第百五十話
戦場を支配していたのは、絶対的な静寂。
先ほどまでの雄叫びも、剣戟の音も全てが嘘のように消え失せ、敵も味方もなく全ての獣人が、目の前で起きた信じがたい光景に、呆然と立ち尽くしていた。
「おや、どうしたんです皆さん。そんなに目を丸くしちゃって」
静寂を破ったのは、ギエンの芝居がかった甲高い声だった。
「ア、アンタ……!一体、何を……!」
レフィーラのわななく声が、静まり返った戦場に響く。
瞳には、目の前の卑劣な裏切り者に対する怒りと驚愕の色が浮かんでいた。
しかし、彼女がその手に持つ弓を再び構えるよりも、早く。
主君を目の前で討たれた、狼の戦士たちが我に返った。
「「「グオオオオオオオオオッ!!」」」
それは仲間を傷つけられ、逆上した獣そのものの咆哮。
「ギエン……貴様、自分が何をしたか、分かっているのかっ!?」
ヴォルガルドの大戦士の一人が血走った眼でそう叫ぶと、それを合図にヴォルガルドの兵士たちが復讐の化身となってギエンへと殺到した。
銀色の津波は、ただ一匹のハイエナを、肉片すら残さぬほどに食い千切ろうと、牙を剥き出しにして迫っていく。
だが、ギエンは口元に浮かべた卑屈な笑みを崩さなかった。
彼は、面倒な虫でも払うかのように、細い腕を禍々しい闇の力に染め上げる。
そして——
「シャッ!!!」
一閃。
それだけだった。たったそれだけの、あまりにも無造作な一振り。
先頭を駆けていた屈強なヴォルガルドの戦士たちが、紙切れのように身体を容易く引き裂かれ、鮮血を撒き散らしながら物言わぬ骸と化していく。
「ひっひひひ……弱い、弱い。グレイファング様ならともかく、貴方たちのようなただのオオカミなんて、この私のような『雑魚』でも、簡単に殺せるんですよぉ……」
信じがたい光景。そして裏切り者の嘲笑。
ギエンの裏切りと、得体の知れない禍々しい力に、ヴォルガルド軍の兵士たちの目は、怒りを通り越した純粋な憎悪に染まっていった。
一方、同盟軍の兵士たちは突然現れたハイエナの獣人が、ヴォルガルド兵を無慈悲に虐殺するという、不可解な光景に困惑するばかり。
「さぁて、トドメを……」
自らが引き裂いたヴォルガルドの戦士たちの骸を見下ろし、倒れ伏すグレイファングを嘲笑い、甲高い高笑いを続けるギエン。
だが、その横顔を突如として一筋の光の矢が凄まじい速度で掠めていった。
「おっと!?」
ギエンの頬に、赤い一筋の線が走る。
驚いて視線を向けると、そこには瞳に氷のように冷たい怒りを宿らせた、エルフの守護者の姿があった。
「味方を裏切って……!しかも、誇りを賭けた神聖な決闘を汚すなんて!アンタだけは、絶対に許さない!」
レフィーラの凛とした声が、戦場に響き渡る。
その言葉と行動が、その場にいる全ての獣人たちの心を一つにした。
「なにがなんだか分からねぇが……テメェだけは、殺すべきだってのは分かるぜ……!」
イルデラが、怒りにその巨躯を震わせながら叫ぶ。
「あぁ……こいつは、許さん」
ゼゼアラもまた、静かに濃密な殺意を、ギエン一人に向けていた。
ヴォルガルドの憎悪と、同盟軍の義憤。二つの巨大な感情の奔流が今、卑劣なる裏切り者へと、一斉に向けられる。
そんな中──
「そ、そうだそうだ!許せんぞ、貴様!このわしが成敗してくれるわ!」
フェンブレは、周りの猛者たちに負けじと慌てて巨大な槍を構え、震える声でそう叫んだ。
しかし、その内心では冷や汗をだらだらと流しながら、心底安堵していた。
(あ、危なかった!もし、わしがあの時、本当に横槍を入れて、グレイファングにとどめを刺していたら……今頃、あのハイエナと同じ目にあっていたやもしれん……!何もしなくて、本当によかった!)
小心者ならではの安堵のため息は、幸いにも、誰の耳に届くこともなかった。
フェンブレとは対照的に、ハイエナの獣人ギエンは、四方八方から突き刺さる、数万の獣人たちの純粋な殺意に全く臆する様子を見せなかった。
彼は、心底おかしなものを見るかのように首を傾げ、甲高い声で言う。
「おやおや、これはこれは。一体どういう風の吹き回しです?ほんの数分前まで、互いの喉笛を食い千切らんと、それはもう見事に殺し合っていた皆さんが、今度は示し合わせたかのように、私一人にそんな熱烈な視線を向けてくださるとは」
ギエンはそこで一度言葉を切ると、くつくつと喉の奥で笑い声を漏らした。
「ひょっとして、これが噂に聞く『仲直りの儀式』というやつですか?だとしたら、随分と物騒な儀式もあったものですねぇ。まるで、偽善者の大安売りじゃあないですか。ひっひひひ」
「……例え殺し合いだとしても……その中に、誇りや敬意がなかったら、それはただの獣の争いじゃない!アンタのやったことは、それよ!」
レフィーラは怒りに震える声で叫んだ。
だが、そんな彼女の怒りの言葉さえもギエンは楽しむかのように、ひらりとかわす。
「誇り?敬意?うーん……素晴らしい言葉ですなぁ!──で?その素晴らしい『誇り』とやらで、一体どれだけの血が、この大地に流れたのかな?気高い『敬意』とやらの果てに、今まさに、そこのオオカミの王は死にかけているというのに……。まぁ、おかげで?この通り、私の計画は実にスムーズに進んでおりますがねぇ」
その挑発的なギエンの言葉に、レフィーラやイルデラが怒りに任せて飛び出そうとした、まさにその時。
それを制したのは、誰よりも深い傷を負った男の声だった。
「ま、待て、お前たち……油断、するな……」
部下の狼たちにその身を介抱され、ごぼりと絶えず血を吐きながらも、瀕死のグレイファングが叫んだのだ。
「ギエンという男は……勝算もなしに、姿を現すような……間抜けな男では、ない……」
その言葉に、ギエンは最高の賛辞でも送られたかのように、満面の笑みでぱちぱちと手を打ち鳴らした。
「……素晴らしい。素晴らしい!いやはや、流石は獅子王が最も信頼した右腕、グレイファング様!そこにいる、ただ感情的に吠えることしかできぬ有象無象の雑魚どもとは、やはり格が違いますなぁ!」
ギエンは、恍惚とした表情で続ける。
「だからこそ、最初に貴方を仕留めておいて、本当によかった……」
そしてギエンは全身から、禍々しい闇の波動を放ちながら高らかに叫んだ。
「そう、彼の言う通り!この私は、勝算のない戦いはしない性質でしてねぇ……!」
その言葉が、絶望の始まりを告げる号令であった。
ギエンの言葉と同時に、戦場の地面の至る所が底なし沼のように、不気味にそして急速に黒く変色していく。
「な、なんだ……!?」
「影……?いや、違う……!」
そして、黒い大地を突き破り、無数の、異形の闇の兵士──シャドリオスたちが、地獄の底から這い出てきたのだ。
「シャ……シャドリオス……!?な、なんで、こんなところに……!?」
レフィーラが、驚愕に染まった声を上げる。
だが、彼女の声はすぐに無数の悲鳴にかき消された。
「あ、あぶな──ぐわぁ!?」
「気を付けろ!こいつら、襲ってきて……!?」
あっという間に戦場はシャドリオスの大群で埋め尽くされ、彼らは敵も味方も関係なく、近くにいる獣人たちに、鋭い爪を振るい次々と襲い掛かり始める。
誇り高き戦士たちの決闘の場は、一瞬で阿鼻叫喚の地獄絵図と化す──
その中心で、ギエンは両手を広げ恍惚とした表情で叫ぶ。
「ひっひひひ!どうです、どうです!これこそが、私の用意した、本当の戦場!本当の地獄でございますよ!いやぁ、これから、ここにいる誇り高き獣人さんたちを、一人残らず、平等に、無慈悲に皆殺しにするのですから……。最初に、一番面倒なグレイファング様を仕留めておけて、本当に、本当によかったぁ!これで、心置きなく、この虐殺が楽しめますからなぁ!」
ハイエナの狂った高笑いだけが断末魔の悲鳴と共に、血に染まる大草原に響き渡る──。




