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第百七十九話

──アルヴェリア王国に存在する、ランドヴァール侯爵の都。


石畳で舗装された大通りは、絶え間なく人々で賑わい、活気に満ち溢れていた。

行き交う人々の陽気な話し声、露店商の威勢の良い呼び込み、そして遠くから聞こえてくる鍛冶場のリズミカルな槌音──それら全てが混ざり合い、街全体に心地よい喧騒を生み出している。


この地を統治するのは、王国でも屈指の武門として名高いランドヴァール侯爵家。

軍事的な影響力は王国内外に広く知れ渡り、その名を聞けば誰もが屈強な騎士団と、歴戦の侯爵の姿を思い浮かべるほどであった。


しかし……街を包む空気は、そのような武威とは裏腹に、驚くほど穏やかで平和そのものだった。

ランドヴァールの強大な力が外部からの脅威を退ける揺るぎない盾となり、ここに住まう人々の平穏な暮らしを保障しているのだ。


だが、それだけではない。


──この街に奴隷が殆どいないという事実もまた、穏やかな空気を生み出していたのだ。


人間という種族を神聖視するアルヴェリア王国では、異種族を奴隷として使役することが半ば国是として推奨されている。

事実、王国の殆どの領地において獣人やエルフといった異種族は、所有物として扱われるのが常であった。


しかしそんな国にあって、ランドヴァールの街は異質だった。

大通りではドワーフが営む武具屋の前で人間の騎士が真剣に槍を吟味し、優美なエルフの女性が編んだ繊細な刺繍が施された布を、人間の貴婦人が感嘆の声を漏らしながら手に取っている。

彼らの間にはまだ目に見えない種族間の垣根が存在するものの、そこに支配と隷属という一方的な関係性は見て取れない。誰もが一人の生活者として、街に息づいているのだ。


「ふぅむ……」


そして、そんな活気あふれる大通りを、一人の獣人がゆったりと歩いていた。

種族の特徴である大きな耳と、優雅に揺れるふさふさの尻尾を持つ、整った顔立ちのキツネの獣人の青年。

彼は満足げに細められた瞳で、人間と異種族が織りなす平和な光景を見渡していた。


「奴隷が一人もいないというのに、街はきちんと回っている。奴隷がいないと社会が成り立たないとか言ってる奴に、この光景を見せてやりたいね。……おっと、そりゃ過去の僕だったか」


かつてこの街に存在した、忌まわしき奴隷市場。その総督として、腐敗の全てをその目に焼き付けてきた男──カイ。

生まれ変わった街の姿に、彼の金色の尻尾が喜びを表すように、ぱたり、ぱたりと小気味よく揺れる。


「忌まわしき奴隷市場は跡形もなく消え去り、蛆虫のように湧いていた商人どもも一掃……やれやれ、少々手間のかかる大掃除だった」


カイの口から漏れた言葉には、隠しきれない歓喜の色が滲んでいた。

彼は英雄アドリアンと魔族の姫君メーラによって、命と魂を救われた青年だ。

過去の罪を清算し、この街から奴隷の虐待をなくしてみせる──そう、魔族の姫君に誓ったあの日から、はや数か月。

今、彼の目にはかつて語った理想以上の光景が広がっていた。

虐待をなくすどころか、奴隷そのものがいないのだ。


(姉上……見ていますか。私はようやく贖罪の道を、一歩だけ進むことができました)


いつか胸を張って姉に会う。

その日を夢見て、彼は戦い続けてきたのだ。


「まさか、たった数か月でこんな光景が拝めるとは。てっきり数年……いえ、十年はかかる面倒事かと思っていましたが」


カイはちらりと視線を上げた。

その先には、大通りの終着点に聳え立つ、一際巨大で豪奢な館が映る。あれこそがこの地を治めるランドヴァール侯爵の邸宅。

王都に本邸を構えながらも、侯爵自身はほとんどの時間をこの街で過ごしているという。


「侯爵閣下とレオン様が全面的に協力してくださらなければ、今頃どうなっていたことか。奴隷制度にしがみつく強欲な亡者どもを片付けるには、僕の力だけでは少々骨が折れましたからね。感謝の言葉も見つかりませんよ」


カイの脳裏に数か月前の、とある日の記憶が鮮明に蘇る……。

それは、彼が奴隷市場とそれに群がる商人たちの利権を解体すべく、一人闘争を続けていた頃のことだった。




♢   ♢   ♢




『くそ!叩いても刈っても、タケノコみたいに湧いて出てくる!抵抗も予想より激しい……!』


当時のカイは奴隷に関わる全ての利権を解体し、囚われた者たちを解放しようと動いていたが、既得権益にしがみつく者たちの抵抗は想像を絶するほど執拗だった。

一つの奴隷商館を潰せば、次の日には別の場所に新たな商館が建つ。市場の有力者たちが金で雇った荒くれ者を使い、カイの命を狙うことなど日常茶飯事であった。


(しかし、この奴隷の流れ……なにか妙だな?王国の中央に奴隷が流れるのは当然だが……エルフの国にも流れている……?おかしい、エルフの国は奴隷を禁止してるはずなのに)


違和感を覚えながらも、刺客に襲われる日々。

フォクシアラという幻術と謀略を得意とする大部族の出身であるカイだが、彼自身は落ちこぼれだ。

それでも、ありふれた人間の荒くれ者に後れを取るほど弱くはない。その日も、カイは襲い来る刺客たちを自慢の幻術で軽くいなしながら、奴隷解放のために街を奔走していたのだが……。


『はぁ……いつになったら街から奴隷をなくせることやら……』


市場にある建物の一室で、カイは荒い息を整えながら、思わず弱音をこぼした。


(……姉上ならこんな時、決して弱音など吐かないのだろうな)


脳裏に浮かぶのは気高く、誰よりも強かった姉の姿。

その姿を思うと、己の不甲斐なさに唇を噛み締める。だが、同時に心の奥底から力が湧いてくるのも確かだった。


そんな時であった。


突如、部屋の扉が轟音と共に木っ端微塵に砕け散り、残骸の中から一人の巨漢が姿を現したのだ。


『!?』

『カイ、ってのはテメェかぁ……?』


岩のように盛り上がった筋肉。あらゆる戦場を渡り歩いてきたことを物語る、凶悪な面構え。

カイは一瞬で悟った。この男は、いつもの荒くれ者とは格が違う。

奴隷商人どもが、己の懐を大きくはたいて雇ったであろう、手練れの傭兵……それも、とびきり厄介な手合いだと!


『う、うわぁぁぁーーっ!』


カイはなりふり構わず、目眩ましの幻術を放ち、同時に鋭く伸ばした爪で相手の喉笛を掻き切らんと飛びかかった。

だが──


『あぁん?何やってんだ?』


巨漢は指先一つで幻術を霧のように掻き消し、カイの爪は分厚い皮膚に阻まれ、一筋の傷を刻むことすらできなかった。


──なんだこの化け物!?


思考が追いつかぬうちに、カイは自慢の金色の尻尾を無造作に掴まれ、いとも容易く宙吊りにされてしまった。


『くっ……捕えて拷問でもするつもりか!?ふん、生憎僕は拷問に慣れてるんでね!お前たちみたいな卑劣な奴らには死んでも屈さないぞ!』

『はぁ?おい、俺は……』


その時だった。


『ここにいたか!衛兵、あいつだ!あの男が私の店を無茶苦茶にしおったのだ!』


騒々しい複数の足音と共に、甲高い声が廊下に響き渡る。見れば脂ぎった顔の奴隷商人が、カイと巨漢をまとめて指さしながら、街の衛兵たちを引き連れていた。


(今度はなんだ!?)


何が何やら理解できぬうちに、武装した衛兵たちが部屋へとなだれ込んできた。


『誰なんだ、神聖なる侯爵様の街で治安を乱す不届き者は……って、げっ!?』

『お、おい……あれ……』


しかし、部屋に踏み込んだ衛兵たちは、カイを宙づりにする巨漢の姿を認めるや否や、ぴたりと動きを止め、凍りついたように硬直してしまった。

顔からは瞬時に血の気が引き、額からは玉のような汗がだらだらと流れ落ちている。


『おい、おい!何を突っ立っておるか!早くとっ捕まえんか!』


動かぬ衛兵たちに、奴隷商人が苛立たしげに甲高い声を張り上げる。

カイが理解不能な状況に目を白黒させていると、頭上から巨漢の低い声が降ってきた。


『おい、カイとやら。あの脂ぎった男は奴隷商人か?』

『え?あ……あぁ。そうだ、この市場でも特にしつこい……ぶぎゃっ!?』


カイの言葉が終わるか終わらないかのうちに、巨漢は掴んでいた尻尾を無造作に手放した。為す術もなく、カイの身体は床へと叩きつけられる。

そして巨漢は、硬直したままの衛兵たちを睥睨し、地を這うような声で言い放った。


『──さて。お前たち。俺が誰だか分かるなら……誰を捕まえるべきか……分かるな?』


その言葉が魔法の呪文であったかのように、衛兵たちの身体を縛っていた金縛りを解いた。

彼らは雷に打たれたようにびくりと身体を震わせると、一糸乱れぬ動きで、巨漢に向かって完璧な敬礼を捧げたのだ。

敬礼を解いた衛兵たちは、そのまま流れるような動きで奴隷商人の元へ殺到し、両腕を背後にねじり上げた。


『なっ……!?お、おい!何をする……なぜ私を捕まえるんだ!?』

『黙れ、不敬者め!貴様、この御方がどなたか、分からんのか!?』

『この御方はな──』


衛兵の一人が、朗々と高らかにその名を告げた。


『この街の統治者、ランドヴァール侯ガラフィド様であらせられるぞ!』


その名を聞き、奴隷商人が大きく目を見開く。そして、床に転がったままのカイもまた、驚愕に金色の瞳を丸くし、キツネ耳をぺたりと頭に伏せた。

奴隷商人は、信じられぬとばかりに震える指で巨漢──ガラフィドを指さした。


『ラ、ランドヴァール……!?あの男が!?ただの山賊崩れの野盗にしか見え……ぶべらっ!!』


商人の不遜な言葉は、衛兵の一人が叩き込んだ拳によって、無様な悲鳴と共に中断された。

そしてカイもまた、殴り飛ばされた商人と全く同じことを考えていた。


(この男が……ランドヴァール侯!?ただの山賊崩れの野盗にしか見えないぞ!?)


驚きに、彼の尻尾がぱたぱたと床を打つ。

そんなカイの混乱をよそに、ガラフィドはやれやれとばかりに大きな溜息を一つ吐いた。


『俺の息子……レオンから、テメェからの話を聞いてな』

『レオン様から……?』


衛兵たちが抵抗する奴隷商人を引きずっていく中、ガラフィドは腕を組みながら、事の次第をカイに説明し始めた。


──どうか奴隷の解放に、父上の御力を貸してくださいませ。


レオンが、真摯な瞳でそう願い出たのだという。


その願いを聞き入れたガラフィドは、他の貴族たちとの力関係、そして何より奴隷制度を国是とする王国との軋轢を天秤にかけ、熟考を重ねた。

そして下した結論は……まずは自らの目が届くこの街から、忌まわしき奴隷制度を根絶やしにするというものであった。


だからこそ、こうして侯爵自らが先陣を切り、腐敗の温床たる奴隷市場の掃討に乗り出したのである。


『さぁ、テメェには働いてもらうぜ。キツネならネズミを狩るのは得意だろ───?』




♢   ♢   ♢




「あの時は肝を冷やしましたよ……まさか、彼がランドヴァール侯その人だったとは」


生まれ変わった街並みを眺めながら、カイはしみじみと独りごちた。


ランドヴァール侯自らが音頭を取ってからの展開は、正に怒涛の勢いであった。

街に巣食っていた奴隷商人たちは瞬く間に一掃され、捕らわれていた者たちは解放された。そうしてこの街は、名実共に『奴隷のいない街』へと生まれ変わったのだ。


そんなのどかな光景に穏やかな笑みを浮かべていたカイだったが、不意に首を傾げた。


「しかし……レオン様が私に直々の御用とは。一体、何事でしょうね」


どれだけ過去を清算しようと、己が裏社会の人間であった事実は消えない。

それ故に、カイはこれまでレオンと直接顔を合わせることを極力避けてきた。

……裏では連絡を取り合っていたが。


ランドヴァール公爵家の子息に妙な噂が立つのは、あまりに厄介だ。

だが、つい先ほどレオンからの使者を名乗る衛兵が訪れ、『至急、館に来られたし』との伝言を受けたのだ。

そんなこんなで、今こうして館へと続く大通りを歩いているのであった。


「まぁ、奴隷の撤廃も一段落しましたし、今後の街の方針について、といったところでしょうか」


カイはそう自らを納得させると、再び金色の尻尾を軽やかに揺らし、荘厳なランドヴァール邸へと歩を進める。

彼の視界には、人間と異種族たちが穏やかに暮らす、生まれ変わった街の光景が広がっていた。


──忌まわしき「大掃除」は、終わった。

それは、彼が犯した罪を償うためのほんの小さな一歩に過ぎない。


(これでようやく、未来のことを考えられる)


それは、いつか姉の前に誇りを持って立つという未来。

自らが犯した罪の重さを思えば、その日はまだ果てしなく遠い道のりの先にあるだろう。


だが、彼は心に誓う。

為すべきことは、まだ山ほどあるのだから。


そして、全てが終わった後こそ……故郷へと帰る。


今はただ、その日を夢見て。

カイは前を向き、一歩、また一歩と大通りを進む。

 

(罪を償った後……必ず、大草原の地を踏みにいきます。姉上──)


カイはその日が、まだずっと遠い先のことだと思っていた。


少なくともこの瞬間は……。


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