第百六十九話
熱い。
ただひたすらに熱い。
でも。
不思議と身体の痛みは、どこにも感じなかった。
暖かい陽だまりの中に、その身を沈めていくかのような穏やかな感覚。
ナーシャの意識はひどく朦朧としていた。
薄れゆく視界の中で、彼女はぼんやりと目の前にある一つの顔を見上げていた。
(──泣いてる)
アドリアンが、泣いている。
いつもふざけて、からかって、軽やかに世界そのものを楽しむかのように笑う彼が。
今は迷子の子供のように、顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、声を上げて泣いている。
(どうして、泣いているの?なんでそんなに、悲しそうな顔をしているの……?)
純粋な疑問。
その答えはあまりにも簡単だった。
(あぁ、そうか。私がこれから死ぬからだ)
その単純な真実に、彼女は静かに思い至る。
「ナーシャ……」
アドリアンの純粋な悲しみの表情。
それを見た、瞬間。
ナーシャの心にずっとこびりついて離れなかった、悍ましい幻影——血の海の中で、獣人たちを無慈悲に虐殺していく冷酷な暴君の姿が、陽炎のように綺麗さっぱりと消え去っていった。
こんなに、優しい青年が。
こんなに、温かい涙を流してくれる青年が。
(──みんなを殺せるわけ、ないじゃない)
後悔の念が薄れゆく意識を締め付ける。
だが、不思議と心は穏やかだった。
幻影によって汚された心が、アドリアンの本当の優しい魂の輝きによって、消え失せていくかのように。
「待ってろ、ナーシャ!今、回復魔法を……!」
アドリアンは、必死だった。
手の中に、神聖な治癒の光を収束させ、ナーシャの半分炭と化した身体へと、かざそうとする。
しかし、その手は届かなかった。
ナーシャが最後の力を振り絞って腕を伸ばし、アドリアンの腕を掴んで制したのだ。
「だ……め……」
──もう、助からない。
それに、アドリアンの魔法を受ける資格なんて、自分にはない。
弱々しい、しかし確かな拒絶。
アドリアンが「どうして!」と悲痛な声を上げる中、ナーシャは、何かを思い出したかのように、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
それは、謝罪の言葉でも感謝の言葉でもない。
ひび割れた唇からこぼれたのは、彼女の最後の願いであった。
「ねぇ……『ナーちゃん』って……呼んで……いつもみたいに……友達みたいに……」
この場に似つかわしくない意外で、ささやかな願い。
彼は一瞬、困惑にを見開く。だがすぐに、その言葉に込められた、彼女のたった一つの本当の想いを悟る。
アドリアンの瞳から、こらえきれなくなった涙がぼろぼろと大粒の雫となって流れ落ちていく。
「……あぁ。——ナーちゃん」
震える声で絞り出すように、愛称を呼んだ。
——ナーちゃん。
それは、アドリアンと親しくなってから、彼だけが呼んでくれた特別な名前。
女王としてでもなく、気高い戦士としてでもなく……。
ただ一人の、大切な「友達」として、彼が呼んでくれた名前。
少しだけ舌足らずで、どことなく優しい響きを持つ名前が、ナーシャは大好きだった。
「ナーちゃん。大丈夫だ。俺が、ついてる……」
ナーシャの心は不思議なほどの安らぎに満たされていく。
彼女の心にあれほど深く巣食っていたアドリアンへの疑念や恐怖は、今や完全に跡形もなく消え失せていた。
そこにあるのは、かけがえのない友への信頼と愛情と……後悔だけ。
「アドリアン……私の、こと……責め、ないの……?」
後悔が、ナーシャにそう言わせた。
自分を殺そうとした、愚かな裏切り者をなぜ責めないのか、と。
アドリアンは力なく、優しく笑った。
「ナーちゃんが何の理由もなく、俺を殺そうとするわけないじゃないか。きっと君はこうするしか、なかったんだろ?……それにもし、本当に君が俺を殺さなきゃいけない、って本気で思ったんだとしたら……」
そして、こう言ったのだ。
「──なら、仕方ないかなって。ナーちゃんになら、殺されても構わないから」
そんなアドリアンの、信頼しきった言葉。
その瞬間、ナーシャのかろうじて保っていた理性が完全に崩れ落ちた。
彼女の焼きただれた瞳から、大粒の涙がぼろぼろと後から溢れ出してくる。
幻影に囚われ、心の弱さを露呈し、そして彼を裏切った、この自分を。
アドリアンは、まだそれでも信じている、と。
「あは……はは……」
とめどなく零れ落ちる涙の中、彼女は自嘲気味に言った。
「……笑っちゃう……よね。セルペントスの奇襲は……誰にも止められない、なんて豪語してたのに……ベゼルヴァーツも討ち取れず、挙句の果てには……このザマだもの……」
もはや自分自身を支えることすらおぼつかない。
「……私、前線で戦うより……女王様として……指揮でもしてた方が……お似合いだったのかもね……」
そんな冗談を言いながらも、涙は止まらない。
アドリアンは変わり果ててしまった戦友の身体を、強く抱きしめる。
「ごめんね……アドリアン……」
「俺の方こそ、ごめんよ……。ナーちゃんは一人で追い込まれていたのに……気づいてやれなかったんだ。英雄、失格だ、俺は……」
アドリアンはそう呟き続ける。
そんな彼の腕に抱きしめられながら、ふとナーシャの薄れゆく視界が、アドリアンの遥か向こう側を捉えた。
「……?」
そこに、在った。
アドリアンと共に、この世界に存在する世界の希望の結晶——『星の涙』。
それはまるで彼女の魂を導くかのように、淡い光を放ちながら、静かに浮かんでいた。
「ぁっ……」
次の瞬間だった。
ナーシャの瞳に、脳裏に。とある不思議な光景が映り込み始める。
それは今、この瞬間ではない。
未来でも、過去でもないどこか別の世界の光景。
(わぁ……)
アドリアンが楽しげに指を鳴らす。
すると、色とりどりのキラキラと輝く光の蝶が、里の中を優雅に、楽しげに乱舞していく。
彼が一度地面を軽く踏み鳴らせば、里の石畳が鍵盤のように、ぽろんぽろんと澄んだ優しい音色を奏で始める。
平和で温かい光景に、セルペントスの仲間たちが、皆心の底から幸せそうに笑っている。
そして——。
「……!?」
最後にアドリアンが、手に持つ星涙剣を天へと掲げる。
すると、長年里を覆い尽くしていた、忌々しい呪いの天蓋が、ゆっくりと道を開け……。
そこから一本の巨大な、温かい太陽の光が里の中へと、降り注いでいく。
「あ……あぁ……」
ナーシャは腕を導かれるかのように、星の涙へと伸ばした。
そして、瞳に未来とも過去とも、ただの夢ともつかない温かい光景を映しながら、うわごとのように呟いた。
「見える……見えるの……」
「え……?」
アドリアンが困惑の声を上げる。
だが、そんな彼の声も、今のナーシャには届いていない。
彼女は、ただ、瞳に映る奇跡の光景をありのままに言葉にしていく。
「アドリアンが……里のみんなを……喜ばせてくれてる……。光の蝶を飛ばしたり……魔法の音楽で賑やかにして……。最後に呪いの森を……切り開いてくれる光景が……見えるの……」
この世界では叶うことのないはずの彼女の願い。
それを聞いたアドリアンは、顔をどうしようもない悲しみに歪ませ、目を伏せた。
そして彼は子供に言い聞かせるかのように、優しく約束する。
「……ああ。そうだよ、ナーちゃん。俺が全部呪いを解いてあげる。君の目の前で、里のみんなを、笑顔にしてあげる。だから安心して眠っていいんだよ……」
そして、ナーシャの頭を撫でながら言う。
「君が次に目を覚ました時には……。きっと里のみんなと、一緒に日向ぼっこをしてる。みんな、君のおかげで幸せそうに笑ってるんだ」
悲しい、嘘の言葉。
それを聞いたナーシャの焼きただれた顔に全ての苦しみから解放されたかのような、穏やかな安堵の表情が浮かんだ。
そして細い声で、最後の我儘を言った。
「……そっか……じゃあ、その時は……アドリアンも一緒に……日向ぼっこ、しようね……」
アドリアンの言葉を信じ切ったナーシャの誘いに、アドリアンは涙を流しながら、笑った。
「……約束だ、ナーちゃん。必ず君と一緒に、日向ぼっこをしよう──」
友の温かい言葉を聞きながら、ナーシャの意識はゆっくりと、永遠の眠りへと落ちていく。
「──」
彼女の手が力なく、垂れ下がる。
最後に永遠に閉じられていく、美しい瞳に映ったのは——。
声を殺し、子供のように顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、涙を流し続ける一人の英雄の顔であった。
♢ ♢ ♢
(──暖かい)
ここはどこだろう。
なんだか、とても長い間、眠っていたような気がする。
そして何か悲しい夢を、見ていたような気がする……。
どんな夢を見ていたのか、もう思い出せない。
ただ胸が締め付けられるような切ない感覚の残滓だけが、心の奥底に微かに残っている。
(……まぁ、いいか)
今はただ、全身を優しく包み込む陽だまりのような温かさに身を委ねていたい。
ずっと、このまま眠っていたい……。
でも、そんな心地よい微睡みの中にいた、まさにその時だった。
「──ナーちゃん」
──誰かが、呼んでいる。
優しくて、懐かしくて、絶対に忘れてはいけない声。
そうだ、この声に応えなくちゃ。
私には、約束がある。いや、約束されたんだっけ……?
どっちだったか、もう分からないけれど。
ようやく、心地よい微睡みに沈んでいた、瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……?」
最初に目に飛び込んできたのは、柔らかな黄金色の光。
そして——どこまでも広がる、澄み切った青い空。
(……きれい)
薄暗い呪いの天蓋は、どこにもない。
温かい、お日様の光が優しく包み込んでくれている。
「わたし、は……」
心地よい温かさの中で、ナーシャは夢の続きを求めるかのように、顔を横へと向けた。
そして、そこにいた。
「──やぁ、ナーちゃん。日向ぼっこ、楽しんでるかい?」
そこにいたのは。
子供のように涙を流していた悲しい英雄の姿ではない。
どこまでも、優しく。
どこまでも、穏やかに。
にこり、と。
春の陽だまりのような温かい笑みを浮かべたアドリアンが、隣で気持ちよさそうに寝転がっていた。




