第百七十話
暖かな陽光が降り注ぐセルペントスの里。
その広場の中央、新しく芽吹いた柔らかな草の上に、ナーシャは、静かに横たわっていた。
彼女がゆっくりと周囲を見渡すと——そこには夢のような光景が広がっていた。
「あったかーい!」
「まさかこの里で太陽が見れるとは……」
里の全ての者たちが。
老人も、子供も、そして戦士たちも。
皆が皆、その身を温かい太陽の光へと委ねている。
気持ちよさそうに、蛇の尾をぱたぱたと揺らしながら。
鱗を一枚一枚、丁寧に慈しむように日干ししながら。
顔に満ち足りた穏やかな笑みを浮かべて。
長年、里を覆っていた暗い呪いから、ようやく解放された喜びを、全身で噛み締めている──。
「……」
ナーシャは呆然と、その平和な光景を見つめていた。
──何故。こんなにも心も身体も、温かいのだろうか。
太陽の光など、他の部族と血で血を洗う戦いを繰り広げてきた戦場で、嫌というほど浴びてきたはずなのに。
「どうして……」
どうして、ただ陽の光を浴びているだけなのに。
こんなにも嬉しいのだろう——。
「ナーちゃん」
不意に、すぐ傍らから優しい青年の声が彼女を呼んだ。
アドリアンだ。
彼は腕にすっかりと気を許しきった魔族の姫メーラを優しく抱きかかえながら、他の里の者たちと同じように地面に気持ちよさそうに寝そべり、日向ぼっこを楽しんでいた。
「うぅん……」
メーラはアドリアンの腕の中で、温かい太陽の光を感じながら、心地よい微睡みの中にいた。
そんな彼女を愛おしそうに抱きしめながら、アドリアンは隣に寝そべるナーシャに向けて、悪戯っぽく微笑む。
「太陽さんをすっかり気に入ってくれたみたいだね、ナーちゃん」
──ナーちゃん。
馴れ馴れしい呼び名。
ほんの数日前までであれば、どこの馬の骨とも知れぬ人間にそんな名前で呼ばれるのは、殺意が沸くほどの嫌悪感を覚えていたはずだ。
だが、不思議と今はそんな気は全くわかない。
それどころか、ずっと昔からそう呼ばれていたかのような、どこか懐かしい響きさえ覚えていた。
「うん」
アドリアンの問いに、ナーシャは女王としての格式張った答えではなく、一人の少女としての素直な口調でそう答えていた。
もう、無理に自分を大きく見せようとする演技のような口調は、温かい陽光の前では喋る必要がないと感じていたからだ。
「暖かいの。とっても、とっても暖かいんだ……」
彼女の瞳に映るのは、自分と同じように、里の仲間たちが太陽の光を浴びて喜んでいる姿。
そこにいたのは孤高の女王ではない。
自らの民をら愛おしみ、幸せを誰よりも願う、一人の心優しき蛇の少女、ナーシャ。
「私ね」
ナーシャは気持ちよさそうに、両腕を大きく広げて寝転がった。
「なんだか夢を見ていたような気がするの」
ぽつりと漏らされた言葉に、アドリアンは一瞬だけ、何か遠い過去を思い出すかのような、切なげな表情を見せた。
「どんな、夢?」
「さぁ。覚えてない。だけど……」
ナーシャは無垢な表情を隣に寝そべる英雄へと向け、言った。
「なんだかとっても懐かしくて……。とっても悲しくて……。でも、ずっとずっとこうしていたかったんだって心の底から願ってたような、そんな不思議な夢……」
その言葉に呼応するかのように、先ほどアドリアンが顕現させた『星の涙』の名残の光が広場の上空で輝いた。
目に見えないほどの細やかな光の粉が、平和を祝福するかのように、きらきらと地上へと降り注いでくる。
その光がナーシャの白い肌に触れるたび、彼女の胸は締め付けられるように切なくなった。
どうしてだか分からないけれど。
隣で優しく微笑んでいる、この青年に対して、心の底から申し訳ないという気持ちが、止めどなく湧いてくるのだ。
そんな不思議な感覚を感じていると、不意にナーシャの瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
だが、ナーシャはそれを隠そうとはしなかった。
アドリアンはそんな彼女の姿を見て、一瞬だけ瞳に深い悲しみの色を浮かべたが、次の瞬間にはそれをいつもの優しい笑顔の下へと、隠した。
そして、言った。
「奇遇だね、ナーちゃん。…俺もさっきまで夢を見ていたんだ。胸悲しくて……そして寂しい夢を」
「え……?」
ナーシャが、不思議そうにアドリアンを見る。
だが、彼の顔に浮かんでいたのは悲しみの色ではない。
心の底から、この瞬間を慈しんでいるかのような、穏やかで慈愛に満ちた笑顔であった。
「悲しくて寂しい夢?でもアンタ、すごく嬉しそうじゃない」
アドリアンの幸せそうな笑顔を見て、ナーシャは思わずそう呟いた。
それに対し、アドリアンは一度だけ強く頷いて言った。
「そりゃ、そうだよ。だって……」
彼はナーシャが日向ぼっこをしている光景を瞳に焼き付けながら、続ける。
「──今、俺は夢の続きを見ているんだからね。悲しいけど、嬉しい夢の続きを……」
不思議な言葉。
それを聞いたナーシャは一瞬、きょとんとして、大きな瞳をぱちくりとさせた。
だがやがて、釣られるように少女のような可愛らしい笑みを漏らす。
「あはは、なにそれ。馬鹿みたい」
ナーシャはそう言うと、先ほどまでのどこか儚げな表情が嘘のように、心の底から楽しそうに、けらけらと笑い声を上げた。
──快活で、彼女らしい笑顔。
それを見て、アドリアンもまた満足げに笑う。
「そう。馬鹿なんだよ、俺ってやつはさ」
「そうね。本当に、馬鹿だわ。アンタも……そして私も……」
星の涙が残した無数の光の粉が舞う中で。
二人の……そして、周りで幸せそうに日向ぼっこをする仲間たちの温かい笑い声が一つになって。
どこまでも、澄み渡る青い空へと響き渡っていった。
その心地よい喧騒の中。
アドリアンの腕の中では、メーラがむにゃむにゃと幸せそうな寝言を一つ呟くと、さらに温かい胸の中へと、深く身をすり寄せるのであった。
♢ ♢ ♢
セルペントスの里、中央広場。
そこにはセルペントスの精鋭たちが、一糸乱れぬ隊列を組んで集結していた。
そして、彼らの前で腕を組み、堂々と声を発するのは——。
「さぁ!アンタたち!準備はいい!?刀はちゃんと研いできた!?毒は塗り忘れてないでしょうね!?」
弾むような声の主は、女王ナーシャ。
いつもと違う彼女の様子に、セルペントスの戦士たちは思わず顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。
「……女王様、なんだか変じゃないか?」
「あぁ……いつもの誰も寄せ付けないような喋り方と違うっていうか……」
「妙に、幼くなってらっしゃるような……?」
彼らが知る女王ナーシャの美しい見た目は、今までと何一つ変わってはいない。
だが……なんというか、身から放たれる雰囲気と口調が、まるで別人なのだ。
以前の、どこか常にピリピリとしていて、高飛車で傲慢ですらあった、孤高の女王の姿はどこにもない。
今の彼女は戦いを前にして、心が躍るのを隠しきれない少女のようであった。
そんな部下たちの戸惑いなど全く意に介さず。
ナーシャは、なおも兵士たちの士気を(彼女なりに)高めようとする。
その時、彼女の熱意を隣に立つアドリアンが、肩を竦めながら制した。
「まぁまぁ、ナーちゃん。そんなに、肩肘張らなくても、大丈夫だって。これから行くのは、世界の運命を賭けた絶望的な戦場じゃなくて、ちょっとした『お散歩』なんだからさ。そのついでに、ちゃちゃっと大草原を救ってきちゃうだけさ」
「でもさ~、こういうのは雰囲気が肝心じゃない?見せかけでも、威勢がいいに越したことはないでしょ?」
親しげな対等な二人のやり取り。
それを見たセルペントスの戦士たちの困惑は、更に大きくなった。
(ナーシャ様があの人間と普通に会話を……?)
(あんなにも忌み嫌っていたはずなのに、何故……?)
そんな困惑の輪が広がる中——。
「……??」
アドリアンの隣で二人の会話を、目をぱちくりとさせて聞いている、メーラも困惑の渦中にいた。
──おかしい。
さっきまで、蛇の女王様は最高に不機嫌で「殺す」だの「出て行け」だの、物騒な言葉しか吐いていなかったはずなのに……。
どうして急に、親しげに楽しそうに会話してるんだろう……?
彼女には急激なナーシャの心変わりの理由が、全くこれっぽっちも理解できていない。
だが、それも当然だ。他の誰にも、彼女の変化の理由が分かるはずもない。
なぜなら、他ならぬ女王ナーシャ自身にも、明確な理由など分かってはいなかったのだから。
ただ、心がそうしろと叫んでいる。魂が、そうしたいと熱望している。
目の前の英雄と共に、未来へ進めと──。
「さぁ、行くわよ!アンタたち!英雄と共に大草原を救いにね!」
ナーシャの一点の曇りもない力強い宣言が、広場に響き渡った。
──アドリアンにより、里の呪いが解かれた後。
セルペントスの女王ナーシャは、英雄アドリアンの要請を快く承諾した。
里を長年覆っていた忌まわしき呪いを、奇跡の力で解いてくれた恩人。
そして里の民たちの心を圧倒的なカリスマと優しさで掴んだ、英雄。
英雄に、恩を返すために。
大草原そのものを緩やかな死へと蝕む、霊脈の異常を彼と共に治すために。
セルペントスはアドリアンに全面的に協力することを宣言したのだ。
そうしてナーシャは自らが率いる兵を纏め『みんな仲良し!平和大好き!』を掲げる風変わりな同盟軍へと合流すべく、こうして出陣前の最後の鼓舞を行っていたのだ。
「さぁ!アンタの仲間たちが、ヴォルガルドの軍勢と戦ってるんでしょ?ぐずぐずしてないで、早く行くわよ!」
ナーシャはそう言うと、慣れ親しんだ薄暗い里の出口へと向かおうと、しなやかな蛇の尾を力強く動かす。
しかし、その時だった。
「おっと、待った!せっかく素敵な『天窓』を作ったのに、わざわざジメジメした、くらーい昔ながらの出口から出ていくつもりかい?」
アドリアンに行く手を、楽しげに遮られる。
ナーシャは怪訝な表情で彼の顔を見上げた。
「天窓って……?一体、何の話よ」
ナーシャの問いに、アドリアンは悪戯っぽい笑みを浮かべると、両腕を大きく広げた。
そして、指を天高く——先の奇跡によって長年の呪いであったはずの木々が取り払われ、うららかな陽光が差し込む快晴の空を指し示して、言った。
「せっかく太陽と再会できたんだ。だったらもっと、太陽のすぐ近くで最高の景色を眺めながら、戦場へと派手に登場しようじゃないか!その方が、英雄とその仲間たちの登場シーンとしては百倍はカッコいいだろ?」
そう言うと、アドリアンは、傍らにいたメーラの華奢な身体を、ひょいとお姫様抱っこで抱え上げた。
「ア、アド!?」
突然の浮遊感にメーラが素っ頓狂な声を上げる。
何事かと驚愕するメーラだったが、アドリアンの腕の中にすっぽりと固定されて何も言えなくなってしまった。
ナーシャが英雄の謎すぎる行動に、「一体、何を──」と、言葉を続けようとした、まさにその瞬間であった。
「……!?」
ふわり、と。
ナーシャとアドリアがまるで、羽毛にでもなったかのように宙へと浮かび上がったのだ。
──いや、違う。
二人だけではない。
「なっ……なんだ!?」
「か、身体が、浮いてる……!?」
広場に集結していたセルペントスの戦士たちの身体が、アドリアンを中心に見えない風にでも持ち上げられるかのように、次から次へと宙へと浮かび上がっていく。
「空飛ぶ蛇さんたち……きっと素敵な光景になるはずだ!」
アドリアンがそう叫ぶと、彼らはそのまま抗うことのできない力で、大空へと舞い上がっていくのであった。
「た、高い!?」
「これは……英雄殿の魔法か……?」
長年里を覆っていた呪いの天蓋を突き抜け、その遥か上へ——。
彼らがずっと夢にまで見た、どこまでも広がる青い空と、温かい太陽の光の中へと。
そうして、彼らは大空へと舞い上がった。
遮るもののない、どこまでも広がる太陽の光。眼下に広がる、フェルシル大草原の雄大な絶景。
セルペントスの戦士たちは、生まれて初めて知る大きな自由に歓喜の声を上げる。
その中で、アドリアンにぎゅっと身を固くしてしがみついているメーラだけは、あまりの高さに決して目を開けようとはしなかったが。
「これが、空……」
ナーシャは呆然とこの光景を、瞳に焼き付けていた。
大空を舞う圧倒的な快感と、眼下に広がるどこまでも続く緑の絶景。
その全てが彼女の、心を満たしていく。
「どうだいナーちゃん?いつも羨ましそうに見ていた鳥の獣人さんたちよりも、ずっと目立ってるじゃないか。これなら太陽さんも、特別に一番の光を当ててくれるに違いないよ」
隣を飛ぶアドリアンが、にこやかに軽口を叩く。
その言葉に、ナーシャは穏やかな笑みを浮かべて、こう返した。
「何言ってるのよ。私は地上にいたって、空を飛ぶどんな鳥よりも、ずっとずーっと目立ってたんだから。──昔からずっとね」
その言葉と共に、彼女の美しい七色の尾が太陽の光を反射して、煌めいた。
楽しげなナーシャの笑顔と、尾の懐かしい煌めき。
それがアドリアンには眩しくて、そして懐かしくて——。
「あぁ、そうだったね。キミは誰よりも優しくて、世界で一番輝いている女王様だ。──そう、昔からずっと……」
アドリアンの瞳から、一筋だけ涙が零れた。
英雄の切ない涙は、大草原を渡る優しい風の中へと、静かに消えていった。




