第百七十八話
霊脈——それはフェルシル大草原の地下深くに、今もなお流れ続ける巨大な生命エネルギーの川。
獣人たちが強靭な肉体を維持し、厳しい自然の中で生き続けることができるのも、全ては母なる大地の霊脈がもたらす恩恵のお陰であった。
だが、ある時を境に豊潤であったはずの流れは徐々に勢いを失い、淀み始めた。
それに呼応するかのように大草原の至る所で、霊脈のいわば「死骸」とも言える禍々しい黒い石が湧き出てきていたのだ。
それはかつて、ナーシャがアドリアンに語った、草原が抱える問題。
「……」
ゼファーは無言で、自らの手の中にある翠色の石を見つめていた。
小さな心臓であるかのように温かく、力強い生命の波動を内側から放ち続ける神秘の石。
これが霊脈の死骸だった、あの黒い石だというのか。
「アドリアン……それは……」
周囲が静寂に包まれる中。
ゼゼアラが呟くように言った。
「ああ、ようやく分かったよ、ゼゼアラ。君が頑なに、大草原で一体何が起こっているのかを、俺に話したがらなかった理由をね……」
全てを見透かしたかのような、アドリアンの言葉。
それにゼゼアラは、ぐっと唇を噛み締め、深く目を伏せた。若き黒豹の顔には、後悔と懺悔の表情が色濃く浮かんでいる。
いや、彼だけではない。グレイファングも。ゼファーも。そしてナーシャも。
美しい翠色の石が、自分たちが犯した許されざる「罪」そのものであるとでも、言うかのように。
皆一様に、顔を悲痛な色に染めていた。
「……なんだってんだ?その石っころが一体なんだって言うんだよ」
不可解な空気の中、リノケロス族長イルデラは状況を理解できずに、困惑の声を上げた。
よく見ると大部族の長の一部は、顔を俯かせ悲痛な色に染めている。
しかし大多数の族長たちは、イルデラと同じように一体何が起こっているのか理解できずに、首を不思議そうに傾げているばかりだ。
「……さて。もう隠し立てはできないみたいだから。この場で発表してしまおうか。……大草原が、こんなにも荒れ果ててしまった、本当の理由をね」
アドリアンはそう言うと、幕舎の中央へとゆっくりと歩みを進め始めた。
その言葉に、獣人たちの間に大きなざわめきが広がっていく。メーラとモルは異様な空気の変化を感じ取り、小さな身を竦ませていた。
やがて幕舎の中央に立ったアドリアンは、手に先ほどゼファーへと投げ渡した翠色の石とは対照的な、禍々しい「黒い石」を掲げてみせた。
「この黒い石。これは霊脈の、いわば『死骸』。君たち、もふもふさんたちがよくご存じの、大いなる霊脈だ」
——死骸。
幕舎の中のざわめきが、さらに大きくなっていく。
「ちょっと待てよアドリアン!死骸って……。それじゃ霊脈が枯渇したみてぇな言い方じゃねぇか!」
イルデラが信じられないという表情で叫ぶ。
その言葉にアドリアンは重々しく頷いた。先ほどまで飄々としているはずの顔には、今はもう深い影が差している。
「そうだよ、イルデラ。霊脈はもうすぐ完全に枯渇する。——つまり大草原は、もうすぐ死ぬんだ」
残酷な死の宣告。
今度こそ本当に、幕舎の中は水を打ったかのような完全な静寂に包まれた。
——間違いだ。
——英雄どのは、人間だから。大草原のことに、詳しくないから。きっと何か大きな勘違いをして、当てずっぽうを言っているだけなんだ。
その場にいる全ての獣人たちは、そう思いたかった。
だが、そんな儚い希望はすぐに打ち砕かれた。
グレイファングも、ゼファーも、ナーシャも、誰一人として、英雄の言葉を否定しない。
それどころか悲痛な表情でアドリアンの言葉が紛れもない「真実」であることを肯定してしまっているのだから。
「霊脈がこうなってしまった直接的な原因は、まだ分からない」
アドリアンは獣人たちの顔を一人一人見渡しながら、言葉を続けた。
「だけどもし。このまま霊脈が完全に枯渇してしまったら。大草原が、どうなっちゃうのか……。それは、みんながよく分かってるはずだ」
霊脈の枯渇。
それは母なる大草原の「死」そのものを意味する。
草木は生命力を失い枯れ果て、大地を潤す川は干上がり、やがてこの地はありとあらゆる生命が生きることのできない死の大地へと姿を変えるだろう。
その真実を、この地に生きる、全ての獣人たちは本能で理解していた。だからこそ彼らは、古来より大草原を流れる大いなる霊脈を、神として信奉してきたのだ。
「でも」
アドリアンは、一つ指を天へと立てた。
「大草原の崩壊を防ぐことができる方法が二つある。一つは……霊脈の不調の原因を根本から取り除き、再び元の元気な状態へと戻るのを待つ方法」
希望に満ちた言葉に、獣人たちの瞳に、一瞬だけ光が宿る。
だがアドリアンは「だけど——」と希望を打ち砕いた。
「残念ながら、その方法は失敗したみたいだね。リガルオンも色々手を尽くしたとは思うけど、何が原因でこうなってしまったのか分からないし、仮に見つけたとしても、もう手遅れだ」
獣人たちの肩ががくりと力なく落ちた。
そんな空気の中、アドリアンは言葉を続ける。
「そして、もう一つの方法は……」
そこで、アドリアンは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
残酷な真実を口にすることを、躊躇うかのように。
だが、彼は意を決したように口を開いた。
「霊脈は、大草原に生きる全ての獣人に等しく活力を分け与えてくれる。……だけど、もし。もし、恩恵を受けるべき獣人たちの『総数』そのものが減らすことが出来るのならば……霊脈は残り少ない力を分散させずに済んで、枯渇までの時間を稼ぐことができる……」
静かで、淡々とした言葉。
その本当の意味を、最初は誰もが理解できなかった。
先ほどまでのざわめきすらも完全に消え失せた悍ましいほどの静寂が、幕舎を支配する。
誰も、何も喋れない。
誰も、指一本動かせない。
イルデラでさえも、口を半開きのまま何も言うことができなくなっていた。
やがて——。
それまで黙って話を聞いていた、レフィーラが、華奢な身体をわなわなと小刻みに震わせて、叫んだ。
「う、嘘だよ……!だって、そんなの……!それじゃあ、まるで……!」
大草原でこれまで繰り広げられてきた、血で血を洗う多くの命が失われた同族同士の醜い争い。
その不可解な行動の意味。
それは——。
「——口減らし」
レフィーラの悲痛な叫びを引き継ぐかのように。
アドリアンが、その一言を紡いだ。
その瞬間。
黒豹の若き長ゼゼアラが全てを諦めたかのように、呟いた。
「……数年前から、霊脈は枯渇の一途を辿っていた。そして、霊脈の滅びが避けられぬと理解したのは最近だ。……その時に、リガルオンは秩序を完全に捨てることを決めた」
その告白を、グレイファングが悔恨に満ちた声で、引き継いだ。
「我らヴォルガルドは……大草原を守るために。あえて侵略を繰り返し、この騒乱を大きくしてきたのだ」
ナーシャもまた唇を強く噛み締めながら、続く。
「ヴォルガルドだけじゃないわ。セルペントスもアクィラントも。霊脈と、己の部族だけを守るため。他の部族を見捨て、見殺しにすることを選んだ」
二人の表情は、自らが選んだ道を進むという、確かな決意に満ちたものであった。
だが、その気高い表情の奥底には……決して隠し切ることのできない、自らが犯した罪の意識が深く刻み込まれている。
そして再びゼゼアラが、言った。
「そうして大草原の勢力は分割された。最後までリガルオンに付き従い、地獄絵図を傍観するだけの勢力と。『あえて』この騒乱を大きくし、戦火によって獣人の『命の総数』を減らそうとする、我らのような勢力に……」
つまり、大草原で今繰り広げられている騒乱は……。
獅子王リガルオンと、一部の大部族によって、意図的に引き起こされたものだったのである。
グレイファングが遠い目をして呟く。
「それから、我ら六大部族や大部族は騒乱を引き起こした。最初はまだ、ここまでは酷くはなかったが……」
その言葉を、ナーシャが引き継いだ。
「……でも、状況は悪くなる一方だった。こんなにも争いが激しくなったのは……アドリアン、アンタが大草原に来る少し前のことよ」
二人の言葉に、アドリアンは静かに頷いた。点と点が、線として繋がっていく。
彼がこの世界で『英雄』の記憶を取り戻してから、まだ一年も経っていない。だが、大草原の動乱は何年も前から静かに、しかし確実に始まっていたのだ。
(ザラコスが対シャドリオス同盟の話をフェルシル部族連合と締結した時には、まだ辛うじて部族連合という枠組みは存在していたんだな……)
そう、全てが崩壊し、秩序が混沌へと変わったのはその後だ。
彼らが最後の手段に踏み切り、そして血で血を洗う騒乱が本格化したのは、最近のこと。
「……中には何も知らぬまま、混乱に乗じて自らの勢力を広げようとしていただけの、欲深いだけの奴らもいたがな」
ゼゼアラはそう言うと幕舎の隅に控えていた元ルミナヴォレン族長・フェンブレへと鋭い視線を向けた。
フェンブレはその視線に身を震わせると、小さな子猫のように尻尾を身に巻き付け、隅の方で小さく丸くなってしまった。
「そんな……嘘だ……」
モルは信じがたい話を戦慄しながら聞いていた。
多くの悲しみを生んだ、忌々しい騒動が。
何の罪もない、沢山の命が失われ、弱い者から無慈悲に死んでいった、惨い現実が。
他ならぬ獅子王リガルオンと、側近である大部族の長たちが引き起こしていた、だなんて——。
モルだけではない。
真相を知らなかった、全ての中小部族の長たちもまた、戦慄していた。
だが……。
「……そう、かい」
イルデラは残酷な報告を聞くと、がくりと肩を力なく落とした。
「……それじゃあ、アタイも、同罪だ。何も知らなかったとはいえ。くだらねえ騒乱に加担して、多くの血を流してきたんだからな……」
そうだ。イルデラだけではない。
ここに集う多くの中小部族の長たちは、皆何も知らないまま、生き残るために必死に戦い、そして結果として、騒動を大きくしてしまっていたのだ。
だからこそ、彼らは怒ることも、嘆き悲しむこともできはしない。
自らが知らず知らずの内に犯してしまった、大きな罪の重さを胸の内で静かに噛み締めることしかできないのだ。
だが、そんな沈痛な雰囲気をアドリアンの力強い声が、一筋の光の剣のように引き裂いた。
「この騒乱で多くの尊い命が失われた。それは悲しい事実だ。——でも!」
アドリアンは、その場にいる一人一人の目を、英雄の瞳で見つめ返しながら、高らかに叫んだ。
「これから、失われるはずだった全ての命は!助けることが、できる!」
力強い宣言。
黙って話を聞いていたゼファーが、かろうじて絞り出すかのような声で、問いかけた。
「……一体、どうやって」
アドリアンはその問いに、自信を込めて言った。
「さっきも言ったはずだ、ゼファー。俺になら。一度死んだはずの霊脈を、再び蘇らせることができる、ってね」
神の領域に踏み込むかのような言葉。
全ての視線がアドリアンただ一人へと、突き刺さるように集まった。
誰もが半信半疑の目で、人間の青年を見つめている。
「そのために俺は、霊脈の源泉がある『聖地』に入りたい!だからこそ、もう血を流す必要はないって、ライオンさんたちに理解してもらう必要があるのさ!」
聖地——。
その言葉を聞いた、瞬間。獣人たちのざわめきが大きくなる。
聖地とは、獅子王リガルオンの一族だけが管理を許されてきた、霊脈の源泉が存在する禁足地。
その名の通り、獣人たちはその場所を神聖なる不可侵の領域として崇めている。ごく一部の者を除き、ほとんどの獣人が生涯で一度も足を踏み入れることの許されない、まさしく聖なる地。
そんな場所に、人間が入る……?
それは彼らの常識や信仰、全てを持ってしても到底あり得ないことであった。
そして、アドリアンもまた、そのことを痛いほどに理解していた。
だが、獣人という誇り高き種族の感覚として。人間が聖地に入る、いうのが如何に高く、分厚い壁があるのかというのをアドリアンは知っている。
──だが。
もう、これ以上無駄な血を流す必要はない。
ただの人間一人が乗り込んだところで、リガルオンが聞く耳を持つはずもなかっただろう。
だが、大草原に生きる大多数の獣人たちから支持を受ける「英雄」としてならば話は別だ。対等な交渉の席に着かせることができる。
だからこそ、アドリアンはここまで自らの勢力を肥大化させる必要があったのだ。
全ては、この日のために。
リガルオンに、大草原の民の総意を突きつける、ただそのために。
「……霊脈を治せるなんてことが……出来るはずがない。大体、原因も何も分からないから治せないと言ったのはお前だろう」
ゼファーは震える声で、必死に信じがたい事実を否定しようとした。
「それに、この石とて、当に霊脈の死骸を治したものであるなどと、証明できまい。どこか別の場所から拾ってきただけ、という可能性だってある……」
もっともな言葉。
アドリアンは穏やかに微笑んだ。
まるでゼファーが、そう言うことを最初から分かっていたかのように……。
「ねぇ、ゼファー。ここに沢山ある果物。なんだか妙に酸っぱいものが多いと思わなかったかい?」
「……なに?」
唐突に放たれた、アドリアンの脈絡のない言葉。
呆然とするゼファーを他所に、アドリアンは続ける。
「君は食べてないから分からないと思うけど……。この果物はね、ケルナっていう心優しいエルフの子が、収穫してきてくれたものなんだ」
そう言ってアドリアンは、先ほど一度掲げてみせた、禍々しい「黒い石」——霊脈の死骸を、再び掲げながら言った。
「酸っぱい果物はね。俺が来る前に収穫されたもので……」
まさに、その時であった。
アドリアンの身体から夜空の星屑が溢れ出したかのような蒼く神聖な光の粒子が漏れ出し始めたのだ。
——星の涙の輝きが、幕舎の中を満たしていく。
「あっ……!」
それは一体誰が漏らした声だっただろうか。
アドリアンが手に掲げた霊脈の死骸。その石に、星の涙の光が吸い寄せられるかのように、集まっていく。
そして、光に触れた瞬間。
石を覆っていた不吉な黒色が消え失せ、内側から生命力そのものが満ち溢れているかのような、、透き通るような翠色の輝きが溢れ出してきたのだ。
「——そして、甘い方の果物っていうのはね。俺がこうして霊脈の死骸を蘇らせて。復活した石を砕いて収穫地に撒いた後に収穫されたものなんだ」
蒼き『星の涙』の光と翠色の『霊脈』の光が互いに混ざり合い、そして共鳴し合う。
幻想的で神々しい光景を、皆、夢でも見ているかのように見惚れていた。
そして、神々しい光景を目に焼き付けた全ての者たちは、心の最も深い場所で、こう思った。
アドリアンは。
この人間の青年は。
この英雄は。
本当に霊脈を復活させることが、できるのだ——と。
「霊脈が枯渇した原因がなんだっていいんだ。そんなもの、俺が原因ごと綺麗さっぱり治せるからな」
アドリアンの穏やかで、自信に満ち溢れた言葉。
もは英雄の言葉を疑う者など、誰一人としていなかった。
目の前で霊脈の死骸を生命の輝きへと蘇らせてみせた、この奇跡の化身を。
一体誰が、疑うことなどできようか。
「す、すげぇ……!すげぇ!」
「アドリアン様は……英雄だ!我らを、大草原を救ってくれる本当の英雄様なんだだ!」
先ほどまで絶望に支配されていたはずの幕舎の中は、今や割れんばかりの歓喜の渦に包まれていた。
獣人たちは皆、瞳に未来への確かな希望の光を宿し、互いに肩を叩き合い喜びを分かち合っている。
だが……。
「──なぜ」
皆が希望に歓声を上げ、喜んでいる喧噪の中。
ゼファーだけが、アドリアンの傍らで、静かに、悲痛な声で呟いた。
「なぜ、もっと早く」
その言葉と共に、ゼファーの身体が糸が切れた人形のように、膝から崩れ落ちた。
それを見て、歓喜に沸いていたはずの獣人たちが、水を打ったかのように静かになる。
「ゼファー……」
その中でゼファーは、両手で自らの顔を覆い隠し、言葉を続けた。
「なぜ、もっと早く来てくれなかった……」
ゼファーとて、分かっている。
この思いは、この言葉は。他力本願で、自分勝手なもの。
だが、どうしても止められない。
「なぜ、我らが取り返しのつかない大罪を犯してしまう前に、この地に現れてはくれなかった……」
ゼファーの指の隙間から。
後悔と悲しみに満ちた大粒の涙がとめどなく溢れ出してくる。
──彼は、空から見てきたのだ。
か弱き女子供が、戦火の中で命を無残に散らしていくのを。
来るはずもない助けを叫び、絶望の中で死んでいった弱き獣人たちを。
「なぜ……なぜ今更になって……!!」
幼子が、母親の乳を求めて手を伸ばす途中で、息絶えた最期も。
苦痛に耐えきれず、子を殺して自らも自害する者の最期も。
全てを見通す鷲の瞳は、全てを見ていた。
──その上で、見殺しにした。
「おぉ……おぉぉぉ……」
誇り高き天空の王が、迷子の子供のようにひれ伏し、泣きじゃくっている。
「我らにもっと力があれば!お前のような奇跡を起こす力が、我らにほんの少しでも、あったならば……!誰も死なずにすんだのに!!」
普段の冷静沈着な、氷の仮面を被ったかのような彼の姿からは、想像もできない痛々しい姿。
「許してくれ、民よ……!我らの浅はかな計画のために、命を散らしていった、全ての同胞たちよ……!!どうか!!どうか……許してくれ……」
彼は固い拳で、何度も何度も大地を叩きながら、後悔と、そして英雄がもっと早く現れてはくれなかったことへの、悲痛な叫びを上げ続けた。
「すまぬ……すまぬ……」
そんな痛々しいゼファーの姿を、アドリアンは静かに見つめていた。
そして、全ての罪を自らが代わりに背負うかのように。静かに言った。
「——遅くなって、ごめん」
獣人たちの歓喜の声が消え失せた静寂の幕舎に、英雄の謝罪と、ゼファーの慟哭がいつまでも響き渡っていた。




