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第百七十七話

ヴォルガルド、アクィラント、セルペントス。

大草原に生きる者で、その名を知らぬ者はいない。

強大で誇り高き、三つの大部族。


かつては互いの全てを賭けて、血で血を洗う熾烈な覇権争いを繰り広げていた、宿敵同士。

だが、今この瞬間。

決して交わることはないと思われていた三者の長たちが、一つの幕舎の下に集っていた。


「……」


重苦しいまでの沈黙を貫き続ける一人の男。ヴォルガルドの長、隻眼のグレイファング。

先日負った腹部の深い傷は、魔族の姫メーラの奇跡のような癒しの力によって、今や綺麗さっぱりと塞がっている。

彼は歴戦の証である無数の傷跡が刻まれた屈強な肉体を、堂々と晒していた。


「……」


同じく、一切の言葉を発することなく沈黙を貫くもう一人の男。アクィラントの長、ゼファー。

彼は猛禽類のように鋭い眼光で、その場にいる者たちを、値踏みでもするかのように見渡している。

その身から放たれる圧倒的なまでの覇気は、そこにいるだけで周囲の空気を凍てつかせるには十分すぎた。


そして、その対面では……。



「むしゃむしゃ!……んー!この果物すっごくオイシー!ねぇ、レフィーラ!これって、もしかして、エルフの森の果物!?大草原じゃ、こんなに甘くて美味しい果物見たことないわ!」

「うん、そうだよ、ナーシャさん!この果物はね、エルフの森の中でも清らかな水が流れてる場所にしか生えないんだよ!」


幕舎のその一角だけは楽しげな空気に満ち溢れていた。

セルペントスの長、ナーシャは、女王としての威厳など、どこかに綺麗さっぱりと放り投げてしまったかのように。

卓の上に山と積まれた色とりどりのフルーツを、隣に座るレフィーラと一緒になって幸せそうに食べまくっていたのだ。


気の抜けるような平和な光景。

やがてついにグレイファングの堪忍袋の緒が切れた。


「……おい!セルペントスの女王!ここは貴様の食事の場でもなければ、女子会を開くための場でもない!少しは場の空気を読まんか!」


グレイファングの腹の底から響き渡るような、苛立ちに満ちた叫び。

それに追従するかのように、ゼファーも心底呆れ果てたというように、重い口を開いた。


「お前たち。今がどのような場面か、本当に分かっているのか?」


彼は疲弊しきった様子で、一つ大きな溜息を吐く。

そんな二人の叱責に、当のナーシャは悪びれる様子も一切なく、口いっぱいに、物を頬張りながら言った。


「何言ってんのよ、アンタら。そんなに、ピリピリしちゃってさ。ほら、アレ見なさいよ、アレ」


ナーシャは蛇の尾の先で、幕舎のある一点を指し示した。

そこには——。


「うーん、この赤い果実は酸味が強いね。これは人を選ぶかもしれないな……でも、エルフの果物だ、有難くいただこう!」

「うっ、うっ……酸っぱい……」

「メーラ様、こちらの果物の方が甘いのでこちらをどうぞ……」


ナーシャが蛇の尾で指し示した先……。

そこには軍議の中心にいるはずの英雄アドリアンとメーラ、そしてモルが卓の上に山と積まれた果物を一つ一つ吟味するかのように、真剣な表情で品評会を開いていた。


「……」


場違いな光景にグレイファングは思わず巨体を揺らし、椅子から転げ落ちそうになる。

その隣ではゼファーが眉間に深い皺を刻み込み、目頭を抑えていた。


「アドリアンがさー『まずは、美味しい果物を食べながら、リラックスして話そうじゃないか』って言ってんだからさ。食べない方が逆に失礼じゃない?」

「そうそう!美味しいものを沢山食べれば、心も身体も穏やかになって、きっと良い話し合いができるよ!せっかくケルナが作ってくれたんだし!」


ナーシャの自由気ままな言葉に、レフィーラが楽しそうに追従する。


「うむ……これは中々美味い……甘いのと酸っぱい果物が混ざっているのが、またいいアクセントを出しているな……」

「おいゼゼアラ!アタイにも寄越せよ!一人で全部食ってるんじゃねぇ!」

「いや、俺は二つしか食ってないが……どっちかというと、お前の方が食ってる気がするが……」


そして、ゼゼアラやイルデラなどの大部族の族長たちも、アドリアンと同じように果物を美味しそうに頬張っているではないか。

ナーシャの悪びれない言葉。更には周囲の大部族の族長たちも、果物を食べている光景……。

グレイファングは、一瞬だけ何か反論しようと口を開きかけたが、やがて全てを諦めたかのように全身の力を抜くと、一つ大きな溜息を吐いた。


「……もういい」


グレイファングはやけくそになったかのように、卓の上にあった赤い果物を口へと運ぶ。


「おい、グレイファング。お前まで……」


ゼファーは、誰よりも誇り高く、頭が固いと思っていたヴォルガルドの王がいとも容易く奇妙な流儀に従ったことに、純粋な驚愕の声を上げた。

だが、グレイファングは口に運んだ果実を咀嚼しながら、静かに言った。


「俺は敗者だ。敗者は勝者の言うことに従うまでよ」


グレイファングは先の戦で、エルフの守護者レフィーラとの誇りを賭けた一騎打ちに敗れた。

それだけではない。

闇の化け物——シャドリオスの悍ましい力の前に、ヴォルガルドの軍勢が蹂躙されようとしていたその時。風の女神のように救ってくれたのも、レフィーラであった。


勝負に負け、そして命を救われた。

大きな恩義がある彼女の言葉に、一体どうして異を唱えることなどできようか。


「それに」


グレイファングは隻眼を、アドリアンと共に楽しげに果物を頬張っている、一人の少女——魔族の姫メーラへと向けた。

腹を抉られた、致命傷であったはずの大きな傷。それが今、こうして後遺症の一つも残さずに完全に治癒しているのは、他ならぬ彼女の奇跡のような治癒魔法のお陰なのだ。

更には、人間の青年アドリアン。

自分を打ち破った、エルフの守護者レフィーラをも、遥かに凌駕する、底の知れない実力の持ち主。


グレイファングは腹を括っていた。

アドリアンという得体の知れない、しかし確かな力を持つ男に恭順の意を示すことを。

だからこそ彼は、彼らの奇妙な風習に従うことにしたのである。


「ぐっ……!な、なんだこの果物は……!やけに、酸っぱいな……くそ!」


グレイファングがあまりの酸っぱさに、狼の鋭敏な鼻を思わず手で押さえ、顔をしかめる。

だが、その時であった。天空の王ゼファーが鋭い眼光を、更に鋭くして言った。


「なるほどな、グレイファング。敗者であるならば、その行動も理に適っている。……だが」


ゼファーは背中に生えた巨大な鷲の翼を広げると、軽やかに跳躍し、アドリアンの目の前へと、音もなく舞い降りた。

その場の全ての視線が、天空の王一人へと集まる。

その中で彼は言った。


「──俺は敗者ではない。故に、お前たちの奇妙な流儀に従う義理もない」


突然目の前に飛翔してきた、ゼファー。

メーラは小さな悲鳴を上げると、果物を地面に落とし、アドリアンの背後へと完全に隠れてしまった。

だが、アドリアンとその横にいるモルは、ゼファーの全てを見透かすかのような瞳を一歩も引くことなく、真っ直ぐに見つめ返していた。


そう。グレイファングは確かに敗れた。

だが、ゼファーはギエンからモルを救ったとはいえ、正式に同盟を締結したわけではないし、同盟軍と死闘を演じて、力を示したわけでもない。

あくまで彼らは対等な関係なのだ。


彼の行動原理は、一つ。


大草原にとって有益であるか、そうでないか。


ただ、それだけ。

モルを救ったのも、全てはその絶対的な信条の為せる業であった。


「え?なに?アンタこの状況でそんなこと言っちゃってるわけ?」


ナーシャがしなやかな蛇の尾を器用に使って、卓の上の紫色の果物をひょいと口へと運びながら言った。


「あのさ、よく考えなさいよ。アドリアンの同盟軍でしょ?それにグレイファングの狼軍団。おまけに、私のセルペントスの精鋭もいるのよ?正直、アンタの自慢の鷲っ子軍団だけじゃ、逆立ちしたってもう勝負にすらならないと思うけど」


ナーシャはそう言い放った。

事実として、今やこのアドリアンが率いる勢力に単独で適うものは、大草原の頂点に君臨する獅子王リガルオンの一派だけだ。

勢力として肥大化した現在、たとえ六大部族が一つアクィラントであろうと一蹴されてしまうであろうことは、火を見るよりも明らかであった。


だが、ゼファーは表情を一切変えずに言った。


「もしお前たちが大草原に仇なす存在であると俺が判断したならば、戦力差などどうでもいい。俺とアクィラントの戦士たちは、たと、最後の一羽になったとしても大草原の空を駆け抜け、最後まで戦い抜くだけだ」


そんな気高い覚悟を滲ませる言葉。

ナーシャは心底呆れたという表情を、美しい顔に浮かべた。

ゼファーという男がグレイファング以上に融通の利かない頭の固い男であることは、百も承知していたが……。

まさかこの圧倒的な戦力差を前にしてまで、そんな綺麗事を言い出すとは思ってもいなかったからだ。


「さぁ、聞かせてもらおうか。人間よ」


ゼファーの冷徹な声が幕舎に響き渡る。


「貴様たちの真の目的は何なのか。獅子王リガルオンを打倒した後、一体大草原で何を成そうというのか」


その言葉の一字一句には、隠そうともしない純粋な殺気が滲んでいた。

アドリアンの返答次第では、今この場で三大部族が内二つを相手にした無謀な死闘が始まってもおかしくはない。


「……っ!」


緊迫した空気に、その場にいた大部族の族長たちや、レフィーラもナーシャ、グレイファングですら、いつでも戦闘態勢へと移行できるように全身に静かに力を込める。


一触即発。

張り詰めた空気の中、軍師モルがゼファーの鋭い視線から決して目を逸らすことなく、口を開こうとした。


「僕たちの、目的は秩序を——」

「まぁまぁ!」


だが、真摯な軍師の言葉を、アドリアンは、いつもの軽やかな口調で遮ってしまった。

モルは小さな身体をびくりと震わせ、アドリアンを見上げる。


「君は相変わらず真面目で頭が固いんだな、ゼファー。ほら、これをあげるからさ。少し落ち着きなよ」


アドリアンはそう言うと、何かをひょいとゼファーへと放り投げた。


「果物などいらん。いいから貴様の真の目的を……」


ゼファーはげられた物を反射的に、手で掴み取る。

だが、手に伝わってくる、温かい感触に、それが果物ではないことを瞬時に悟った。


「これは……」


アドリアンがゼファーに向かって投げたもの。

それは果物などでは断じてなかった。

それは——内側から生命力そのものが満ち溢れているかのような、翠色の輝きを放つ、一つの美しい「石」。


その石を目に映した瞬間。

ゼファーの鋭い瞳が、信じられないものを見るかのように極限まで大きく見開かれる。


「霊脈の力が宿った石……だと……?」


ゼファーが呟いた。

大草原に生きる全ての獣人たちに、力の源泉を与える大いなる『霊脈』の気配を確かに感じる。

彼の驚愕に満ちた様子をアドリアンは満足げに見ていた。そして、口元に笑みを浮かべて、言った。


「その石が霊脈の『死骸』を蘇らせたものだ——って言ったら。君は信じるかい?」

「——なに?」


神の領域に踏み込むかのような英雄の言葉。

ゼファーの雄々しい翼から、一本の大きな羽が地面へと舞い落ちた。


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