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第百八十二話

静まり返った屋敷の応接室。

ソファーにはアドリアン、メーラ、そしてアカネとカイの姉弟、四つの人影が腰を下ろしている。

だが──誰もが、何も話せないでいた。お喋りなはずのアドリアンですら腕を組んだまま黙りこくり、アカネの金色の尻尾がちろちろと揺れるのを眺めている有様だ。


やがて沈黙を破ったのはアカネだった。

彼女は優雅な仕草で足を組みなおすと、聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべ弟へと語り掛けた。


「カイ。先程の幻術、実に見事な出来栄えだったぞ。流石は私の弟──」

「──それは無理があるんじゃないか!?」


アカネがしたり顔でそう宣った瞬間、アドリアンが我慢ならんとばかりにツッコミを入れた。

あれだけこき下ろしておきながら、悪びれもせず堂々と弟を褒め称える。彼女の鉄面皮ぶりは、アドリアンをしてもスルー出来なかったのである。

だが、アカネはアドリアンのツッコミを鋭い眼光で一蹴した。


「う、うるさいっ!お前に指図される筋合いはない!それより、なぜカイがここにいる!?カイは今、ランドヴァールの街にいるはずだろうが!」

「いやぁ、たまには肉親に顔を見せてやるのも孝行かと思ってね。英雄としてのささやかな気遣いっていうか?それよりもさぁ、アカネ。君はもう少し、その物言いをどうにかした方がいいんじゃないか?人もキツネも、言葉遣いは大切だと思うけど」

「もしかしてお前、私の言葉遣いを注意するためだけにわざわざ大草原を荒らしてたのか?」


売り言葉に買い言葉。アカネが一方的にいきり立っているだけではあるが、応接室は二人の口論で喧々囂々たる有様だ。

メーラは二人の間でオロオロとするばかり。助けを求めようにも、当のカイは姉からの唐突な罵倒がよほど衝撃だったのか、ソファの上で魂が抜け落ちたようにぐったりとしている……。


「ふ、二人とも、どうか落ち着いてくださーい!」


アカネの怒声とアドリアンの軽口、そしてメーラの悲鳴が混ざり合い──フォクシアラの静かなる応接室は、かつてない混沌に包まれるのであった。




♢   ♢   ♢




「こほん。みっともないところを見せたな」


ようやく嵐が過ぎ去ったのか、アカネは気まずそうに頬を赤らめながら深くソファに座りなおした。

カイもまた我に返り、苦笑いを浮かべながら姉に向き直る。その背筋は、先程までとは違って堂々と伸びていた。


「それで、アカネ嬢。結局、カイ君の幻術の評価はどうだった?俺は素敵だと思うけどね」


アドリアンの軽口にアカネは再び眉を吊り上げたが、もはや何を言っても無駄だと悟ったのだろう。

深く、長い溜息を一つ吐いてから、静かに口を開いた。


「……先程の幻術が、未熟であったことは事実だ。決して褒められたものではない」


アカネの率直な言葉に、カイは「でしょうね」とでも言うように目を伏せて頷いた。


「──だが。フォクシアラとて、全ての者が幻術に長けているわけではない。腕力に優れた者は、術師を守る盾として前線に立ち、弓の才がある者は、後方から矢で援護する。……そして、誰よりも知恵の回る者が全てを指揮するのだ」

「姉上……」


アカネの優しい眼差しが、真っ直ぐに弟を射抜く。

聡明なカイには、姉が言わんとすることが痛いほど分かった。術の腕前ではない、別の道を示してくれている。

その上で、不器用ながらも必死に慰めようとしてくれていることも……。


「姉上。私が貴女に再び顔向けができるのは……故郷の地を踏むのは、もう少し己が立派になってからだと、そう思っておりました」


カイはどこか遠い目をして、アカネにそう語り掛けた。


「ご存知の通り、私には姉上のような幻術の才も、屈強な戦士のような力もありません。ですが……私は今、人間の街で己の信じる道を貫いております。決して平坦な道ではなく危険も伴いますが、レオン様や豪放な侯爵閣下も、私と共に歩んでくださっている」


カイの声に迷いはなかった。

彼は自嘲的な笑みを消し、真っ直ぐな強い光を宿した瞳で姉を見つめた。


「かつての私は、自らの無力さに絶望し道を踏み外しました。ですが今は違います。私は今、胸を張って正しいことをしていると、貴方の前で断言できるのです」


その言葉に、アカネは息を呑んだ。

目の前にいるのは、かつての里を逃げ出したひ弱な弟ではない。幾多の困難を乗り越え、自らの足で立つべき場所を見つけ、確固たる信念をその身に宿した一人の男の姿がそこにはあった。


アカネはそっと目を伏せた。脳裏に蘇るのは、幼い頃の弟の姿。いつも自分の後ろに隠れて、何かに怯えていた小さなキツネ。

それが今や、己の信念を掲げ、堂々と立つ一人の男になった。その成長が、アカネの胸を熱くする。


「そうか……お前はもう、そんなにも大きくなったんだな」


アカネは再び目を開けると、真っ直ぐにカイへと向き直った。


「よく戻ってきてくれた、カイ。幻術の才などなくとも、お前はもう誰にも恥じることのない一人前のフォクシアラの男だ」


その言葉に、カイは万感の思いを込めてゆっくりと目を閉じた。

聞きたかった言葉が、ようやく聞けた。──そう言わんばかりに、彼の金色の尻尾が嬉しそうにぱたぱたと揺れた。


姉と弟の間に、長年のわだかまりが氷解していくような温かな時間が流れる。


──そんな、感動的な空気を切り裂くように。


「……ところで」


アカネの金色の瞳が鋭く煌めいた。

彼女の視線の先には──感動的な姉弟の再会を邪魔すまいと、必死に手で口を覆っていた二人の男女、アドリアンとメーラへと注がれる。


「──説明。してくれるんだろうな?」


地を這うような低い声が、二人を射抜く。有無を言わせぬ迫力に、メーラはびくりと肩を震わせた。

だがアドリアンはどこ吹く風といった様子で、にこやかに微笑んでみせた。


「もちろんさ!」


アドリアンの軽薄な笑みに、アカネは溜息を漏らした。

カイの来訪は想定外だった。いや、そもそもこの男が目の前にいること自体が完全なる想定外だ。

だが、こうして姿を現したということは話し合う意思があるということなのだろう。


アカネは再び足を組みなおし、フォクシアラの族長としての威厳を取り戻すと言った。


「……では、聞かせてもらおうか。貴様たちの目的とやらをな」


カイの登場で完全に出鼻を挫かれた形だが、アカネとてアドリアンに会えば問いただすつもりでいたのだ。


──一体、何の目的で大草原を荒らし回っているのか。

──『みんな仲良し!平和大好き!』などという、ふざけた名前の軍勢はなんだ。

──そして、自分が今何をしているのか、正しく理解しているのか、と。


言いたいことも問い質したいことも山ほどある。

返答次第では、この場で刃を交えることも辞さない。アカネの覚悟は決まっていた。


フォクシアラの族長が放つ殺気すら含んだ鋭い圧が、応接室の空気をびりびりと震わせる。

だが、その重圧を真正面から受け止めてもなお、アドリアンは静かに笑うだけだった。


「そうだね。じゃあ、聞かせてあげよう。俺たちが大草原で、どんな道を歩んできたのかを──」


そしてアドリアンはゆっくりと語り始める。

それは脚色も戯言もない、ありのままの真実だった。


──大草原の片隅で、誰にも顧みられることのなかった廃棄集落を救い。

──力に驕る者たちに虐げられていた、弱き獣人たちを助け。パンテラやリノケロス、ルミナヴォレンいった大部族を正面から打ち破り。

──そして今や、六大部族のうち三つをその手に収め、大草原の大半を事実上の支配下に置いていること 。


そう。

彼が語ったのは失われた『秩序』を取り戻し、力なき者を救うための旅路の物語だった。


「……」


アカネは、初めこそ黙って話に耳を傾けていた。

だが話が進むにつれて、彼女の金色のキツネ耳と尻尾は、情の揺れを隠しきれぬようにせわしなく動き、時には悲しげに、時には悔しげにしゅんと垂れ下がるのだった。

弱きを助け、強きを挫く。それは紛れもなく、古き良き英雄の物語そのもの。


「俺はただ、皆を守りたいだけなんだ。失われた『秩序』を取り戻すことでね」


アドリアンは、あえて『秩序』という言葉を繰り返した。その単語がアカネの心を苛むと知っていてもなお。

何故なら、彼のこれまでの全ての行動がその一点において、微塵の揺らぎもなく一貫しているのだから。


「……アドリアン。お前は、何も分かっていない」


アカネが絞り出すような声でそう呟いた。

だが、その言葉に反応したのはアドリアンではなかった。弟のカイだった。


「姉上。アドリアン殿はご存知です。大草原の霊脈が尽きかけていることも、リガルオンが断腸の思いで決められた『間引き』のことも」

「っ!?」


カイはランドヴァール邸でその全てを聞かされていた。

だからこそ理解している。この大草原が緩やかな死という名の、抗いようのない絶望の淵に立たされていることを。


「……ならば、何故だ。何故、今更この大草原に秩序などというものを取り戻そうとする!?」


それまで保っていた冷静も優雅さも、全てが剥がれ落ちる。アカネは勢いよく立ち上がると、金色の尻尾をわなわなと震わせ叫んだ。

霊脈が尽き、大地が死にかけていることを知っているのならば。

全ての命を救うことはできず、未来のために同胞の数を減らすという断罪されて然るべき外道に手を染めている理由を分かっているのならば。


「何故──ッ!」


アカネの慟哭にも似た叫びにアドリアンもメーラも、そしてカイまでもが悲しげに瞳を伏せた。

この地に生きる者として、彼女の苦悩と絶望が、痛いほど理解できたからだ。


「アカネ。これを」


重い沈黙の中アドリアンがそっとアカネに一通の封書を差し出した。アカネがそれを視界に捉えた瞬間、彼女の瞳が驚愕に見開かれた。

そこに記されていたのは、ヴォルガルド、アクィラント、そしてセルペントス──六大部族に名を連ねる、三つの部族の紋章であったからだ。


「グレイファング、ゼファー、そしてナーシャ……三人の族長から、君宛ての手紙だ」

「あの者たちが……私に……?」


同じ六大部族の一角を担いながらリガルオンと共に『間引き』の道を選んだ自分たちとは袂を分かち、独自の道を歩み始めた三部族。

だが、アカネは彼らを責めるつもりも敵と見なすつもりもなかった。手法が違うだけで、結局は滅びゆく大草原を救いたいという想いは同じはず。


そんな、道を違えたはずの三人の族長からの手紙──。


アカネは震える手で封を切ると、そこに綴られた文面に目を通していく。

そこに記されていたのは、にわかには信じがたい衝撃的な内容であった。


「……っ!」


アドリアンは死にゆく霊脈を、身に宿した奇跡の力で復活させることができる──。

我ら三部族の長が、その事実を保証する、と。手紙には記されていた。


「馬鹿な」


アカネの膝から、がくりと力が抜けた。彼女は糸が切れた人形のように、ソファへと力なく崩れ落ちる。

信じられない言葉を聞いたかのように、金色のキツネ耳が困惑に揺れる


「霊脈を……治せるというのは本当なのか……」


消え入りそうな声で紡がれた問いに、アドリアンは言葉を返さず静かに頷いた。

そして、懐から一つの石を取り出すとテーブルの上に置いた。生命力そのものが結晶になったかのような、鮮やかな翠色の輝きを放つ美しい石だった。


「……」


アカネは息を呑んで石を見つめた。言葉はなくとも、一目で理解できた。

これこそが手紙に記されていた『霊脈の死骸』から、アドリアンが再生させたという奇跡の欠片なのだと。


「姉上も、アドリアン殿の御力はよくご存知のはず。かつて道を踏み外したこの私をいとも容易くねじ伏せた、英雄の力を」


カイの静かな言葉が、アカネの脳裏に過去の光景を蘇らせる。

見たこともない理を外れた大魔法。屈強な獣人の肉体を遥かに凌駕する、神技の如き体術。この男の戦いぶりは、まさしく英雄譚から抜け出したかのようなものだった。


「そう……か……」


だからこそ、分かってしまった。

ここにいる誰も、嘘を吐いてなどいないということが……。


アカネは、そっと目を閉じた。


金色の耳に聞こえてくるのは、この内乱で犠牲になった、名もなき同胞たちの断末魔の叫び。

キツネの尻尾で感じるのは、信じるもののために倒れていった仲間たちの血飛沫の熱。


静寂に包まれた応接室で、やがてアカネは懺悔するようにぽつりと呟いた。


「少し前、レオニス様は……ご自身のことを愚か者だと断じておられた」


唐突な言葉に、アドリアンの眉がぴくりと動く。

レオニス──それは、リガルオンを率いる獅子の指導者の名であることを、アドリアンはよく知っている。


「だが……真の愚か者は、レオニス様ではない。私を含む六大部族の長たちだ」


それは誰に聞かせるでもない、アカネ自身の独白だった。


「リガルオンを補佐し、大草原の未来を切り拓く六大部族……本来であれば我らは最後の最後まで、他の解決策を探し続けるべきだった。だというのに……レオニス様に全てを押し付け、挙句弱者を切り捨てるという短絡的な結論に飛びついた。……これを愚かと言わずして、何と呼ぶというのだ」


アカネの肩が力なく落ちた。

いつもの自信に満ちた優雅な族長の姿は、そこにはない。そこにいるのは自らの判断の誤りを悔い、未来を憂う一人の弱々しいキツネの女性がいるだけだった。


だが、そんな彼女の悔恨と絶望を吹き飛ばすかのように、アドリアンの力強い声が応接室に響き渡った。


「アカネ。今すべきことは、過去を悔やむことじゃない。後悔なら、全てが終わった後で俺も一緒にしよう。だけど、俺たちが今すべきことはただ一つ……これ以上、無駄な犠牲者を一人たりとも出さないことだ」


その言葉に、アカネの耳がぴくりと天を向いた。

そうだ。今、こうして落ち込んでいる暇などない。

この事実を──アドリアンが霊脈を治せるという唯一の希望を、一刻も早くレオニス様の元へ届け無益な争いを止めさせなければ。


「こ、こうしては、いられない……!今すぐ、レオニス様の元へこの話を……!」


アカネが顔を上げ、勢いよく立ち上がろうとした、その時だった。


「──待った!」


アドリアンが有無を言わせぬ声で、彼女を制した。


「この部屋へ来る道すがら、少し様子を窺わせてもらったけど……里のみんなは、今まさに戦へ向かうところ、といった様子だったね。リガルオンの軍勢は、もう集結を?」

「え?あ、あぁ……そうだ。既にレオニス様と合流済みの部族も多い。我らも準備が整い次第、後を追う手筈だった」

「ふむ……なるほど」


アカネの返答に、アドリアンはにやりと悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。


「兎にも角にも、すぐに出陣は取りやめさせ伝令を──」

「アカネ」


アカネの言葉は、アドリアンの静かな一言に遮られた。その瞳には、絶対的な確信の色が宿っている。

有無を言わせぬその圧に、アカネは思わず言葉を呑んだ。


「君とフォクシアラの軍勢は予定通り出陣し、リガルオンの元へ合流するんだ」

「──なに?」


唐突に放たれた理解不能な言葉。

怪訝な表情を浮かべるアカネに対して、アドリアンは全てを見通しているかのように言った。


「──実はとっておきの名案があってさ」


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