第百七十三話
闇が、喋った——。
理解不能で、悍ましい事実。
アドリアンは高速で思考を巡らせる。
(シャドリオスに、似てる。だけど違う)
これまで戦ってきた、感情も知性も持たない闇の怪物と雰囲気は似ている。だが、別物だ。
目の前の「それ」からは、シャドリオスよりも更に濃厚で、悍ましいほどの純粋な「死」の気配が放たれている。
そして、何よりも——。
(喋った……?)
英雄としての数多の経験則が、目の前の存在を理解することを拒絶していた。
生き物かすら分からない、影の塊。
だが、今確かに喋ったのだ。それも、明確な意思と口調を持って。
誰も何も言えない。
草原の風だけが血の匂いを乗せて、静かに吹き抜けていく。
絶対的な静寂の中、ギエンと彼が呼び出した『影』は二人だけの世界にいるかのように、不気味な会話を続けた。
「おぉ……!『闇の騎士』様……」
ギエンは痩身を、恐怖と恍惚にわなわなと震わせ、目の前の『影』へとそう呼びかける。
「ギエンよ。私を呼び出したということは、どのような運命が待ち受けているか理解した上での、ことなのだろうな」
その声は深淵の底から響いてくるかのようであった。
男か女か。若いのか老いているのか。それすらも全く判別できない。
無機質で、聞いているだけで魂が不快に震えるような、声。
「えぇ、えぇ!もちろん覚悟の上でございます!私はもう、この身に訪れるであろう甘美な破滅を受け入れ──」
その時だった。
「……!?」
ギエンと『影』が同時に、傍らから放たれる神聖な光の圧に、弾かれたように反応したのだ。
彼らの視線の先にいたのは、一人の英雄。
全身に輝く『星の涙』を纏い、手には神々しいまでの蒼き光を放つ『星涙剣』を握りしめている。
それは、英雄の完全なる戦闘態勢。
「——どこの誰だかは知らないけど」
強大な光の圧。
大気そのものを、陽炎のように歪ませ、味方であるはずの獣人たちですら後退ってしまうほどの圧倒的な魔力と、覇気の奔流であった。
「いきなり現れて、俺とハイエナくんとの大事な会話の邪魔をするだなんて酷いじゃないか。お母さんに人が楽しくおしゃべりしている時には、静かにしていましょうねって、教えて貰わなかったのかな?」
いつものアドリアンの飄々とした軽口。
だが、その言葉とは裏腹に。
彼の瞳の奥底には目の前の得体の知れない「敵」に対する、一切の容赦も慈悲も含まない殺意の光が宿っていた。
「こ、これが……英雄の……」
それを真正面から受けたギエンは、ついに顔から不敵な笑みを完全に消し去った。
痩身をわなわなと、本能的な恐怖に震わせる。
だが、彼が呼び出した、黒い靄の人型——『影』は、違った。
それは、アドリアンの視線を真っ直ぐに、そして一切怯むことなく受け止めていた。
「……」
「……」
交わる英雄の光と深淵の影。
アドリアンの身から放たれる『星の涙』の輝きが、何かに呼応するかのように輝きを増していく。
張り詰めた静寂の中『影』は静かに、平坦な声で言った。
「アドリアン。『この世界』でも、息災なようで何よりだ」
「……なんだって?」
今。
今、この『影』は何と言った。
『この世界』でも。
間違いなく、そう言った。
つまり、目の前の得体の知れない『影』は。
(俺のいた、前の『世界』のことを知っている──)
アドリアンの思考が一瞬凍りついた。
だが、得体の知れない危険な存在を前にして、ほんの一瞬たりとも隙を晒すわけにはいかない。
アドリアンは身に纏う『星の涙』の輝きを一層強くする。手にした『星涙剣』が、主の昂る闘志に呼応するかのように、蒼く煌めいた。
「世界、ね」
アドリアンは内心の心の揺らぎを決して悟られぬよう、いつもの飄々とした口調で、言葉を続ける。
「君は随分と物知りみたいだ。そんな影みたいなよく分からない姿をしているくせに、実はどこかの偉い学者先生だったりするのかな?『世界学』なんていう高尚な学問は、俺も初めて聞いたけどさ」
人を食ったような、アドリアンの言葉。
それに『影』は、何かを考えるような素振りを見せた。
そして、実体のない黒い靄でできた顎に、そっと手を当てて答えた。
「──魔王を討ち、世界を救ってみせた偉大なる英雄どのは、相変わらず人を食った物言いをする。魂が世界を跨いだとしても、軽口だけは治らんらしい」
「……」
「なぁ、教えてくれ。お前はどうやってこの世界に来たんだ?」
間違いない。
この『影』はアドリアンの前世を知っている。
アドリアンがかつて魔王を討った英雄であるということを、知っているのだ。
その瞬間であった。
アドリアンの脳裏に一つの記憶が鮮やかに蘇る。
帝国で混乱を引き起こした魔族・ノーマが最後に発した、不可解な言葉。
『──全てが繋がった。そうか、そうだった!英雄アドリアンよ!『この世界』でもまた、我ら魔族の覇道を阻もうというのか。『前の世界』での因縁を引き継ぐかのように……!』
ノーマは確かにそう言った。
彼はあの時、自らの身に禍々しい闇の力を解放し、今目の前にいる『影』と同じ悍ましい気配を、その身に纏った瞬間。
まるで忘れていた何かを思い出したかのように、そう叫んだのだ。
「——なるほどね」
アドリアンの口から確信に満ちた呟きが漏れた。
どうやら目の前の『影』は……いや、この『影』の、背後にいるのであろう『あの御方』とやらと、ノーマを操っていた存在は、同一。
「どうやってこの世界に来た……か」
アドリアンの顔から、笑みが完全に消え失せる。
そして星涙剣を、静かに正眼に構えた。
次の瞬間、剣の周囲に無数の星の欠片が、衛星のように集い、そして渦を巻き始める。
「……」
その力を目にして、それまで微動だにしなかったはずの『影』の輪郭が、初めて陽炎のように揺らいだ。
「当ててごらんよ。君は、俺のことをよく知ってるんだろ?」
混じり気のない純粋な殺気。それは嵐のように周囲の空間を震わせ、荒れ狂う。
『影』はあまりの圧に一瞬だけ、防御の構えを取ろうとする素振りを見せたが、次の瞬間には全てを諦めたかのように、その身を脱力させた。
そしてどこか遠い目をして、口を開く。
「──さぁ、分からないな。お前はいつだって、孤独だったから。多くの仲間に囲まれ笑っているようで、本当の意味でお前と『対等』な奴は、いなかったから」
「え?」
寂しげに紡がれた『影』の言葉。
アドリアンの殺気に満ちていたはずの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
その時であった。
『grrrrrr……!』
「シ、シャドリオスだ!また湧いてきやがった!」
「くそ、また出てきたのか……!?」
戦場の至る所から、再び忌々しい闇の軍勢——シャドリオスたちが、地面から姿を現し始めたのだ。
突如として戦場に湧き出た、おびただしい数のシャドリオスは一斉に、獣人たちへと襲い掛かる。
「っ!!みんな、気を付け──」
その光景にアドリアンが一瞬、気を取られた——まさに、その時。
「はぁっ!!」
「!?」
『影』が動いた。
神速としか、言いようのない絶対的な速度。
黒い靄でできた片方の手が、ギエンの襟首を乱暴に掴み上げる。
そして、もう片方の手が、空間そのものを薄い布を裂くように、無造作に引き裂いた。
世界が悲鳴を上げるような歪な音が響き、深淵の闇へと繋がる、空間の裂け目が口を開けていた。
『影』はすかさず、ギエンと共に闇の中へと身を翻す。
「しまっ——!」
アドリアンが影の鮮やかな離脱劇に即座に反応し、星涙剣を振りかざそうとする。
しかし既に『影』とギエンの身体は空間の裂け目の、向こう側へと入り込んでしまっていた。
それでもアドリアンは凄まじい速度で、空間の裂け目の中にいる二人に向かって最後の一撃を放とうと、剣を振り上げた。
だが。
「英雄よ。お前の最期を見届けてやるのが楽しみだ」
裂け目を挟んだ、向こう側から。
『影』の無機質で冷たい声だけが、静かに響き渡った。
「──!?」
その言葉を聞いた瞬間、アドリアンの思考が凍りついた。
振り下ろそうとしていた星涙剣が、ぴたりと空中で止まる。
「待──!!」
アドリアンの叫びも虚しく。
禍々しい時空の裂け目は、完全に閉じてしまった。
「……」
アドリアンの瞳が、信じられないものを見たかのように、驚愕に見開かれる。
だが、動きを止めている暇はなかった。
『guoooo!!』
「総員、陣形を崩すな!大部族の維持を見せろ!」
「怪我をしているものを守るんだ!」
背後から響いてくる、仲間の悲鳴と怒号。
振り向けば、先ほど『影』が陽動のために呼び出したおびただしい数のシャドリオスたちが、獣人の戦士たちへと襲い掛かっているではないか。
アドリアンは即座に思考を切り替える。
瞳から逡巡の色は消え、再び守護者としての英雄の光が宿った。
「……星の涙!変な奴は逃がしちゃったけど……みんなを守ろうか!」
アドリアンの言葉に呼応するかのように星涙剣から放たれる蒼き光が、戦場全体を照らし出すほどの輝きを放つ。
次の瞬間、彼は剣を円を描くように、優雅に振るった。
それは、剣舞。
美しく、無慈悲な星屑の円舞曲。
剣の軌跡から生まれた光の円環は、凄まじい速度で拡大していく。
そして、光に触れたシャドリオスたちは悲鳴を上げる間もなく、陽光に溶ける夜霧のように、一体残らず綺麗さっぱりと浄化され消滅していく──。
「は……え……!?」
「……なんだ……この光は……?」
一瞬にして訪れた、静寂。
先ほどまで大地を埋め尽くし、死闘を繰り広げていたはずの闇の軍勢が、跡形もなく消え去っている。
後に残されたのは剣を静かに下ろし、舞い散る光の粒子の中で佇む一人の英雄の姿だけ。
「ふぅ……少しやりすぎたかな。でも、ちょっとばかし鬱憤が溜まってたからしょうがないよな!」
神々しく、理不尽なまでの光景に。
その場にいた全ての獣人たちが、唖然と立ち尽くす。
先ほどまでの喧騒が嘘であったかのような静寂の中、舞い散る星の欠片が、祝福の光のようにキラキラと戦場を照らしていた。




