第百七十四話
風が寂しげに吹き抜ける音だけが、静まり返った戦場に響き渡る。
誰もが、驚愕していた。
レフィーラが大精霊の力を借りてやっと退けたシャドリオスの軍勢を……アドリアンは剣を一振りしただけで全滅させてしまったのだから。
「な……なんだ、あの男は……?」
「なんという力だ……あの人間は……」
グレイファングは人間の青年の底知れぬ力に、痛みを忘れて口をあんぐりと開け。
ゼファーは信じられないと言った表情で、警戒感を露にする。
「ふふん、これが私の力……じゃないけど、私とアドリアンの力よ!どう?恐れ入った?」
ナーシャだけは、何故か自慢げに蛇の尻尾を揺らしていたが。
そして、訪れる静寂。
アドリアンの英雄の力を目の当たりにして、呆然とする者、警戒する者、崇拝するもの──。
さまざまな反応が入り混じれる。
その中で、モルは恐る恐るアドリアンへと歩みを進めた。
「……」
モルの長いウサギの耳と丸い尻尾が、不安げに揺れ動いた。
先ほどの、アドリアンの険しい表情を見て、どうしようもなく不安になったからだ。
本当は聞きたいことが山ほどあった。
——闇の軍勢の正体はなんなのか。
——先ほど現れた得体の知れない『影』は一体何者なのか。
——そして……『影』がアドリアンに告げた『前の世界』という言葉は、一体何を意味するのか。
だが——。
「──モル族長」
「は、はい……!」
アドリアンが、ゆっくりとモルへと向き直った。
その顔には先ほどまでの険しい表情はどこにもない。
代わりにそこにあったのは、いつもの穏やかで飄々とした英雄の笑み。
「最後の最後で、悪役に逃げられちゃった締まらない結末になっちゃったけど。取り合えず、最初の目的だけは、達成できたと思うんだけど、どうかな?」
「え……」
最初の目的——。
それは無謀で、そして途方もないと思われた三つの大部族、ヴォルガルド・アクィラント・セルペントスを同時に攻略するという目的。
モルはアドリアンの言葉に、我に返ると改めて周囲を見渡した。
ヴォルガルドの軍勢は——瀕死の王グレイファングを屈強な戦士たちが必死に介抱している。
だが、レフィーラとの誇り高き一騎打ちの決着を見た彼らの瞳に、もはや戦うという意思はない。
セルペントスの軍勢は——アドリアンの「説得」が功を奏したようで、今や女王ナーシャと共に完全に頼もしき味方として、そこにいる。
そして、アクィラントの軍勢は——「味方」とまでは、まだ言えないかもしれない。
だが、ギエンの裏切りを断罪し、自分たちを助けてくれた天空の王ゼファー。彼がこちらの話に耳を貸してくれるであろうことは、疑いようもなかった。
「あ……」
モルは、そこでようやく理解した。
そうだ。自分たち、『みんな仲良し!平和大好き!』同盟軍は。
大草原で決して交わることはないと思われていた三つの巨大な部族を、確かに攻略したのだ、と——。
「これから戦後の処理だの、面倒な話し合いだの……退屈な時間が始まりそうだけどさ……」
アドリアンはわざとらしく肩を竦めてみせた。
そして次の瞬間。彼は不意に、モルの軽い身体をひょいと持ち上げ、自らの肩の上へと乗せたのだ。
「わわっ!?」
突然視界が、ぐんと高くなったことにモルは驚きの声を上げる。
だが、アドリアンの肩の上から見る光景に、彼は思わず息を呑んだ。
──様々な種族が、此処に集っている。
狼も。鷲も。蛇も。
互いに憎しみ合い、殺し合ってきたはずの異なる部族たちが、今この場所に集い、アドリアンと肩の上にいる自分を、じっと見つめている——。
「さぁ、モル族長。同盟軍の軍師として、彼らに言うべき言葉は……一体、なんだろうね?」
アドリアンの悪戯っぽく信頼を込めた言葉。
それにモルは一度だけ目を固く瞑ると、何かを振り払うかのように意を決して、目を開いた。
その瞳には臆病なウサギの少年の光は、どこにもなかった。
「ヴォルガルド、アクィラント、セルペントスの皆様!きっと皆、言いたいことは山ほどあるでしょう!怒りも憎しみも、そして悲しみも、まだ胸の内に渦巻いているはずです!」
真摯な、全ての者たちの心を代弁するかのような言葉。
だが次の瞬間、モルはアドリアンが乗り移ったかのように、顔に屈託のない明るい笑みを浮かべた。
「——ですが今は!そんな小難しい理屈は、一旦抜きにして!」
そして彼は、小さな両腕を大きく広げ、高らかに宣言する。
「今はただ、事実だけを分かち合おうではありませんか!部族を越え、憎しみを越え、共に影の化け物を打ち破ったという事実を!——ならば今、我らがすべきことはただ一つ!勝利の雄叫びを大草原の空に、共に響かせることではないでしょうか!」
シン……と。
静寂が、訪れた。
純粋で真っ直ぐな言葉。それにどう反応していいのか、分からずに。
獣人たちは顔を見合わせるばかりであった。
——だが。
「ウォーーーーーーーンッ!!!!」
長すぎる静寂を切り裂いたのは、気高い狼の雄叫びであった。
皆が驚いて、声の主へと視線を向ける。
そこには大地に身を横たえ瀕死の重傷を負っているはずの、ヴォルガルドの王——グレイファングが力を振り絞るかのように、天に向かって力強く雄叫びを上げているではないか。
「グレイファング様……」
気高い長の遠吠え。
それを聞いた配下の狼たちもまた、意を決したように次々と遠吠えを重ねていく。
最初は数人だった。だが、水面に広がる波紋のように瞬く間にヴォルガルドの狼たちの軍勢全体へと伝播していき、やがて天を衝くほどの大合唱となって戦場に響き渡った。
「……全く、元気な狼たちだ。だが、我らも負けるわけにはいかんな」
雄々しい光景を見た、ゼファーが、口元に初めて獰猛な笑みを浮かべる。
彼は巨大な翼を広げると、鷲の王として応え、そして雄叫びを上げる。
「ゼファー様が、叫んでおられる……」
「我等も、続け!」
冷静沈着なゼファーが、あのように感情を露わにして、叫びを上げる。
信じられない光景に配下のアクィラントたちは、一瞬だけ驚愕に目を見開いたが、やがて一人、また一人と偉大なる王に続き、誇り高き鷲の鬨の声を上げ始めた。
「あーらら。いっつも、すましてるゼファーまで雄叫びなんかあげちゃってさ。……まぁいいわ!私たちも負けずに叫ぶわよ!」
「ナーシャ様。しかし我々は特になにもしていないような……?飛んできただけっていうか……」
「……うっさいわね!こういうのは、雰囲気なのよ、雰囲気!」
生真面目な戦士のもっともなツッコミを、女王ナーシャは快活な笑みで一蹴する。
彼女が楽しげに、高らかに鬨の声を上げたのを見て、セルペントスの戦士たちもまた戸惑いながらも後に続くのであった。
それを見ていた『みんな仲良し!平和大好き!』を掲げる同盟軍の戦士たちもまた、胸の奥底から込み上げてくる熱い何かを抑えることができなくなっていた。
「おい、ゼゼアラ!アタイらも負けてられねぇなぁ!?叫ぼうぜ、デカい顔した奴らに負けないくらい、でっかい声でさぁ!」
「……やれやれ。柄じゃないんだがな、こういうのは」
イルデラの地を揺るがすほどの、力強い雄叫び。
それにゼゼアラも渋々といった表情を浮かべながらも、瞳には確かな闘志の光を宿らせて、豹のように、しなやかで鋭い雄叫びを上げる。
大草原に木霊する獣人たちの雄叫び。
空気を震わせ大地を揺らす雄大な声の真っ只中で、レフィーラと、彼女の傷を必死に治療していたメーラは目を丸くしていた。
「メーラちゃん、ありがとう。おかげで楽になったよ……」
「は、はい、レフィーラさん……!よかった……!でも……」
メーラは周囲で嵐のように響き渡る獣人たちの力強い雄叫びを聞いて、身体を、きゅっと縮こませる。
「み、みんな、もしかして怒ってるのかな……?」
純粋で、的外れな問い。
それに、レフィーラは、ふっと口元に穏やかな笑みを浮かべて、答えた。
「ううん。これは、きっと——嬉しいんだよ」
レフィーラとメーラの細い声は、すぐに獣人たちの雄大な歓喜の雄叫びの中へと掻き消されていった。
そして、その全ての声の中心。
英雄アドリアンの肩の上で、モルは身を震わせながら雄叫びを感じていた。
本来ならば、野蛮なだけの獣の雄叫びのはずだ。
だが——モルには彼らの雄叫びが、気高く、そして崇高なものに感じられたのだ。
「凄いね、モル族長。もふもふさんたちの声は。聞いてると、元気が出てくるよ」
「はい……!これが、大草原に生きる獣人たちの、魂の音なんですね……!」
そんなモルとのやり取りの後。
アドリアンはゆっくりと、目を閉じた。
「──」
聞こえてくるのは、大地を揺るがす獣人たちの歓喜の雄叫び。
その声はアドリアンが『前の世界』で耳にした、誇り高き、かけがえのない仲間たちの声と、同じもの。
(──あぁ、この雄叫びだ。この声に、俺はいつも元気付けられたんだ)
彼の脳裏に、鮮やかに蘇る。
獅子王レオニスと共に率いた、勇猛なる獣人たちの軍勢。
魔王軍の無慈悲な侵略から大草原を守ろうと命を賭して、そして散っていった多くの仲間たちの声が聞こえる……。
(まだ、色々と厄介な『敵』は残っていそうだけど)
大草原を荒らした、ハイエナの獣人。
世界の理を跨いでいるであろう、得体の知れない『影』。
そして、その背後にいる真の黒幕——。
考えるべきことは、山ほどある。
対処すべき問題は、まだまだ山積している。
だが、今は。
「……ぐっ……は、腹の傷が……!調子に乗って、叫ぶんじゃなかったぜ……」
「げほっ、げほっ……。……全くだ。慣れないことは、するものではないな……」
「あははは!グレイファングも、ゼファーも、情けないわねぇ!私は、喉に悪そうだったから、すぐに叫ぶのをやめてやったわ!どう!?賢いでしょ!?」
グレイファング、ゼファー、そしてナーシャ。
かつての仲間たちとは、少しだけ違うけれど。
今はこの三人との再会を、もう少しだけ楽しむとしようかな——




