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第百七十二話

静寂に包まれた戦場へと、アドリアンとメーラ、そして、ナーシャが率いるセルペントスの軍勢が、颯爽と大地へと舞い降りた。

その中心で、アドリアンは芝居がかった仕草で一つ咳払いをすると、場の全ての注目を一身に集めて言った。


「さぁて、遅ればせながら主役の登場ってね!」


アドリアンはそう言うと、腕の中で未だに震えているメーラを、優しく地面へと降ろしてやる。


「や、やっと……やっと地面に足が!」


メーラは、その場にへたり込み、心底安堵のため息を漏らす。

その隣でナーシャとセルペントスの精鋭たちは、大部族としての威厳に満ち溢れた立ち姿で、大地へと足……いや、蛇の尾を着けるのであった。


「うーん、随分と懐かしい顔ぶれが揃ってるな」


颯爽と舞い降りたアドリアンは、視線をすぐ隣にいたアクィラントの長・ゼファーへと向けた。

ゼファーもまた、鋭い鷹のような視線で、戦場の空気を一変させた謎の人間を見つめ返す。

二人の視線が空中で交わった。


「人間……。そうか、貴様が件の……」


その声には警戒心が薄く滲んでいる。

だが、そんなゼファーの警戒をアドリアンは気にせず、友人に気軽に挨拶するかのように口を開く。


「やぁ、久しぶり!相変わらず不幸そうな顔してるな、ゼファー!」

「……な、なに?」


馴れ馴れしい、そして全くもって意味不明な言葉。

常に冷静沈着を信条とするゼファーも、ほんの僅かにではあるが表情に純粋な困惑の色を浮かべ狼狽える。


一方、同盟軍の兵士たちはアドリアンの後ろに控えるナーシャと、精強なるセルペントスの戦士たちの姿を見て歓喜の声を上げていた。


「おい……見ろよ!セルペントスだ!アドリアン様が、本当にセルペントスを味方に引き入れてくださったんだ……!」

「すげぇ……本当に、やり遂げやがった……!」


歓喜に沸く、戦場の喧騒の中。

ナーシャはふと、ヴォルガルドの兵士たちに介抱され、その身をぐったりと大地に横たえる瀕死のグレイファングの姿を瞳に捉えた。

そして彼女は、口元に無邪気な嘲笑を浮かべて言った。


「あー!見て見て、アドリアン!グレイファングのやつ、死にそうになってる!ぷぷーっ、いい気味!どうせ油断してたんでしょ、あの狼男!」


無邪気な嘲笑。

それを見て、瀕死のグレイファングは隻眼を見開いた。ゼファーもまた、眉を訝しげにひそめる。


「セルペントスの女王……?雰囲気が全く違うが……」

「ああ……もっと高飛車で、高慢な蛇女だったはずだが……」


セルペントスと敵対してきた彼らにとって、ナーシャという女王は決して侮ることのできない、計算高い蛇であったはずだ。

だが今、目の前で屈託なく笑う姿は中身だけが別人に入れ替わってしまったかのようであった。


「まぁまぁ二人とも。色々あって、本来の素直で可愛い彼女に戻ったってことさ。……それより」

 

アドリアンは飄々とした笑みを消すと、顔に真剣な表情を浮かべた。

そして、息も絶え絶えに膝をつくエルフの守護者レフィーラと、彼女を必死に支える小さな軍師モルの元へと近寄っていく。


「レフィーラ。……ごめんよ。君に負担をかけてしまった」


アドリアンは彼女の前に跪くと、青白い顔を心配そうに覗き込み肩を支える。

大精霊の力をその身に宿す、ということ──。それがどれほどの代償を彼女に強いたのか。アドリアンには痛いほどに分かっていた。


「アド……リアン。……ありがとう。貴方が渡してくれた、『保険』がなかったら……シルフィード様がいなかったら、私はきっとみんなを守りきれなかったから……」


レフィーラは弱々しいが、瞳に確かな感謝の光を宿らせて微笑んだ。

それを見て、アドリアンの胸は強く締め付けられた。

ある程度の第三勢力の介入は予想していた。だが、その脅威は自分の予想を遥かに上回っていたのだろう。

でなければ彼女がこれほどの代償を払ってまで、大精霊シルフィードの力を、その身に宿すはずがないのだから。


「アド!私、レフィーラさんを治療するよ!」


メーラはレフィーラの惨状に気付くや否や、すぐさま駆け寄り、回復魔法を発動した。


これで一安心だ──。

しかし、アドリアンは友への申し訳なさでいっぱいだった。

そんな彼の後悔を断ち切るかのように、隣にいたモルが叫ぶように言う。


「アドリアン様!詳しい経緯は、後ほど全てご説明いたします!ですが今、ご報告すべきは——中央で包囲されているハイエナの獣人こそが、この戦場をここまでかき乱した全ての元凶である、ということです!」


小さな軍師の的確な報告。

アドリアンは力強く頷くと、ついに「黒幕」へと視線を向けた。

その瞳には、優しい光はない。揺るぎない英雄としての、冷徹な圧だけを乗せて。


──だが。


「——え?」


しかし、アドリアンは包囲されている獣人——ギエンの顔を、はっきりと目に捉えた瞬間、全ての動きを止めた。

彼の瞳が、信じられないものを見るかのように、極限まで大きく見開かれる。


「君は……」


アドリアンの額から、一筋、冷や汗が伝った。

そして、その隣ではナーシャも、言葉では到底言い表すことのできないような奇妙な違和感を、覚えているかのように、身を固くしている。


「あのハイエナの獣人……なんだろう……見てると、胸がざわざわしてくる……」


アドリアンと、ナーシャ。

二人の異様な様子に気づいたモルは、不安そうに首を傾げる。


「アドリアンさま……?」


アドリアンは、はっと我に返ると、まるで何事もなかったかのように、口元にいつもの、飄々とした笑みを浮かべた。


「あ、あぁ。ごめん、モル族長。いやぁ、あそこにいるハイエナ君のもふもふとした尻尾の毛並みが、芸術的にキュートだから、つい見惚れちゃって」


白々しい言い訳。モルは何かの違和感を感じたままであったが──。

包囲の中心で、ギエンは軽薄に笑うアドリアンの姿を、ぎりり、と奥歯を強く噛み締めながら、見つめていた。


「——あぁ。貴方がアドリアンですか」


ギエンが甲高い声を発した、その瞬間。

アドリアンの飄々とした佇まいが僅かに揺らいだ。


「……俺の事を、知っているのかい?」


アドリアンの小さな問いに、ギエンは不敵な笑みを口元に浮かべる。


「ええ。それはもう」


ギエンは耳と尻尾の毛を威嚇する獣のように、ぶわりと逆立て、アドリアンを憎悪に満ちた瞳で鋭く睨みつけた。


「『あの御方』より、仰せつかっておりますからなぁ。貴方こそが、我らの大いなる計画の邪魔をする愚かな人間。そして、排除すべき最大の障壁である、と!」

「……なんだって?」


ギエンの口から語られる『あの御方』。

その言葉を聞き、アドリアンは瞬時に、かつてグロムガルド帝国を破滅に導こうとしたノーマを思い出す。

シャドリオスと共に帝国を蹂躙したノーマが言う『あの御方』。そして、シャドリオスの気配を全身から漂わせる、ハイエナの獣人。


──無関係であるはずがない。


「くくく……哀れな英雄様だ。『あの御方』に敵として認識されてしまった時点で、運命は決まったようなもの。魂の一片に至るまで、完全に焼き尽くされ、永遠の苦痛が約束されているのです……ひっひひ……ひゃははは!」


ギエンの楽しげな、狂ったような笑い。

それを聞いたアドリアンは、一瞬だけ、瞳にどうしようもない、悲しみの色を浮かべたが、それもほんの一瞬。

次の瞬間には全ての感傷を、英雄としての冷徹な仮面の下へと隠し、ギエンを真っ直ぐに見つめて言った。


「『あの御方』だの、永遠の苦痛だの……。随分と陳腐な単語で、聞いてるこっちが恥ずかしくなっちゃうね。まぁいいさ。センスの悪いお仲間さんたちの愉快な話は、まず君を捕まえてから、ゆっくりと聞かせてもらうことにしようかな!」


それを聞いたギエンは全く臆することなく、不敵に口元を歪めた。


「実はねぇ……もう貴方たちとおしゃべりしている『時間』はないんですよぉ」


その意味不明な言葉。

四方を完璧に包囲されているはずのハイエナの不敵な笑みに、その場にいた全ての者たちが得体の知れない悪寒と共に、その身を強く警戒させた。


最早万策尽きた筈。何故、まだ逃げれると思っているのか。


「——本当なら、こんな手は使いたくはなかった。だからこそ、私は周到に、策を巡らせた!……だが、もういい。今死ぬか、後で死ぬかの違いだ……ひひ……ひひひ……」


ギエンは両腕を天に祈りを捧げるかのように、高く掲げ叫んだ。


「——あぁ、我が主よ!そして『闇の騎士』様!どうか、この不甲斐なく無力なハイエナめに、慈悲深き救いと破滅の手を、お差し伸べください!この御恩は、必ずや我が魂を以てお返しいたします!だから、どうか、この場よりお救いください——!」


その悲痛な叫びと同時であった。


「──!?」


ギエンの頭上の空間が、鋭利な刃物で無造作に切り裂かれたかのように、悍ましく裂けた。


「なんだ……!?」

「分からん!だが……!背筋が……背筋が、凍るような、寒気が……する……!」


空間の裂け目から、溢れ出してくる、濃密で禍々しい気配。

ギエンを取り囲んでいた獣人たちが、全身の毛を一斉に逆立てる。


「ぐっ……あの、ハイエナ……!まだ何か、奥の手を隠し持っていたのか……!」

「全軍!武器を構えろ!まだ終わってはいない!」


グレイファングとゼファーが歴戦の経験から、即座にそれが脅しではないことを悟り、全軍に最大級の警戒を促す。

その隣で、ゼゼアラとイルデラもまた肌を刺すような悍ましい気配を、全身で感じ取っていた。


「イルデラ。油断するなよ」

「……ああ。油断するなって方が、無理な相談ってもんさ。あの禍々しい気配はな……!」


猛者中の猛者ですら額にじわりと冷や汗が滲み出る。

そして、アドリアンとナーシャはそれぞれの武器を構えながら、頭上で禍々しく歪み続ける空間の裂け目を睨みつけていた。


そんな中——。

全ての元凶であるはずの、ギエンもまた。

その身をわなわなと震わせ、正気ではないかのうような純粋な恐怖が入り混じった形相で、頭上を見上げていた。


「あぁ、恐ろしい!なんと、恐ろしい!──ですが、美しい!私はきっと……破滅するんだぁ——!ひっ……ひひっ……!」


意味不明な、恍惚とした叫び。


──それと、同時であった。


それまで不気味に裂けているだけであった、頭上の空間が大きく歪んだ。

異音。世界が悲鳴を上げているかのような、耳障りな音。


そして、歪みの中心から一つの黒い『影』が、べちゃり、と。

熟しすぎた果実が地面に落ちるかのような悍ましい音を立てて、ギエンの目の前に堕ちてきた。


不定形で、ぬめりを帯びた純粋な闇の塊。

その塊は意思を持ったかのように、蠢き始める。

次第に、黒い靄のような無数の触手が伸び、それらが絡み合い、一つの形を成していく。


──腕が、できる。

──脚が、できる。

──そして最後に、頭部ができる。


そこに立っていたのは、一体の人型をした、黒い靄。

身体に実体はない。輪郭だけが、ゆらゆらと揺らめいている。


「なん……だ……あれは……」


その場にいた誰かが、そう呟いた。

あまりにも悍ましい気配。

この世の理から外れた存在を前にして、百戦錬磨であるはずの屈強な戦士たちが本能的な恐怖から、じりじりと後ずさる。


まさに、その時であった。


『——貴様の滑稽な命乞い、確かに『あの御方』へと届けた。その願いを、叶えよう──』


闇が、喋った——。



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