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第百八十話

ランドヴァール邸の応接室は、武門の棟梁たる公爵家の財力と威風を訪れる者に無言で語りかける空間であった。

華やかさと質実剛健さが奇妙な調和を見せる、不思議な空間だ。


そして、そんな荘厳な部屋のソファーに明らかに場違いな異物……もとい、英雄が一人。


「うーん、君の尻尾は本当にもふもふだなぁ。最近、色々なもふもふに触れてきたけど、やっぱりフォクシアラの毛並みは格別だ。ルミナヴォレンの連中は同じキツネでも筋肉質でゴワゴワしてるし、俺が近寄ると涙目で逃げるから、なかなか撫でさせてもらえなくてさぁ」

「はぁ」


アドリアンは、カイを自身の隣に座らせると、金色の尻尾を実に楽しそうに撫でながら、とめどなく言葉を紡いでいた。

そしてカイを挟んでアドリアンの反対側に座るのは、魔族の姫君メーラ。彼女もまた、うっとりとした恍惚の表情で、カイの大きなキツネ耳や尻尾の感触を確かめていた。


「わぁ……カイさんの尻尾、すっごくふわふわですね!これがフラッフィーってやつかな?」

「はぁ」


カイは、英雄と姫君に両側から挟まれ、自慢……というわけでもない尻尾や耳を好き放題に触られながら、困惑するばかり。


(──え?なに?なんなんだ、この状況は……?)


カイの思考は、完全に混乱の渦の中にあった。


──話は、ほんの数十分前に遡る。


レオン様から直々のご用命ということで、カイはこのランドヴァール邸にやってきた。

今後の街の方針についてだろうか、と当たりをつけ、ささやかな贈答品まで用意して、彼は少しばかり緊張しながらも門を潜る。


そして、応接室に通され扉を開けた、その瞬間だった。


『やぁ、カイ!久しぶりだな!』

『カイさん、久しぶりです!』


そこにいるはずのレオン様の姿はなく、代わりにいたのは、いるはずのない二人。


カイの人生を根底から変えた英雄と魔族の姫君が、なぜか我が家のように寛いで、にこやかにこちらへ手を振っていたのだ。

カイが状況を理解するよりも早く、二人は歓声を上げて駆け寄り感動の再会(?)とばかりに、こうして彼をもふもふと撫で回し始めたのである。


(な、なにがどうなってる……?)


疑問という疑問が思考の渦となって溢れ出すが、カイは身体を小さく縮こませるばかりで一つの言葉も発することができない。

恩人である二人に挟まれているという状況もさることながら、彼を完全に閉口させている原因は別にある。

それは、ソファの対面にどっしりと腰を下ろしている、存在──。


「がははは!アドリアン、テメェまさかキツネの尻尾を触るためだけに、はるばるここまで来たわけじゃねぇよなぁ!?」


ソファの対面には、山賊の頭目にしか見えない巨漢──ランドヴァール侯爵ガラフィドが座っていた。

彼はテーブルに置かれた高級そうなブランデーの瓶を水のように煽り、既に上機嫌に酔っているようだった。


(──何故、彼までここに!?というかなんでアドリアン殿とランドヴァール侯爵が、親しげに同席している!?)


カイは落ち着きなく視線と尻尾をきょろきょろと動かし、内心の激しい動揺を隠しきれずにいた。

そんなカイの様子を見かねたのか、ガラフィドの隣で窮屈そうにしていた華奢な美青年──レオンが、申し訳なさそうな表情でカイへと声を掛ける。


「カイさん、申し訳ありません。さぞや困惑されていることでしょう。……私もですが」

「レオン様も……でございますか?」


見れば、レオンもまた突然の来訪者たちに困惑を隠せないでいるようだった。

レオンの華奢な身体は、上機嫌な父の巨体にソファの端へと追いやられ、苦笑いを浮かべている。


「実は……カイさんをお呼び立てしたのは、アドリアン殿のご要望でして」

「アドリアン殿の?」


カイは怪訝な顔で、自らの隣に座る英雄へと視線を移す。

当のアドリアンはキツネの尻尾を撫で回すのに飽きたのか、今は酔っぱらった侯爵と何やら楽しげに言葉を交わしていた。


「聞いたぜ、アドリアン。テメェ、グロムガルド帝国で随分と名を上げたらしいじゃねぇか」

「あれ、知ってたの?意外と耳が早いんだな、ガラフィド」

「くだらん噂話にも耳を立てておかないと、侯爵って名の面倒な椅子は守れねぇのさ。割に合わん仕事だぜ、まったく」

「そうかぁ。俺がドワーフの姫君と婚約して、次期帝国の皇帝に内定したってことをもう知ってたのかぁ。いやぁ、驚かせようと思ってたのに」

「……俺が掴んでいる情報とは、少々違うようだが?」


そんな、真偽不明のでたらめが飛び交う会話のすぐ傍らでは──対照的に、穏やかな時間が流れていた。

メーラは一人のメイドと和やかに言葉を交わしている。彼女と同じ、魔族の角を持つメイド──イルマである。


「お久しゅうございます、姫様」

「わぁ……!イルマさん、お久しぶりです!メイド服、とっても可愛いですね!」

「姫様こそ、その華やかなドレス、大変よくお似合いでございますわ」


イルマは、かつてこの街の市場で奴隷として囚われていた魔族の女性だ。

アドリアンとメーラの活躍によって解放された後、今はレオン付きのメイドとしてこの邸宅に住み込みで働いている。


「アドリアン様と姫様のご活躍……噂は私の耳にも届いております。なんでも不思議な癒しの御力で多くの人々を救い『聖女』と呼ばれているとか……」

「せ、聖女は流石に恥ずかしいからやめてくださいっ!」


そんな微笑ましいやり取りを、アドリアリアンは穏やかな目で見守っていた。

やがて不意に悪戯っぽい笑みを浮かべると、ガラフィドの方を向いた。


「エルム平野の戦から帰ってきた時は、驚いただろ?こんなに可愛いメイドさんが出迎えてくれたんだからさ」

「そりゃあな。テメェが別れ際に言ってた『レオンと可愛いメイドさんが出迎えてくれる』の意味がようやく分かったぜ」


アドリアンの言葉に、ガラフィドは何かを思い出すように天井に視線を移す。

戦争から帰った後、ランドヴァール邸でガラフィドを出迎えたのは……魔族たちの使用人だった。


「帰ってみれば、屋敷は元奴隷の魔族だらけ。街の市場は大混乱。エルム平野で戦争の一つでもしていた方が、よほど楽だったかもな」

「いいじゃないか。魔族をこれだけ従えている侯爵閣下なんて、世界広しといえどキミくらいだよ。それに、カイと奴隷市場を潰すっていう面白い余興も楽しめたようだしね」


アドリアンはそこで一度言葉を切ると、悪戯っぽい笑みを消し、真摯な眼差しでカイへと向き直った。


「カイ。君には改めて礼を言おう。──奴隷たちを解放してくれて、ありがとう。……ただ、俺の記憶が正しければ、全ての奴隷を解放するのは困難だから、魔族だけ……なんて言ってたと思うんだけど?」


アドリアンの真っ直ぐな感謝の言葉と視線に、カイは一瞬たじろいだが、すぐにいつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。


「よく覚えていらっしゃいましたね。えぇ、その通り。……ただ、実はアドリアン殿が去られた後、奴隷商人たちから『魔族の奴隷を解放するのはおかしい』と、それはもう熱烈なご意見を奴隷商人たちから頂戴いたしまして」

「へぇ」

「そこで、私は考えたのです。確かに魔族を奴隷から解放するのはおかしい。なら、全種族の奴隷を解放してやればおかしくないんじゃないか?とね」


奴隷商人たちが言いたかったのは、もちろんそういう意味ではない。「魔族でも、それ以外のどんな種族だろうと、奴隷を解放するなんて許されない行為だ」……という意味だ。

だが、カイは彼らの偏狭な言い分を逆手に取った。彼らの言葉を拡大解釈し、ならば全ての奴隷を解放することで、『不公平』を是正しよう、と行動したのだ。

その言葉に、アドリアンは一瞬きょとんと目を丸くしたが──次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。バン、とカイの肩を力強く叩く。


「……素晴らしい!見事な解決策だ!流石はフォクシアラ!君は俺の見込んだ通りのキツネくんだよ!あはははは!」


アドリアンの快活な笑い声が応接室に響く中、ガラフィドが豪快に酒を呷りながら言った。


「そのキツネ、優男のような見かけによらず、中々肝が据わっててな。おかげで、街に巣食っていた害虫どもを駆除するのが捗ったぜ」


ガラフィドもまた、カイの実力を認めているのだ。

共に前線に立ち、利権に群がる亡者どもを薙ぎ払う中で、カイの華奢な身体に宿る確かな信念を、ガラフィドは肌で感じ取っていた。


ガラフィドは酒を一口呷ると、忌々しげに続けた。


「俺は奴隷制度そのものに興味はねぇ。だがな、てめぇの都合で他人の生きる誇りまで奪うような真似は反吐が出る。だから今はゴミ共を掃除出来ていい気分だぜ」


そう、彼が許せなかったのは人の尊厳を踏みにじり、それを金に換えて肥え太る商人どもの浅ましさだったのだ。


「……それで?話は戻るがアドリアン。テメェ、一体全体この街へ何をしに来た?」


ガラフィドは瓶を置くと、それまでの酔いの気配を霧散させ、猛禽類のような鋭い瞳をアドリアンに向けた。

まさか本当に、キツネの尻尾の感触を確かめるためだけに、空を飛んできたわけではあるまい。


「私も気になります。突然、アドリアン殿とメーラ姫が空から舞い降りて来られた時は、心底驚きましたし、飛行の魔法まで会得されていたとは……しかし、それほどまでにお急ぎであった理由とは、一体?」


レオンは、つい数時間前の出来事を思い出していた。

朝、執務室で政務に勤しんでいると、普段は冷静沈着なメイドのイルマが血相を変えて部屋へと転がり込んできたのだ。


『レ、レオン様!アドリアン様と姫様が、そ、そ、空を飛んで!』


支離滅裂な言葉にレオンが首を傾げた時だった。こんこんと、執務室の窓ガラスを叩く音が響いた。

視線を向ければ、そこにはメーラ姫を軽々と抱きかかえたアドリアンが、宙に浮かんだままにこやかに手を振っているではないか。

レオンの執務室は屋敷の三階にあるというのに……。


これには、いかに冷静なレオンとて驚きを禁じ得ず、英雄と姫君を急遽迎え入れることになった。そして、ランドヴァール邸は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

騒ぎを聞きつけた当主ガラフィドも、アドリアンとの再会を喜ぶや否や(最初は何故か怒っていたが)隠していた秘蔵の酒を引っ張り出し、今しがたの談笑に至るというわけだ。


そして、その最中にアドリアンがレオンを通してカイを呼びつけた。

それが、事のあらましであった。


「何をしに来たか、かぁ。それを理解してもらうためには、ちょっと長い話になるんだけど……聞きたい?」

「もったいぶるな。さっさと本題を言え」


アドリアンの芝居がかった口ぶりに、ガラフィドは心底呆れたという顔で酒を呷った。


 「へぇ~!そんなに俺の英雄譚が聞きたいのかぁ!いやはや、君たちも物好きだなぁ。……よろしい、そこまで言うなら、特別に話してあげようかな!」


アドリアンは一つ咳払いをすると、わざとらしく芝居がかった動作で立ち上がり、両手を大きく広げた。


「さて、諸君!これより語られるは、涙と感動のスペクタクル!魔族の姫君兼聖女メーラ様と、お供の騎士・英雄アドリアンによる、波乱万丈・救世の旅の物語!」


その大仰な口上に、レオンとイルマはくすくすと笑いを漏らし、メーラは「聖女はやめて!」と頬を赤らめて俯く。

対照的に、カイとガラフィドは。やれやれとでも言いたげな呆れ顔で、アドリアンの話の始まりを待っていた。


「……まぁ、酒の肴にはなるか」


ガラフィドはそう呟いて酒を煽った。

ドワーフ帝国での顛末はおおよそ聞き及んでいるが、この男の話は半分以上が大袈裟だ。そう割り切って聞くのが丁度いい。


「まずガラフィドと別れた後の、グロムガルド帝国での話から始めようかな──」




♢   ♢   ♢




「──てなわけで、今はここフェルシル大草原を絶賛侵攻中、というわけ!いやぁ、帝国での揉め事も中々のものだったけど、血気盛んなもふもふさんたち相手のお悩み相談は、輪をかけて大変でねぇ」


アドリアンが、全ての冒険を語り終えた大英雄さながらの、晴れやかな笑みを浮かべて話を締めくくる。

だが、メーラを除く全員が真顔のまま瞬きを繰り返し、応接室には静寂だけが広がっていた。


「──おい、待て。今のはどこまでが真実で、どこからがテメェの妄想だ?」


最初に沈黙を破ったのは、こめかみを押さえ、頭痛をこらえるような仕草のガラフィドだった。

その問いに答えたのは、アドリアンではなく隣に座るメーラだった。


「えっと……残念ながら、ほぼ全て本当のことなんです……」


アドリアンの口から出たのなら一笑に付せただろう。だが、この誠実な魔族の姫君が言うのなら、それは紛れもない事実なのだ。

それを聞いたガラフィドは、天を仰いで長大な溜息を吐き、額にじっとりと脂汗を滲ませた。


──シャドリオスという未知の脅威から、大帝国を救い。

──大草原では内乱状態にあったフェルシル部族連合を、あれよあれよという間に次々と制圧。

──そして今や、大半の部族を服従させ、完全制圧まであと一歩手前。


「……アドリアン。テメェの次の目標は世界征服あたりか?ずいぶんと、手際の良いこった」


ガラフィドは、もはや笑うしかないとでも言うように、引きつった笑みを浮かべて言った。

フェルシル部族連合といえば、このアルヴェリア王国が総力を挙げても、容易には手出しできぬ強大な勢力のはず。それを、まるで「少し散歩に」とでも言うような軽い口調で、大半を制圧したなどと……。

信じられるはずもなかった。だが、信じる以外にない……。


「うーん、世界征服はまだ早いかな。メーラ姫がその気になったら付き合うのもやぶさかじゃないけど……生憎と今は乗り気じゃないみたいだし」


アドリアンは、やれやれと肩をすくめながら言った。


「レ、レオン様……ただ今のお話は……」

「うん……決して、誰にも口外しないように」


イルマとレオンは、冷や汗を流しながらも即座に理解していた。

今しがた耳にした内容は、王国と部族連合の国家間の関係に関わる、重大な国家機密であると。


そして、フェルシル大草原と浅からぬ因縁を持つ、もう一人の当事者であるカイはというと……。


「……」


彼は金色のキツネ耳をぴくぴくと小刻みに震わせながら、何事か深く思案に耽っていた。


(そうか……近頃、姉上の文のやり取りが滞っていたのは、大草原で内乱が起きていたからか……)


カイは、フォクシアラの族長である姉アカネと、定期的に手紙を交わしていた。だが、ある時を境にぷっつりと、その返信が途絶えていたのだ。

多忙な姉のことだ、何かあったのだろうとさして気にも留めていなかったが……アドリアンの話が疑問を氷解させた。


「いやぁ、ヴォルガルドもアクィラントもセルペントスも、なかなかしぶとくてね。だが、俺の手にかかればちょちょいのちょい!今じゃみんな、俺にメロメロでね!特に、セルペントスの女王様なんて俺のことが好きすぎて、奇襲で暗殺しようとするくらいなんだよ」

「そ、そうですか……」


アドリアンの口からこともなげに飛び出した三つの部族名。

そのいずれもが、フォクシアラに匹敵する大部族だ。それを聞いて、カイの背筋を冷たい汗が伝った。


(あの大部族たちを、赤子の手をひねるように制圧し、服従させただって……?やはりこの男、尋常じゃない……!しかもこれから大草原の覇者リガルオンにまで挑む!?尋常どころか、正気の沙汰とは思えない!)


カイは、胸中に渦巻く嫌な予感を抑え込みながら、努めて冷静に問いかけた。


「……と、ところでアドリアン殿。その壮大なお話と、僕をお呼びになったことには、何か関連が?」


本当は聞きたくない。関わりたくない。


だが……


聞かねばならない。


恐らくはフォクシアラに関係する話だろうし、フォクシアラの長である姉は……アカネは大切な家族なのだから。

カイは不安に揺れる金色の尻尾を必死に抑えつけながら、アドリアンの言葉を待った。


やがてアドリアンは、満面の、実に楽しそうな笑みを浮かべて口を開いた。


「これから君の故郷であるフォクシアラと、内密に接触しようと思うんだ。ただ……今の彼女たちは、かなり殺気立っているだろうからね。俺の姿を見た途端、問答無用で襲いかかってくるかもしれないんだよなぁ」


その瞬間、カイの尻尾がぴくりと揺れた。

これから彼が何を言い出すか、聡いカイは気付いてしまったのだ……。


「……あ!失礼!私、この後の予定をすっかり失念しておりました。急ぎの用件でして……」

「──だからさ!」


カイがすっと腰を浮かせ、この場から逃亡を図ろうとした、その時だった。

席を立とうとしたカイの尻尾を、アドリアンの手が万力のような力でがっしりと掴んだ。


「可愛い弟が一緒にいれば、お姉さんも少しは話を聞いてくれるだろう?頑固なキツネさんも、きっと素直になるさ!」


アドリアンは、逃げ道を失ったカイに向かって、太陽のように明るい笑顔で言い放った。


「──というわけで、カイ。お姉さんに会いに、一緒に大草原へ行こう!」


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