戦場。誰もがメーラの言葉に聞き入っている。


「──それを見て、私は決意したのです。我が忠実なる騎士たちと共に、大草原をかつての誰もが誇りを持って生きていた秩序ある姿へと戻そう、と。幸いにも私の考えに共感してくださった多くの獣人の方々がこうして力を貸してくださいました。そうして私たちはここまで来たのです。ですが……もうこれ以上の争いは望みません。誰かが傷つき、血を流す光景は見たくないのです」


そして、メーラはこの場にいる獣人たちに宣言するように大きく手を広げ、言ったのだ。


「ですから私は今日、皆様と戦うためにここに来たのではありません。互いを理解し手を取り合うために……私は参ったのです!」


メーラの言葉に戦場が水を打ったように静まり返る。

誰もが彼女の言葉がただの理想論に過ぎないと分かっていた。だが、その理想が乾いた心に不思議と染み渡るのを感じていた。


そして誰かが何かを口にしかけた、その時だった。


「──魔族の姫君よ。大草原の深奥へ、よくぞ参られた」


腹の底に響くような、重厚な声が戦場に響き渡った。


リガルオンの陣の中心から、一人の大男が、ゆっくりと確かな足取りで歩みを進めてくる。

拡声の魔法など使っていない。だというのに、その声は数万の軍勢の耳にはっきりと届いていた。周囲の獣人たちが畏敬の念を込めて、さっと道を開き深くこうべを垂れる。


「姫君が、尊き名を示された。ならば、俺もまた名乗りを返すのが礼儀であろう」


陽光を浴びて輝く、黄金の獅子の鬣を思わせる豊かな長髪。その身から溢れ出すのは、大草原の全てを統べる比類なき王者の覇気。

レオニスは顎を僅かに上げ、大地を震わせるかのような声で高らかに名乗りを上げた。


「我が名はレオニス!大草原の覇者、リガルオンを統べる獅子が一族の長である!」


獅子の獣人──彼こそが、リガルオンを統べる長、レオニスであった。


「……」


そして王者の如き堂々たる姿を見つめるグラシエラに扮した──アドリアン。

彼は白銀の角を持つ女の貌の奥で、そっと目を細めた。遠い昔に別れた旧友の、変わらぬ姿を懐かしむかのように。


英雄は、ただ静かにかつての友を見据えていた。


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