第百七十五話
──フェルシル部族連合。
それは数多の部族からなる、広大なフェルシル大草原と共に生きる、獣人たちの国の名。
獅子の一族リガルオンを絶対的な頂点とし、その下に六つの強大な力を持つ「六大部族」が控えることで、大草原の長きに渡る秩序は守られてきた。
だが、ある時、秩序はあっけなく消え去った。
突如として獅子の威光は地に落ち、代わりに獣の本能のままに振るわれる剥き出しの暴虐だけが大草原に吹き荒れたのだ。
しかし、そこに英雄という名の新たな風が吹く。
悲しみと暴虐に支配されていたはずの大草原を、風は瞬く間に駆け抜け『みんな仲よし』という、拍子抜けするような確かな理想の名の下に、再び獣人たちを新たな秩序の元へと導いていく。
そして、ついにはかつての六大部族が内の三つ——ヴォルガルド・アクィラント・セルペントスを攻略し、大草原の大部分の領域を支配下に置いた。
その勢力こそが、英雄アドリアン率いる同盟軍。
──残るは獅子。
そして、今もなお古き王に付き従う、三つの大部族たち。
一人の英雄と、隣に立つ小さなウサギの軍師が織り成す大草原の物語は、最終章を迎えようとしていた。
♢ ♢ ♢
「レオニスのアニキ!もう我慢ならねぇ!!」
ドン、と。轟雷が落ちたかのような凄まじい音が、軍議の幕舎に響き渡った。
獣人たちが囲む樫の木で作られた頑丈なはずの机。その中央に、巨大な拳の跡と共に大きな亀裂が無慈悲に刻み込まれている。
「いつまでどこの馬の骨とも知れねえ新参者どもに、いい顔をさせてやがる!いい加減、俺たちが動く時だろうが!」
荒々しい声の主は、雄々しい見事にねじくれた二本の巨大な角を持つ、牛の獣人の青年であった。
名をオルオーンと言った。
彼は若さに似合わず、六大部族が一角タウロス族を率いる若き族長として、その名と武威を大草原に広く響かせている大戦士である。
どこかあどけなさの残る整った顔立ちとは裏腹に、身体はあらゆる贅肉をそぎ落とした筋骨隆々たる鋼の鎧で覆われている。
「オルオーン。そう、いきり立つなよぉ」
そんな彼の怒りに満ちた咆哮に応えたのは、ウルグリッド大部族の族長ボルドであった。
熊の獣人である彼は、オルオーン以上の山のような巨躯を誇るが、温厚な顔は言うことを聞かないやんちゃな子供をなだめるかのように、困り果てていた。
「こうなることは、分かってただろぉ~。一度秩序を捨てると決めた時点で、こうなることは……」
ボルドの山のような巨躯が悲しみに、しゅんと小さくなったように見えた。
そんな悲痛な言葉も、若き猛牛の燃え盛る憤怒の炎を鎮めることはできない。
「俺が言いてぇのはそういうことじゃねぇんだよ、ボルドのおっさん!」
オルオーンは筋骨隆々たる両腕を、大きく広げ、見事にねじくれた雄々しい角を天へと突き上げる。
「確かに俺たちは、混沌とした『今』を自分たちの意志で選んだ!……だがな!」
オルオーンの若々しい瞳が、マグマのように激しく赤く煌めいた。
「得体の知れねえ奴らが、俺たちの大草原を好き勝手に荒らすのは——断じて許せねぇんだ!!」
純粋で、激しい怒り。
オルオーンの身体から放たれる赤い闘気が、嵐のように幕舎全体をびりびりと震わせる。
「このくだらねえ騒乱の中で、多くの命が消えた。その中には何の罪もない女子供だって、沢山いたんだ……!」
オルオーンの燃え盛るような瞳。
その激情の奥に、深い悲しみの色が確かに浮かんでいた。
「その罪は俺たちが背負うべきもんだ。その恨みは俺たちが甘んじて、受けなきゃならねえもんなんだ」
そしてオルオーンは、一度幕舎にいる他の族長たちを見渡すと、突然全身から力が抜けたかのように、近くにあった椅子へと腰を下ろした。
そして、顔を深く俯かせながら、言った。
「俺だって、分かってるさ。今、俺が言ってることなんざ、ガキのわがままに過ぎねえってな……」
俯いた顔。
だが、瞳だけは今もなお、自らの無力さへの後悔と激しい憎悪の炎で赤く渦巻いていた。
「だけど、それでも許せねぇんだ。人間が俺たちの大草原を、これ以上好き勝手に荒らしているのがよ……!」
人間——。
ここに集まっている族長たちは、その情報を知っていた。
信じがたいほどの速度で急激に勢力を伸ばしている風変わりな名前の勢力……『みんな仲良し!平和大好き!』同盟。
突如として現れ、周囲の名中小部族を瞬く間に吸収合併し、あろうことかヴォルガルド、アクィラント、そしてセルペントスをも打ち破ったという謎の軍勢。
その中心にいるのがなんと人間の男であるという信じがたい情報も、彼らの耳には届いていたのだ。
「どうせ、裏にはアルヴェリア王国がいるに決まってやがる!人間ってのは汚ねぇことばっかりする腹黒い奴らだ!この大草原の混乱を見逃すはずがねぇんだよ!」
オルオーンが忌々しい人間の国を見てきたかのように、そう断定し叫ぶ。
だが、その結論にボルドが穏やかに疑問を呈した。
「でも……その軍勢には、エルフもおるんだろぉ?人間の国の仕業だと決めつけるのは、早くないかぁ?」
ボルドの言う通り、件の勢力には人間だけでなく、エルフの女が存在することも報告されている。
その指摘に、オルオーンは一瞬だけ言葉に詰まり、身体をぴたりと止めた。
「……うるせぇな!森林国が後ろにいようが、アルヴェリアが後ろにいようが、そんなこたぁどうだっていいんだよ!俺が言いてぇのはただ一つ!大草原のいざこざに獣人以外の余所者が介入してくること自体が、最高にムカつくって言ってんだ!」
フェルシル部族連合とエルフが治めるエルヴィニア森林国は、古くからの同盟を結んでいる。
しかし、フェルシル部族連合が今や完全に形骸化してしまった今、その同盟がまだ効力を発揮するのかも疑わしい。
だからこそオルオーンは、エルフの国を名指しで責めることもできないのだ。
どうしようもない苛立ちが彼の怒りを、さらに増幅させていた。
癇癪を起し、子供のように自らの苛立ちをぶつけることしかできないオルオーン。
その若すぎる激情にボルドはやれやれ、と一つ大きなため息をつくと、視線を反対側へと向けた。
そして、口を開く……。
「お前さんはどう思う?アカネどの……」
彼の視線の先にいたのは、美しい尾をゆらりと揺らし、金色の髪を静かに靡かせる狐の獣人……。
アカネと呼ばれた美しい女性こそ、六大部族が最後の一角フォクシアラを率いる族長であった。
「……」
凛々しく、気高く、そして誰よりも聡明。それがキツネの大部族を率いる彼女の本来の姿であったはずだ。
──だが。
今の彼女はどこか様子がおかしい。
机に片肘をつき、何か別の出来事に心を奪われているかのように、心ここにあらずといった様子で、虚空を見つめている。
「おい、アカネさんよ。てめぇ聞いてんのか?さっきから上の空じゃねえか」
オルオーンの苛立ちを含んだ声。
それに対して、アカネはうわ言のように、呟いた。
「何が目的なんだ……?」
ぶつぶつと、何かを必死に自らに問いかけるかのようなアカネ。
いつもは誰よりも優雅で、そして冷静沈着なはずの彼女の異様な様子を見て、オルオーンとボルドは思わず顔を見合わせた。
「奴の真の目的が分からん……。だがこのまま放置していいものでは、ない……」
アカネは呟き続ける。
その言葉に呼応するかのように、彼女の美しい狐の尾が意思を持った生き物のようにうねり、しなやかに宙を舞った。
その尻尾はすぐ隣で、腕を組んでいたオルオーンの身体を横薙ぎにばしりと叩く。
「ぶべらっ!?」
オルオーンは予期せぬ強烈な一撃に木の葉のように軽々と吹き飛ばされ、壁の隅まで無様に転がっていった。
だが、アカネはそんなことには全く気づいていない。
「しかし、わざわざ何のために大草原にまで……。まさかあの時の冗談を本気で実現するためか?いやいや、そんな馬鹿な……だが現に、こうして大草原を巻き込んで……」
尻尾はぶんぶんと揺れ続ける。
そして今度はボルドの人の良さそうな顔面を、ぱしんと綺麗にはたきつけた。
「うお!?」
山のような巨躯がいとも容易く椅子から転げ落ち、ごろごろと無様に床の上を転がっていく。
大きな物音が響き、その音でアカネはようやく我に返ったかのように狐の耳を動かした。
「ん……?」
ゆっくりと顔を上げると、隅で呻き声を上げるオルオーンと、床の上で目を回しているボルドの姿を瞳に映す。
彼女は優雅に尾を揺らしながら、心底不思議そうに口を開いた。
「なんだ、二人とも。今は大切な会議の最中だというのに。何を床の上で寝ているんだ」
よろよろと壁際から立ち上がるオルオーンと、床の上から巨体を起こすボルド。
「テ、テメェ……!」
「よせよぉ、オルオーン。アカネも別に悪気があったわけじゃ、ないんだろぉ~」
ボルドの人の良い言葉にオルオーンは顔を歪め、叫ぶ。
「悪気がないだぁ?はっ!じゃあ、なんだってんだ!?今のえげつない一撃はよ!ありゃ、親愛の情の表れか何かか!?俺には殺意が込められてるようにしか感じなかったがな!?」
いきり立つオルオーンを、当のアカネは、心底面倒くさそうに、腕を組んで眺めているだけであった。
その時であった。
「——皆の者」
低く、絶対的な威厳を宿した声。
それまで三者三様の表情を浮かべていたオルオーン、ボルド、アカネが同時に、はっとしたように声の方角へと顔を向けた。
軍議の玉座に、一人の男が静かに座っていた。
リガルオンの長——獅子王レオニス。
彼はそれまで一切の感情を顔に浮かべることなく、黙って彼らのやり取りを見つめていたのだ。
かつては陽光を身に宿したかのように、黄金色に輝いていたはずの獅子の鬣を思わせる豊かな髪も。
今は心なしか、輝きを失いくすんで見えた。
「俺の元から去るというのであれば……今しかない。最早、獅子の威光は地に落ちた。これからは新しき秩序がこの地を支配していくのだろう……」
弱々しい王の言葉に、三人の族長が息を呑んだ。
「いつまでも、落ちぶれた愚かな獅子と共にいる必要はない。自らの身を、そして何よりも自らが率いる部族の未来を第一に考えるがいい」
幕舎の中は絶対的な静寂に満たされる。
それぞれの荒い息遣いだけが、そこにあった。
「……」
どれほどの静寂が場を支配していただろうか。
不意に、オルオーンがそれまでの激昂したような荒々しい声色から一転、穏やかな口調で言葉を紡いだ。
「——なぁ、レオニスのアニキ」
彼は静かに言葉を続ける。
「そういう寂しいことは、もう言わねぇって約束したはずだぜ。俺たちゃあ何があろうと、最後まで獅子に従うって、そう決めただろ?」
真っ直ぐな言葉に、熊の獣人ボルドが力強く続いた。
「そうだぁ。ヴォルガルドや、アクィラントが己の道を行くと決めたように。ワシらはワシらの意志で、最後まで獅子と共に在り続けると……そう、誓ったはずだぞぉ」
そして、アカネも組んでいた美しい脚を優雅に組み替えながら、口を開いた。
「レオニス様。我らは、一蓮托生。今更、貴方様と……リガルオンという獅子の元を離れることなどできましょうか。……それに」
アカネは、ふっと顔から全ての感情を消し去り、美しい顔を暗、翳らせて、言葉を続ける。
「——この大草原の混乱は、全て我らの目論見通り。そう……全て順調に、進んでいるではありませんか……」
彼女の言葉に、その場にいた全ての者たちが、自らが背負う罪の重さを改めて噛み締めるかのように、深く目を伏せた。
そうだ。
この状況は。
この悲しい大草原の現状は……。
全てが計画通り、全てがうまく進んでいるからこその光景なのだ——。
「——だからこそ」
アカネの瞳には、先ほどまでの上の空の光はない。
自らがその手と尻尾で選んだ、血塗られた道を進むという揺るぎない覚悟の光だけが、宿っている。
「今、謎の勢力に大草原を統一されては、ならないのです。そうなれば、この大草原に安寧が訪れてしまう!」
アカネの美しい尾と、鋭い狐の耳が、威嚇するかのように逆立った。
「もし、そうなってしまえば……。我らが流してきた、多くの血と涙が……全ての犠牲が無駄になってしまう!そして何よりも、大草原が……霊脈が完全に死んでしまう……」
悲痛で、絶望的なアカネの叫び。
それにオルオーンとボルドは、奥歯を強く食いしばって続いた。
「ああ……。俺たちが諦めちまったら。全てが、無駄になっちまう。それだけは避けなきゃならねぇ」
「そうだぁ……もう少し……未来のためには、もう少しだけ、この地獄を進み続けなければ、ならないんだぁ……」
三人の悲痛な、覚悟の声。
「……」
獅子王レオニスは、それを玉座で静かに聞いていた。
彼はゆっくりとその身に再び大草原の全ての魂を宿すかのように、巨体を立ち上がらせた。
「……」
先ほどまでの、くすんだ光ではない。
黄金の鬣が、太陽そのもののような王者の輝きを取り戻していく。
「俺は、愚かな獅子だ」
レオニスの声が響き渡る。
彼は、その場にいる三人の顔を黄金の瞳に焼き付けるように見つめた。
「俺はお前たちを信じることができなかった。自らの非力さを棚に上げ、ただ大草原の破滅の恐怖に怯えていた。……王、失格だ。この愚かな獅子を好きに罵るがいい」
痛々しい、王の告白。
だが、彼を罵る者などこの場には誰一人としていなかった。
「──だが」
レオニスは拳を強く握りしめる。
瞳には、もはや迷いも後悔もない。あるのは、王としての覚悟の光だけ。
「愚かな獅子の、最後の我儘を聞いてくれるか。我らが信じる大草原の未来のため……そして、散っていった全ての同胞たちの魂に報いるため——謎の勢力を、討滅する!そのために、もう一度だけ……愚かな俺にお前たちの力を貸してくれ!」
魂からの王の叫び。
それに、三人の族長が応えないはずがなかった。
「——御意のままに。我がフォクシアラの全ての知略を、貴方様に捧げましょう」
アカネが静かに、頭を下げた。
金色の耳と尻尾は、王を前に優雅に揺れていた。
「おう、任せとけやアニキ!タウロスの最強の戦士たちが、アンタの背中を守ってやらぁ!」
オルオーンが獰猛な心からの笑みを浮かべる。
雄々しいツノが煌めき、震えていた。
「ウルグリッドの全ての民は、王と共に……」
ボルドが優しい瞳を涙で潤ませながら、力強く頷く。
その巨体は全てを包み込むようにして、穏やかにそこに在る……。
三人の族長は自らが率いる部族と支配下にある、全ての中小部族へと最大級の召集をかけることを誓った。
大草原の北部に存在する、獣人たちの大軍勢が今、一つの獅子の旗の下、集結する。
全ては、英雄という名の優しき侵略者を討ち滅ぼすために——。




