幕間
どこまでも黒い闇が広がっている。
月明かりも、星の輝きも、生命の証である虫の鳴き声すらも一切存在しない。
そこは「無」だけが支配する、闇の空間。
「がはっ……!」
その静寂を、一つの苦悶の声が破った。
空間に禍々しい裂け目が走り、そこから用済みの荷物でも捨てるかのように、一人のハイエナの獣人が無造作に放り出されたのだ。
ギエンである。
彼は受け身も取れず、痩身を闇の中の見えない床の上へと、無様に転がした。
「こ、ここは……」
ギエンは痛む身体を必死に起こしながら、辺りを見渡す。
だが、その目に映るのはどこまでも続く四方八方の闇。
上も下も右も左も分からない。自分が今、本当に地面の上に立っているのかどうか、平衡感覚すらも、この異常な空間の中では曖昧に消え失せていく。
ギエンが異常な空間に恐れおののいていた、その時であった。
『——哀れなハイエナよ』
「!!」
不意に、背後から声が聞こえた。
気配は一切なかった。声だけが、空間から染み出してくるかのように響いたのだ。
それは、ただの声ではない。
この世のありとあらゆる苦痛と絶望と狂気を全て煮詰めて凝縮したかのような、聞いているだけで魂が、悲鳴を上げる悍ましい「音」。
『——お前には、大草原を内側から食い破り、破滅させるという任務を与えてやったはずだ。──だが……その結果はどうだ』
全てを、知っている。
全てを、見透かしている。
全てを掌の上で転がす、ちっぽけな玩具のように弄んでいる悍ましい声。
その、悍ましい存在を前にして。
ギエンは乾いてひび割れた唇から、必死にかすれた声を絞り出そうとする。
「わた……わた……しは……!」
ギエンは必死に声にならない声を紡ごうとする。
──全ては計画通りだった。
大草原の生命線である霊脈の源泉を、悍ましき闇の加護で汚染し。
目論見通り、獣人たちは枯れゆく霊脈を維持するために自らの『命の総数』を減らそうと、愚かにも互いに牙を剥き争い始めた。
そのタイミングで、様々な部族を言葉巧みに扇動し、争いをさらに激化させ。
そして、最後には弱り切った獅子王リガルオンの喉笛を『無感の軍勢』で掻き切り、大草原に生きる全ての獣人どもを根絶やしにする。
それが、目的だった。
全ては順調に進んでいたはずだった。
いや進んでいた。
——忌々しい人間の男。
英雄アドリアンが、大草原に現れるその時までは。
(あの英雄は……なんなんだ一体。私の予想を遥かに上回る英雄。それに、見ていると胸がざわめくのだ……)
だが、その時。
彼の震える背後に静かに佇む、得体の知れない存在が、ギエンの無残に切り落とされた右腕の傷口へとあてがった。
その手つきは、傷ついた愛しい我が子を慈しむかのようで……。
『おお……哀れなハイエナよ。腕を切り落とされ、忌々しい英雄に殺されかけた、哀れで、愚かで、どうしようもなく愛おしい、我が僕ギエンよ──』
ギエンは動けない。
悍ましい、しかしどこか甘美ですらある言葉。
そして、その身から放たれる純粋な絶対的な「死」の気配。
それは彼に抗うことのできない形で、自らの無力さと死の運命を予感させるものだった。
『そう震えるな。私はお前を高く評価しているのだ。お前の頭脳は大草原を荒らし、薄汚い獣の命を、減らしたではないか……』
威厳に満ちた悍ましい労いの言葉。
しかしその言葉は、次の瞬間無慈悲に裏返る。
『——だが、お前は死ね。英雄一人を止められなかった役立たずで愚かなお前は、死ぬのだ』
冷徹な死の宣告と同時であった。
ギエンの傷口を優しく撫でていたはずの黒い靄の手が、ギエンの首へと回された。
「——!」
ギエンの震えが、極限まで大きくなる。だが彼の瞳に抵抗の色はない。
──彼は既に、死を受け入れていた。
元よりこの悍ましい存在に救いを求めた、あの時点で。
自分のちっぽけな命など、とうに終わっていたのだ、と。
『——だが』
次の瞬間、ギエンの首に絡みついていたはずの悍ましい闇の手が、ふっと離れていった。
『あまりに、哀れ。せっかく薄汚い奴隷の身から救い出してやったというのに。このような惨めな幕切れでは、お前は一体何のために生まれてきたのか、分からないではないか』
どこか芝居がかった歪んだ慈悲の言葉。
ギエンの死を受け入れていたはずの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
『故に。お前に最後の、そして最高の機会を与えてやる』
その言葉と同時であった。
ギエンの痩身に、今までとは比較にすらならない凄まじいまでの純粋な闇の力が、奔流となって注ぎ込まれていく。
「こ、これは……!?あ、あぁ……!」
それは世界の理そのものを、いとも容易く歪めてしまうほどの力。
ギエンのハイエナとしての貧弱であったはずの五感が、極限まで拡張されていく。
音……匂い……光手そして、魔力の流れ。今まで自分が認識していた、ちっぽけな世界が、全くの別物に作り変えられていくかのような、全能感にも似た異常な感覚。
そして——。
彼の無残に切り落とされたはずの右腕の断面から、どろりと。
闇そのものが意思を持ったかのように盛り上がり、一本の禍々しい新たな「腕」が、生えてくる──。
「おぉ……おぉぉ……!貴方様はなんという、慈悲深き御方なんだぁ……!」
ギエンは新たに生えた禍々しい闇の腕を、愛おしい恋人でも見るかのように、うっとりと見つめ、感激に打ち震えていた。
「ひっ……ひひ……ひひひひ!この力!この力があれば……!忌々しい英雄の肉を引き裂き、骨を砕き、命を完全に殺し尽くすことができるぅ!」
ギエンはもはや狂っていた。
身に過ぎた力を与えられたハイエナは、来るべき復讐の甘美な光景だけを夢想する。
『……』
ハイエナの狂喜乱舞。
その光景を闇の存在は、静かに見下ろしていた。
黒い靄の奥で、二つの赤い眼光だけが、不気味に光を放っている。
その眼に宿るのは、果たして哀れな僕への慈悲か。
あるいは、ちっぽけな器に過分な力を与えられた、愚か者への侮蔑か。
それとも——。
『さぁ、行くがよい。我が新たなる使徒よ。大いなる力をもって、光の英雄と愚かなる仲間たちの首を、私の元へと捧げるのだ』
大草原に、新たなる絶望が再び舞い戻る。




