第百八十三話
大草原を雄大に流れる大河。普段ならば、それは万物の生命を育む恵みの川だ。
だが──今この時に限り、その流れは二つの巨大な軍勢を分かつ血と鉄の境界線と化していた。
川の一方に陣取るのは、大草原の覇者リガルオンを盟主と仰ぐ軍勢。
フォクシアラ、ウルグリッド、タウロス……六大部族の内、三つの中核が率いる軍は配下部族に至るまで一糸乱れぬ統制が取れた、精強無比の軍勢。
「あれが、噂の新興勢力か」
「クソ……マジでヴォルガルドにアクィラント、おまけにセルペントスまでいやがるじゃねぇか!」
そんなリガルオンに付き従う兵たちの目に映るのは、川を挟んだ対岸に布陣する混沌の軍勢。
ヴォルガルド、アクィラント、セルペントスの三部族が揃い踏み、さらにはパンテラ、リノケロス、そしてルミナヴォレンといった、かつて敵対していたはずの大部族までもが垣根なく集っている。
多種多様な獣人たちの部族旗が風を受けて入り乱れる威容は、対峙するリガルオン軍の兵士たちに得体の知れない圧迫感を与えていた。
だが、対岸に陣取る『みんな仲良し!平和大好き!』同盟の者たちもまた、リガルオンが率いる軍勢を見て慄いていた。
「あれが、リガルオンの軍勢か」
「ああ……間近で見ると、噂以上の威圧感だ」
対岸で風に翻る、獅子の紋章が描かれた黄金の旗。
あれこそが永きに渡り大草原を統べてきた、絶対的な支配者の証。
そして、中央に微動だにせず佇む獅子の獣人兵たち。一兵卒に至るまで一騎当千と謳われる獅子の一族はそこにいるだけで比類なき王者の風格を漂わせていた。
「レオニス様が、ついに動かれたぞ……!」
「者ども、鬨の声を上げよ!侵略者を駆逐し、我らが大草原を救うは今ぞ!」
次の瞬間、獅子の一族から放たれた獰猛な咆哮が大気を震わせた。川を越え対岸にまで届いた凄まじい殺気は、同盟軍の兵士たちの肌を粟立たせる。
味方を鼓舞し、敵を恐怖に陥れる獅子の軍勢。それはこの大草原のみならず、世界全体を見渡しても、最強の一角と呼ぶにふさわしい威容であった。
そんな世界最強とも謳われる軍勢を前にして『みんな仲良し!平和大好き!』同盟の主だった族長たちは、三者三様の反応を示していた。
「遂に、ここまで来たか」
「こうして見ると、パンテラとリノケロスの小競り合いなんて、可愛らしいもんだったねぇ」
「あぁ……あの時はまさか、こうして共に獅子の軍勢と対峙することになるとは思いもしなかったが」
ゼゼアラとイルデラは、川向こうから叩きつけられる獅子の殺気を全身に浴びながらも不敵な笑みを崩さない 。
──そして、そんな二大族長のすぐ傍らでは。
「ぐわっははは!ワシがおれば、リガルオンの古臭い獅子どもなど一捻りよ!さぁ、かかってこい!」
かつてのルミナヴォレン族長、でっぷりと肥え太ったフェンブレが巨大な槍をぶんぶんと振り回しながら、高らかに吠えている 。
「おい見ろよ、フェンブレ元族長。やけに自信満々じゃねぇか」
「なんでも、前の戦でモルどのを庇った功績とやらで罪を完全に許されたらしい。しかもヴォルガルドやらの大物たちが後ろ盾になったからな。その途端これだ。分かりやすい奴だよ、全く……」
その醜態を、元部下であるルミナヴォレンのキツネたちが、ひそひそと囁き合いながら指さしていた。
そして同盟に加わった三部族の長たちもまた、かつて王と仰いだリガルオンの軍勢を前に一歩も引かぬ堂々たる陣構えを見せていた。
「レオニス様……必ずや貴方と……そして大草原を救ってみせる」
精強なる狼の獣人、ヴォルガルドの軍勢を率いる隻眼の族長グレイファング。
彼は固く握った拳を胸に当て、対岸の獅子の軍勢をその隻眼で鋭く睨みつけた。
「よき風だ。全てを終わらせ、そして……全てを始めるための風が吹いている」
その遥か上空では鷲の獣人アクィラントの軍勢が、風を掴んで翼を広げている。
族長ゼファーは眼下に広がる両軍の対峙を静かに見下ろしながら呟いた。彼の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。
「さぁー!みんな、行くわよ!セルペントスの力を見せつけてやろうじゃないの!」
「しかしナーシャ様。我々は伏兵として潜む方が良いのでは?」
「私もそう言ったんだけど、アドリアンが頑なに反対したの。まぁ、今回の戦いじゃ伏兵なんていらないみたいだし、いいけどさ」
蛇の獣人セルペントスの陣営では、族長ナーシャが優雅な仕草で七色の尾をしならせながら、快活に兵たちを鼓舞している。
かつて道を違え敵対した三部族。だが今、彼らは背中を預け合う仲間として同じ旗の下に立っている。
その事実が寄せ集めであったはずの同盟軍の士気を、何よりも強く熱く燃え上がらせていた。
睨み合う獅子の軍勢と混沌の軍勢。だが、猛る闘争本能を剥き出しにしながらも、両軍はすぐには激突しない。
この場には大草原に生きる獣人の戦士、そのほぼ全てが集結しているのだ。伝統と誇りを踏み躙るような真似をすれば、戦士としての名誉は瞬く間に地に落ちるだろう。
地を埋め尽くす大軍勢同士の対峙だからこそ、この場では古来より伝わる伝統に則った振る舞いが求められる。
そして、その伝統こそが『名乗り』。戦を前に、互いの部族と個人の名誉を高らかに示すもう一つの戦場である。
「ちっ……連中も、中々威勢がいいじゃねぇか。こっちも負けてられねぇな」
タウロス大部族の若き族長、オルオーンが、肩に担いだ巨大な戦斧を揺らしながら陣幕から一歩前へ出た。その歩みは若さに似合わぬ自信に満ち、彼がただの牛の獣人ではないことを雄弁に物語っていた。
「オルオーンよぉ、血気盛んなのは結構だがぁ……一人での突出は許さんぞぉ~」
「そうだ。貴様はすぐに頭に血が上る、ただの脳筋牛だからな」
巨体を緩慢に揺らしながらウルグリッド族長ボルドが、そしてその横ではアカネが優雅な足取りで歩みを進める。
「はっ。じゃあ後ろで怯えてた方がいいってのか?馬鹿言ってんじゃねぇよ」
オルオーンは合流した二人と共に、獰猛な笑みを浮かべて対岸の軍勢を見据えた。
闘争心を隠そうともしない猛者たちの群れ。あれを前にして昂ぶらぬ方がどうかしている。
そして、それは対岸の軍勢も同じであった。混沌とした軍勢の中から、名乗りを上げるべく数人の獣人が前へと進み出てくる。
その中にはグレイファング、ゼファー、ナーシャ……以前に同じ盟主の下で戦っていたはずの、見知った顔があった。
「……しっかし、信じられねぇ。あいつらが、リガルオン以外の下に付くなんてよ。それも得体の知れん人間の、な」
オルオーンは、川向こうのかつての同胞たちを見渡し侮蔑の色を隠そうともせずに吐き捨てた。
「一体、何があったんだぁ……?」
ボルドもまた、太い眉をひそめ怪訝な表情を浮かべている。
「……」
だが、アカネだけは違った。彼女は何も言わず何かを深く思うように、じっと対岸の者たちを見つめている。
その表情は怒りでも侮蔑でも、そして驚きですらなかった。それは全てを知っているかのような思慮深い表情だ。
「まぁ、いい。ぐだぐだしていても始まらん。俺が一番に名乗りを上げてやる!川が邪魔くせぇが……そんなもん関係ねぇ!」
オルオーンが、威勢よく一歩前へ踏み出した。
──まさにその時だった。
対岸の陣営から、それまでとは比較にならぬほどの膨大な魔力が、奔流となって放たれた。
それは、大気そのものを凍てつかせ、肌を針で刺すような絶対零度の冷気。戦場の熱狂が、一瞬にして凍り付いた。
「な、なんだぁ……!?この寒気は……!」
ボルドが、屈強な巨躯をぶるりと震わせる。
凄まじい冷気は、戦場全体を支配するほどの強大な魔力の顕現であった。そしてリガルオン軍のみならず、対岸の同盟軍の兵士たちも等しくざわめき始める。
「な、何が起きてるんだ……!?」
「うぅ……さ、寒い!」
ざわめきが両軍に広がる中、オルオーンは眉をひそめた。
不穏な気配は感じる。だが、対岸の敵軍も明らかに同じように困惑しているではないか。
「どういうことだ?奴らの仕業じゃねぇのか……?」
「うぅむ……敵も味方も、皆戸惑っているようだぞぉ」
オルオーンとボルドが顔を見合わせた、その時。
それまで黙していたアカネが、ぽつりと呟いた。
「──二人とも。来るぞ」
「なに……?」
アカネの警告に、オルオーンとボルドが咄嗟に身構え全神経を研ぎ澄ませる。
だが、異変に最初に気付いたのは後方に控えていた一人の獣人兵だった。
「み、見ろ……!川が……!」
その指さす先、両軍を隔てていたはずの大河が──凍てついていた。
川岸から生き物のように氷が侵食していく。轟々と音を立てていたはずの流れは一瞬で音を失い、分厚く燦燦とした輝きを放つ氷の大地へと姿を変貌させてしまったのだ。
「か、川が凍っただと……!?」
「馬鹿な!ありえん、こんな馬鹿げたことが……!」
自然の摂理そのものを、嘲笑うかのように捻じ曲げる絶大な魔法の行使。
オルオーンを含む歴戦の獣人たちですら……規格外の力の顕現を前に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
──そして、静まり返った戦場に。
「おーっほっほっほっほ!!」
どこからともなく、甲高く、そして勝ち誇った一人の女の笑い声が響き渡った。
両軍、数万の獣人たちの視線が、とある一点へと注がれる。
そこには、二つの人影が立っていた。
「もふもふさんたち!これが私たち『魔族』の力ですわ!ちゃーんとその可愛らしい目で、見ていたかしら!?」
「……」
声の主は、天を衝くかのような長身の女。頭部からは、優美な曲線を描く白銀の角が生えている。……それは、間違いなく魔族の証。
そしてその女魔族の傍らには……紫色の髪を冷たい風になびかせ、豪華絢爛なドレスに身を包んだ見覚えのある少女の姿。
同じく、小さな角を生やした魔族の少女──メーラである。
「なんだ?あいつらは……」
「魔族……?」
突如として戦場に現れた『二人』の魔族。
両軍の全ての視線が、そんな奇妙な光景に釘付けになっていた。




