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第百五十二話

シャドリオスが戦場を蹂躙する混沌。


その真っ只中を、ギエンは散歩でもするかのように、疾風の如き速さで駆け抜けていた。

彼は、禍々しい闇の爪を振るい、獣人たちを雑草でも刈り取るかのように、次々と薙ぎ倒していく。


「ひっひひ……!弱い、弱い、弱すぎますよぉ!獣人の誇りとやらは、この程度のものですか!」


心底楽しげな、侮蔑に満ちた高笑いが戦場に響き渡った。


「あのハイエナ野郎……!殺してやる!」

「待て、イルデラ!敵が多すぎる!まずはこいつらを殲滅しないとまずい!」

「……くそっ!」


イルデラが怒りに任せてギエンへと向かおうとするが、無限に湧き出るシャドリオスの黒い壁に阻まれ、近づくことすらできない。

そんな彼らの無力な怒りを嘲笑うかのように、ギエンは足を止めた。


「ああ、もう。見ていてじれったい。仕方ありませんねぇ。この私自らが、貴方たちに『絶望』というものを、もっと、もっと分かりやすく、教えてしんぜましょう」


そう言うと、ギエンの痩身からこれまでとは比較にならない禍々しい闇のオーラが爆発的に放たれた。

瞬間、ギエンの姿が陽炎のようにぐにゃりと歪む。

彼の痩身は禍々しい闇のオーラに完全に包まれ、もはやハイエナの獣人としての輪郭すら失い、人型の影そのものと化していった。


「さぁて──まずは、一人、と」


その、冷たく響いた呟きと同時。

影は、ヴォルガルドが誇る屈強な大戦士の一人の目前に音もなく、何の前触れもなく出現していた。


「っ……!?」


歴戦の猛者であるはずの大戦士が、その出現に反応することすらできなかった。


「がぁっ……!!」


ギエンの闇そのものと化した爪が、大戦士の分厚い胸当てを紙のように貫き、心臓を一突きにしたのだ。

狼の戦士は、信じられないといった表情で自らの胸を見下ろし、そのまま崩れ落ちた。


「ひっひひ……」

「テメェ……!」

「か、囲め!相手は一人だ!殺しちまえ!」


ギエンは影の姿のまま、今度は同盟軍の陣形へと単騎で突っ込む。

それを阻止しようと、数多の戦士たちが武器を構え、攻撃するが──。


「シャアッ!!」


ギエンがその腕を軽く振るうだけで、魔法のような黒い衝撃波が放たれた。

そして、進路上にいた獣人たちを、まとめて吹き飛ばしていく。


「なんだこいつは……!?」

「つ、強すぎる……!」


兵士たちの怨嗟の声が響く中、影と化したギエンは次々と獣人たちを屠り続けた。

イルデラやゼゼアラですら、無数に湧き出るシャドリオスの群れを捌きながらでは、その影に追いつくことすらできない。



──そんな絶望的な状況の中。



レフィーラは懐から放たれる温かな光に包まれていた。


「石が、光って……?」


アドリアンからの託かりものである鉱石は、生きているかのように、温もりと力強い脈動を伝えてくる。

石が放つ、穏やかで優しい緑色の光。それは不思議と、地獄の只中にありながら彼女の焦りと恐怖に満ちた心を落ち着かせる力があった。

それはどこか懐かく、優しい光——。


(そうだ……アドリアンは、言ってた。もし「何か」があったら、これを掲げるんだって……!)


レフィーラはこの石こそが、唯一の希望であることを悟る。

何かに導かれるように、レフィーラは、その光り輝く石を、天高く掲げタ。


「お願い!私に力を貸して!」



私の、愛しい人。


私の、英雄さま。


──どうか、私に力を。



レフィーラの掲げた鉱石が、一際強い輝きを放った。

パリン、と。澄んだ音と共に、石は砕け散った。そして、翠色の星屑は無数の緑色の光の粒子となって戦場の空へと舞い上がる。


(──綺麗)


戦場の喧騒も、シャドリオスの不気味な叫び声も、全てが遠のいていく。

レフィーラは、目の前で繰り広げられる幻想的な光の舞に、心を奪われていた。

こんなにも温かく、優しい光があるなんて──。


「光……?」

「どこから光が……」


戦いの最中、戦士たちがどこからともなく降り注ぐ光に注意を奪われる。

光の粒子は、意思を持っているかのように、一点へと収束し——やがて、人型へと形を変える。


「おい!あれを見ろ!空に、なにか……」


その姿は、風そのものが人の形を成したかのように清涼で。

身体は透き通るような翠色と、清らかな白光を帯びた風でできており、常に輪郭を優雅に揺らめかせている。

長く流れる髪は、春のそよ風を束ねたかのように軽やかで、双眸は澄み切った大空の色をしていた。

穏やかで、優しく。

だが、戦場の禍々しい闇の全てを浄化してしまうほどの、絶対的な存在感。


「精霊……?」

「違う……あれは……ただの精霊じゃない……」


その場にいる者たちは、本能で理解した。

あれこそが、伝説に謳われる、世界の理を司る大いなる存在。


風の大精霊『シルフィード』。


その神々しい姿を前にして、戦場の喧騒が、ぴたりと止んだ。

シャドリオスも、獣人たちも……そして、惨劇を引き起こした張本人であるギエンすらも、一瞬戦うことを忘れ、顕現した存在に、息を呑む。


「大精霊……!?ば……馬鹿な!なぜ、このような場所に上位存在が……!?」


ギエンの顔から、初めて余裕という名の仮面が剥がれ落ちた。

今の彼を彩るのは純粋な驚愕と、恐怖の色だ。


──大精霊。

それは、長寿であるエルフでさえ、一生のうちに一度目にすることができれば奇跡と言われるほどの最上位の精霊。

ただ魔力を持つだけの存在ではない。風、大地、火、水といった、世界の理そのものを司る「概念」が、意思と人格を持って、この世に顕現した姿。

それはもはや、神に等しい高次の存在なのだ。


「大精霊……さま……?」


レフィーラもまた、信じられないものを見上げるように、その名を震える声で呟いた。

風の大精霊シルフィードは、その大空色の瞳で、眼下のレフィーラを、慈愛に満ちた表情で、優しく見下ろした。

そして、古い友人に語りかけるかのように、その声が直接レフィーラの魂へと響く。


──アドリアンの友達。それに、『精霊の武器』を持つエルフ……いい子ね。私の力を少しだけ、貸してあげる──


「!」


て温かい声に、レフィーラが驚愕に目を見開いた、まさにその瞬間。


「えっ……えっ!?」


シルフィードの風でできた半透明の身体が、ふわりとレフィーラの身体を、風の衣のように優しく包み込んだ。

二つの存在が、一つに溶け合っていく──。

直後、レフィーラの身体から、これまでとは比較にならないほどの凄まじい魔力が迸った。

金色の髪は、溢れ出る風の力によって激しく天へと逆立ち、金色から翠色に変わり──大精霊の輝きそのものを宿して、神々しいまでの光を放っていた。

それはまさしく、風の守護者が真の姿を現した瞬間だ。


「わ……ぁ」


自身の内から、そして世界そのものから無限の力が流れ込んでくるのを感じる。


「こ、これなら……」


レフィーラは強大すぎる感覚に、驚愕に目を見開いた。


「──これなら、みんなを助けることができる!」


その決意の言葉と共に、彼女の姿が、戦場から掻き消えた。

──否、消えたのではない。

風と一体となったレフィーラは、もはや獣人たちの動体視力では、動きを捉えることすらできなくなっていたのだ。


「な……なんだ、ありゃあ……!?冗談だろ……!?」


イルデラが、その信じられない光景に、呆然と呟くの同時だった。

翠色の閃光と化したレフィーラが、戦場を駆け巡る──。


「giiiii!?」


彼女が優雅に指を鳴らせば、その場に巨大な竜巻が発生し、無数のシャドリオスを軽々と天へと巻き上げていく。


「弓よ!全てを貫け!!」


彼女が精霊弓を一度放てば、たった一本の光の矢が、上空で数百の鋭い風の刃となって分裂し、眼下の闇の兵士たちを慈悲のかけらもなく一掃する。


それは、グレイファングが見せた全てを力で捩じ伏せる「剛」の武とは、全く質の異なるもの。

触れることすらできぬままに、全ての敵を薙ぎ払っていく、優雅で圧倒的な「柔」の蹂躙。


「あれが……エルフの守護者が大精霊の力を借りた、真の姿……」


ゼゼアラもまた、その神話の如き戦いぶりに、ただ息を呑む。

翠色の閃光と化したレフィーラが戦場を駆け巡るたびに、シャドリオスの黒い群れは跡形もなく消滅していった。


「お……おぉ!?」


シャドリオスに囲まれ、まさにその命が尽きようとしていた同盟軍の熊の戦士。

彼の頭上を、レフィーラが風のように通り過ぎると、周囲にいたはずの闇の兵士たちは、一瞬にして風の刃に切り刻まれ、霧散していた。


「た、助かった!」

「あれは……レフィーラ様……?」


味方が次々と倒れ、絶望的な状況で盾を構えていたヴォルガルドの若い兵士。


「くそっ……最早、ここまでか!」


彼に向かって、数十体のシャドリオスが禍々しい爪を振り上げた、まさにその瞬間。


「!?」


凄まじい竜巻が、シャドリオスだけを的確に天へと巻き上げ、雲の彼方へと吹き飛ばした。

呆然と見上げる狼の兵士の目に映ったのは、一瞬だけこちらを振り返り、優しく頷いたかのように見えた、エルフの守護者の姿。


「な、なんだ……!?」


神々しいレフィーラの救済劇の、ほんの片隅。

戦場の一角では、全く別の……しかしある意味で壮絶なドラマが繰り広げられていた。


「ひぃぃぃ!な、なんでわしの方にばっかり来るんだ!あっちにもっと美味そうなのがいっぱいおるだろうがぁ!」


元ルミナヴォレン族長フェンブレが、涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫していた。

彼は先ほどモルを助けたことで、この周辺にいたシャドリオスのヘイトを、一身に集めてしまったらしい。

気づけば彼の後ろには、数百体は下らないであろうシャドリオスの黒い津波が迫っていた。


「Gyaoooooooo!!!!!」

「おのれ、これもあの人間のせいじゃ!わしは何も悪くないのにぃ!」

「あ、あんまり揺らさないでぇ……!」


小脇に抱えられたモルは、あまりの恐怖と上下左右に激しく揺さぶられる衝撃で、既に目を回して気を失いかけている。

そしてついに運動不足の肥満体が祟ったのか、フェンブレの足とキツネの尻尾がもつれ、彼はモル共々、派手にすっ転んでしまった。

背後に、無数のシャドリオスの爪が迫りくる──


「お、終わった……わしの、手柄と人生が……!いやぁぁぁぁー!!!!」


フェンブレが全てを諦めた、その瞬間。


「!?」


天から一本の、巨大な光の矢が降り注いだ。

それは、彼らを追いかけていた数百体のシャドリオスを、一体残らず綺麗さっぱりと貫き浄化していく。


「……へ?」


何が起こったのか分からず、呆然と振り返るフェンブレの目の前に、風の衣を纏ったレフィーラが、音もなくふわりと舞い降りた。


「もー、キツネさん!あんまり派手に逃げ回ってると、かえって目立っちゃうんだから!モル君が可哀そうでしょ!」


まるで悪戯っ子を叱るような、しかし神々しいまでの力に満ちた姿に、フェンブレは、ただ「あ、はい……」と、気の抜けた返事をすることしかできなかった。

そして、唖然とするフェンブレとモルを残し、すぐさまレフィーラの姿は掻き消える。


(あぁ……感じる!大精霊様と一緒になってるのを、確かに感じる……!)


レフィーラは、ただ一心に、この戦場で命を散らそうとしている全ての「獣人」を救うため、風の女神となって戦場を舞い続ける。


その光景を、ヴォルガルドの兵士たちに守られ、大地に横たわるグレイファングは薄れゆく意識の中で、じっと見つめていた。


(あれが、光)


自らが信じた、力と、誇りと、そして同胞を犠牲にするという覚悟の道。

その全てを嘲笑うかのような、絶対的な、そして慈愛に満ちた光。


(ゼゼアラよ。お前の言っていた、『新たな可能性の光』とは……あの、風の女神のことだったのか……?いや、違う……。あのエルフの小娘の奥に、もっと、もっと大きな……?)


グレイファングの隻眼に、初めて自分たちが選んだ道以外の「可能性」が、おぼろげながら映り始めていた。


そうして、翠色の暴風が戦場を蹂躙する様を──ギエンは戦慄しながら見つめることしかできなかった。


「……なぜだ!?なぜ、大精霊が、こんな場所に……!?」


あまりの殲滅速度に、シャドリオスを召喚する『闇の力』の供給が、全く追い付かない。その力の源も、既に残り僅か。

このままでは、敗北は必至——。


(あり得ん……あり得ん!全て、私の手中に収まっていたはずだ!全てが計算通りだったはずだ!それが、何故──)


ギエンが屈辱と焦燥にその顔を歪めた、まさにその時であった。


「──風はね、いつだって、誰にでも平等に吹くってこと、知ってた?」

「!!」


音もなく、ギエンの目の前に、風の衣を纏ったレフィーラがふわりと舞い降りる。

気づけば、あれほど戦場を埋め尽くしていたはずのシャドリオスの軍勢は一体残らず浄化され、消え失せていた。


「善き者には、背中を押す優しい追い風を。悪しき者には、その身を切り裂く、厳しい向かい風が」


レフィーラは手に持つ精霊弓を、静かにギエンへと向ける。

華奢な身体から放たれる、風の大精霊の神々しいまでの威圧感に、さしものギエンも一歩後ずさった。


「──そして!今の貴方には、裁きの嵐が吹き荒れる!」


レフィーラの凛とした宣言と同時に、彼女の全身から翠の魔力が吹き荒れた。

大草原に生きる全ての命の怒りを乗せて、裁きの風が吹く──。


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